メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

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※原宿南教室〒252-0103
神奈川県相模原市緑区原宿南2-26-1

ブログ

一年の計は…

 2023年になりました。兎年。私?年ですが(笑)
一年の計は元旦にあり?あるのかな~?今までも元旦に「よし!今年こそはっ!」と誓ったものですが、年末にはそれさえ忘れてたような人生。とほほほ。
 今年の目標!「来年のお正月も平穏に迎えられること」って駄目ですか?
穏やかに一年を暮らせるなら、それが一番の事です。昨年末に「今年の10大ニュースってなんだろうね?」と二人で考えて、10個もないから3大ニュース(笑)
第一位! 浩子さんが電子楽譜「グイド」を使い始めたこと
第二位! お風呂の換気扇が壊れて新しくなった
第三位! 特になし(笑)
その位に穏やかな一年でした。つまらない?いえいえ。これぞ平穏!

 今までの62年間に、やり残してきたことは山ほどあります。
でもそれを悔やんでもいません。受け入れることができる年齢になって、それを共感できるパートナーと暮らせることが一番です。
 今年も一年、屁理屈ブログにお付き合い下さい!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

歌を弾く

 映像は友人の作曲家、Ikuya Machida君がアレンジしてくれた「ビリーヴ」を陳昌鉉さんのヴィオラを使って、浩子さんと自宅で撮影したものです。
 ヴァイオリンなど楽器を使って「歌」を演奏する場合、特にクラシック歌曲ではなくポップス系の音楽を演奏すると「安っぽく」聴こえてしまうことがあります。演奏技術の不足と、アレンジの稚拙さが原因の場合がほとんどです。
旋律は美しいのに、ピアノのアレンジが…いま百(笑)と言う楽譜がほとんど。
かと思えば、ヴァイオリンが旋律を演奏していたと思ったら、ピアノが旋律を演奏し始めて、ヴァイオリンは「ひゃらひゃらら~♪ぴろりろり♪」もしかしたら?オブリガードのつもり?なのか意味不明な「別物」をひかされると言う「あるある」なアレンジ。ヴァイオリンにメロディー弾かせてくれ!(笑)
 綺麗に弾けば、綺麗な曲がたくさんあります。
もっと「現代ポップス」に光を当てましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリス 野村謙介

上質の「とろけるプリン」か「しっかり羊羹」か

 上の動画は、オイストラフ。下の映像はムターの演奏です。
どちらも大好きな演奏家なのですが…弓の「使い方」音の「出し方」がまったく違う二人に感じます。
・オイストラフは「口に入れると溶ける、究極のなめらかプリン」のイメージ。
・ムターを例えるなら「きめ細かいずっしり身の詰まった羊羹」のイメージ。
当然、お二人ともに曲によって、音色を使い分けられる技術をおもちです。
むしろ「好み」と言うか「デフォルトの音色」とでもいえる音の出し方が違うように感じます。
 リサイタルで演奏するヴァイオリン・ヴィオラの音色を考えていて、どちらの「食感」が似合うのか?さらに言えば、その音の出し方で、客席にどう?響くのか?結局、どちらのひき方もできるようにして、会場で誰かに聞いてもらって確かめるしかないのですが…。
 特にヴィオラで「羊羹」的な演奏をすると、チェロの音色に似せようと「足掻いている」「無理をしている」ようにも聞こえてしまいます。一方でヴァイオリン特有の「弓の圧力と速度」は、実際に使っている楽器と弓とのお付き合いが長いので、客席への音の広がり方も想像ができます。
 好みが分かれます。「プリン」を「軽すぎる」「弱い」と感じる人もいます。「羊羹」を「息が詰まる」「潰れている」と感じる人もいます。
どちらおも「美味しい」のです。食感が違うのです。甘さの問題ではありません。さぁ困った(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏方法の「原点」に立ち戻る

 写真は恩師久保田良作先生が、箱根で行われた門下生の夏合宿で合奏を指揮されているお姿です。日本を代表する素晴らしいヴァイオリニストとして、演奏活動も続けられながら、多くの弟子たちに熱く、そして優しく「音楽」を伝えられた指導者でもありました。桐朋学園大学の弦楽器主任教授としても、多忙な日々を送られていました。レッスンを離れると、人を気遣い優しい言葉で語り掛けてくださる「憧れの人」でした。

 「久保田門下」で最も不出来の弟子だった私が、今「デュオリサイタル」を開き大学を卒業して40年近く経っても、音楽に関わっています。
演奏技術を身に着けることは、その人の生涯をかけた行為です。「すべて身に着けた」と思える日は来ないものでしょう。それでも、あきらめずに練習することが演奏家の日常だと信じています。
 練習をする中で、新しい「課題」を見つけることも演奏家にとって日常の事です。その課題に向き合いながら考えることは?
 「原点に帰る」事だと思っています。
何を持って原点と言うのか?自分が習ったヴァイオリンの演奏技術を、思い起こせる限り思い出して、師匠に言われたことを「時系列」で並べてみることです。
 その意味で、私は幸運なことに久保田良作先生に弟子入りしたのが「中学1年生」と言う年齢ですので、当時の記憶が駆るかに(笑)残っています。
 「立ち方」「左手の形」「弓の持ち方」「右腕の使い方」
教えて頂いたすべての事を記憶していない…それが「不出来な弟子」たる所以です。それでも、レッスンで注意され発表会で指摘される「課題」を素直にひたすら練習していました。「できない」と思った記憶がないのは、出来たからではなく、いつも(本当にいつも)言われることができなかったからです。要するに、出来ていないことを指摘されているので「出来るようになった」と思う前に、次の「出来ていないこと」を指摘される繰り返しだったのです。それがどれほど、素晴らしいレッスンだったのか…今更ながら久保田先生の偉大さに敬服しています。
 教えて頂いた演奏技術の中に、私が未熟だった(今もですが…)ために、本質を理解できずに、間違った「技術」として思い込んでいたもの=恐らく先生の糸とは違う事も、何点かあります。それをこの年になって「本当は?」と言う推測を交えて考え真押すこともあります。

 自分が習ったことのすべてが「原点」です。師匠に教えて頂いたことを「できるようになっていない」自分を考えれば、新しい解決策が見えてきます。
 自分にとってどんな「課題」も、習ったことを思い出して「復習」すれば必ず解決できる…できるようにはならなくても、「改善する」ことはタイ?かです。
信頼する師匠から受けた「御恩」に感謝することは、いつになっても自分の演奏技術、音楽を進化させてくれるものだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


音楽の「揺らぎ」とは?

https://youtube.com/watch?v=8bonX5-kuFQ

 映像は木曽福島でのコンサートで演奏した瑠璃色の地球。ヴィオラとピアノで演奏しました。
 クラシック音楽とポピュラー音楽の「違い」は様々あります。例外も含めて考えれば厳密に「違い」を言葉にすることは不可能かもしれません。
 クラシック音楽を学ぶ時、テンポを「維持する」事と「揺らす=変える」事を多く学びます。一定の速さで音楽を演奏する技術と、その真逆に意図的に速さを変える技術はクラシック音楽のほとんど全てで用いられる技術です。一人だけで演奏している時にも、アンサンブルやオーケストラで誰かと一緒に演奏する場合にも必要不可欠な技術です。トレーニングの仕方も様々あります。メトロノームを使った練習や、時計の秒針を使ってトレーニングすることもできます。
 一方、ポピュラー音楽の場合に「一定の速さ」で演奏することは、多くの曲で「当たり前」の事です。その昔、レコーディングスタジオでヴァイオリンを演奏するお仕事をしていた際に、演奏者がモニター(ヘッドフォン)で聴く音を選べました。「ドンカマ」と呼ばれる電子メトロノーム音を選ぶこともできました。また、ヴァイオリンより先に録音されたドラムの音やベースの音を選択することもできました。要するに「指揮者不要」だったわけです。この方法で色々な楽器を順番に録音していく方法を「重ね録り」「マルチトラック」などと呼びます。一度に「せ~の!」で録音する方法しかなかった時代には、当然考え付かなかった録音方式です。この方法なら、それぞれの楽器を別々に録音するので「録り直し」の回数が格段に減る上に、あとからヴァイオリンパートだけをやり直すことも、音量のバランスを変えることも自由自在になります。すべての楽器の録音が終わって出来上がったもの=メインボーカルが入っていないものが「カラオケ」と呼ばれるものです。現在のカラオケと言う言葉は、この録音方式で生まれた言葉なのです。
 言うまでもなく、この方式で録音サウル場合、途中でテンポが「揺れる」のは編集する人にとっても、演奏する私たちにとっても「煩わしいことでしかありませんでした。現代は録音がすべて「データ」つまり電気信号としてコンピューターに記録される方式です。昔は「テープ」を使って録音するのが当たり前でした。一秒間に38センチの速度で録音ヘッドを通過する「テープ速度」で録音していました。巨大な10インチのリールに巻き付いたテープでも、約45分しか録音出来ません。録音するのも大変は事だったのです。
 その限られた条件での録音を効率化するためにも、テンポの揺れは「御法度」だったのポピュラー音楽です。

 クラシック音楽の場合、テンポの揺らぎ=揺れは演奏家の「こだわり」で生まれます。テンポを変えずに演奏する時にも「意図」があります。
なんとなく、テンポが変わってしまう…駈け出したように速くなったり、いつの間にか遅くなったり…無意識に変化することは「ダメ」とされています。だからと言って、先述のポピュラー音楽のようにテンポをキープさえしていればよいか?と言うと、それも「ダメ」なのです。難しいですね~(笑)
 音楽の揺らぎは、楽譜に書き表される「リタルダンド」や「アッチェレランド」とは根本的に違います。作曲家が指示している速度の変化は、作曲家の感じた「揺らぎ」だと考えています。もちろん、それはとても重要なことですが、どのくらい?「だんだん遅く」「だんだん速く」するのかは、演奏者の「感じ方」で決まります。さらに、楽譜に作曲家が書かなかった「揺らぎ」を演奏者が感じ、表現することは演奏者に許された表現の自由(笑)だと思います。
 指導者によっては「そこで遅くしてはいけない!」とか「もっと速くしなきゃ!」と生徒に自分の感じ方を押し付ける人がいます。正しく伝えるのなら「…私なら」という接頭語を付けるか「例えば」として違う選択肢の速さを生徒に示して、好きなように演奏させるのが正しい指導だと思います。合奏ではそうもいきませんが(笑)みんなが好き勝手なアッチェレランドをしたら、収拾がつかなくなります。二人だけのアンサンブルでも、それぞれに違った「揺らし方」の好みがあります。どちらが正しい…という答えは存在しません。歩み寄るしかありません。
揺らすことが常に心地よい…のではありません。それも大切なことです。
揺れると気持ち悪く感じる場合もあります。逆に、常に同じテンポで揺れずに演奏していると「不自然」に感じることもあります。多くの生徒さんは「揺らす」ことを怖がります。むしろ揺れていることに気付かない場合が多いのですが(笑)意図的に、ある「拍」だけを少しだけ長くすれば、次の拍が始まる時間は後ろにずれる=遅れます。この一拍の「揺らぎ」も立派な揺れなのです。
聴いている人が「自然に感じ」「揺れに気付かない」ことが最も自然は揺らぎだと思います。心地よい揺らぎは、例えれば不規則に吹く「そよ風」の中で感じる感覚です。あるいは、静かな湖面にぷかぷかと浮かんでいる時に感じる「静かなさざ波」にも感じられます。決して「暴風」や「大波」ではないのです(笑)
 怖がらずに実験することです。注意するのは「癖になる」ことです。例えば、小節の1拍目を「いつも遅く入る」癖は無意識にやってしまいます。また、音型に気を取られすぎる場合も「癖」が出ます。上行系クレッシェンドで「いつも遅くなる」のも癖。3連符なのに「1.5:1.5:1」でいつも演奏するのも癖です。
 何度も試してからひとつを選ぶこと。正解はありません。自分の「個性」を違和感なく表現するために、必要な努力だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

デュオリサイタル15迫る

 動画はデュオリサイタル15のご案内動画です。
2022年12月18日(日)午後2時開演 相模原市緑区もみじホール
2023年1月7日(土)午後5時開演 代々木上原ムジカーザで
同じプログラムをホールとサロン、ベヒシュタインのピアノとベーゼンドルファーのピアノで聴き比べが出来ます。
予定している演奏曲
・懐かしい土地の思い出より「メロディー」(チャイコフスキー)
・ノクターン(チャイコフスキー)
・ただ憧れを知る者だけが(チャイコフスキー)
・シュピーゲル・イン・シュピーゲル(アルヴォ・ペルト)
・祈り(ラフマニノフ)
・彼方の光(村松崇継)
・ジョスランの子守歌(ゴダール)
・無言歌(メンデルスゾーン/クライスラー)
・明日(アンドレ・ギャニオン)
・Earth(村松崇継) 他
どの曲も私たちにとって、愛すべき曲たちです。
多くの演奏家と比べて、私たちはすぐに音楽に出来るような技術を持ち合わせていないことを自分でも、互いにも認めています。だからこそ、昨年のデュオリサイタルから1年間と言う時間をかけて、これらの曲に取り組んできました。
 それでも自分たちで完全に満足できる演奏にまで、到達できるかどうか自信はありません。出来ることを出来る限りしています。その努力も他のかたから見れば足りないものかも知れません。自分を甘やかす気持ちではなく「受け入れる」ことも大切なことだと思っています。
 生徒さんに「妥協」と言う言葉の意味をレッスンでお伝えしています。悪い意味で考えれば自分を追い詰めてしまいます。諦めることとも違います。今の自分の力を認め、足りないことを知った上で演奏をする以外に、方法はないと思っています。「完全に満足できるようなってから」と言う考え方こそが、諦めであり現実からの逃避だと思います。そもそも完全な演奏は人間にはできないと思っています。不完全で当たり前だと考えています。
 リサイタルで一人でも多くのかたに、自分たちの音楽を楽しんでもらいたいと願いながら、現実に来場されるかたの人数は、著名な演奏家の方々が開くコンサートとは比較になりません。当然だとも思います。広告にかけるお金もなく、知っている方の数も限られています。「お友達」「先輩」「先生」「生徒」以外の一般のお客様は、有名な演奏家のコンサートや、クラシックファンの喜ぶプログラムのコンサートに足を運ばれるのは当然のことです。来ていただいた方たちに「これだけしかお客さん、いないの?」と思われてしまうことが申し訳ない気持ちです。それが現実なのでお許しください。
 こんな私たちですが、ぜひ生の演奏をお聴きいただき、ご感想を頂ければと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
ピアニスト 野村浩子

客席で聴こえるヴィオラとピアノ

 映像は11月23日(祝日・水曜)に木曽町文化交流センターで開催されたコンサートよりヴィオラとピアノで演奏した村松崇継さん作曲の「Earth」
撮影してくださったの福島小学校の教職員。客席の片隅からビデオカメラで圧営してくださったものです。カメラに付いたマイクで録音されているので、客席に聴こえているバランスに近いものです。

 この曲について以前のブログでも書きましたが、村松崇継さんがフルートとピアノのために作曲され、ご自身のライブコンサートでチェリスト宮田大さんと共演されている動画に触発されて(笑)ヴィオラで演奏できるようオリジナルでアレンジして者です。宮田さんはご自身のコンサートツァーで演奏されているようです。ピアノの「楽譜」がとても音符の多い(笑)、かなり派手目な曲なので、弦楽器でメロディーを演奏すると、二つの楽器のバランスが心配でした。
 この動画をご提供いただき、改めて聴いてみると「思ったよりヴィオラが聴こえてる!」ことにやや驚きました。頑張らなくても大丈夫なのかも!って今更思う(笑)リサイタルでも演奏する予定なので、とっても有意義な動画になりました。
 うーん。それいにしても、私だけを撮影すれたのは辛い…。カメラのアングル的にピアニストが映りこまなかったようですが、鑑賞には堪えません。見ないで聴いてください(笑)

 こちらも同じコンサートアンドレ=ギャニオンの「明日」をヴィオラとピアノで演奏したものです。以前、ヴァイオリンで演奏したものですが、ヴィオラの太さ、暖かさ、柔らかさも好きです。間奏で私は何をしたものやら(笑)
 今回、リハーサル時にホールの響きを確認してくれる人がいなかったため、とても不安でした。残響が短い多目的ホールだったこともあり、客席に届く音がどうなのか…録音されたものを聴くことで初めてわかるというのも辛いものです。
 来年は「木曽おもちゃ美術館」の残響豊かなホールで演奏予定で、今から楽しみにしています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

●●記念オーケストラに物申す

https://youtube.com/watch?v=jyL6QmdLg90

 映像は1992年松本のキッセイ文化ホールでの「サイトウキネンオーケストラ」の演奏。このホールが出来たばかりのこの年、私の母校でもある桐朋学園創始者の斎藤 秀雄氏を偲んで開催された演奏会。1974年に逝去された斎藤 秀雄氏を私は直接存じ上げません。指導を受けたこともありません。ちなみに私は桐朋学園の第25期生です。小澤征爾氏が第1期生なので私の25歳「大先輩」でもあります。この演奏会が行われた30年前、私は32歳。小澤征爾氏は57歳。
高校大学生の頃に「小澤先生」として学生オーケストラの指導をされていた当時の事を今でも鮮明に覚えています。高校入学当時15歳の私、小澤先生は39歳。思えばまだ若い先生でした。出来の悪い学生だった私にとって、小澤先生の活躍は憧れでもあり雲の上の存在でもありました。尊敬する気持ちは今も変わりません。
 ただ、今現在もこの「サイトウキネン」が演奏を行っていることに、大きな違和感を持っています。私はサイトウキネンに「呼ばれる」ような技術ではないので「部外者」です。それを「ひがみ」と思われても私は構いません。桐朋学園の一人の卒業生として、また今も多くのアマチュア演奏家と共に音楽を愛好する人間として、私立学校の創始者をオーケストラの冠に付けて、演奏していることが果たして純粋な「恩師への感謝」と言えるのか疑問に感じます。
 桐朋の高校(桐朋女子高等学校音楽科)に入学する以前に、子供のための音楽教室などで斎藤 秀雄氏の指導を受けていた人もいるとは思います。とは言え、その人たちは当時13歳以下の子供だったことになります。つまり、斎藤 秀雄氏に指導を受けた「生徒」たちの最年少が現在(2022年)63歳もしくは64歳のはずです。一期生は現在、86歳もしくは87歳です。この第一回「サイトウキネン」が行われた当時から30年間という年月が経って、諸先輩が演奏されていることは素晴らしいことだと思います。その反面、現在演奏しているメンバーの中には多くの「斎藤 秀雄を知らない人」がいるのも事実です。第一回の演奏会の時から数名はそうした演奏者もいましたが、現在は?そして今後は?
 さらに、誰がこのオーケストラに参加する「お許し」を与えているのかという素朴な疑問です。「上手な人を集めているだけ」と言われればそれまでです。それが何故?「サイトウキネン」なのか意味不明です。一言で言ってしまえば「誰かのお気に入りが集まっているオーケストラ」にしか思えないのです。それでも演奏技術が高ければ良い…それならそれで「サイトウキネン」と言う学校名を連想させる名前を使うのはいかがなものでしょうか?
 桐朋学園同窓会の幹事として、意見を一度だけ発言したことがあります。
「卒業生の中で一部の人だけの活躍を称賛し、応援するのは同窓会として正しいのか?」という意見です。私を含めて、多くの桐朋学園卒業生が「サイトウキネン」や「●●周年記念コンサート」とは無縁の生活をしています。それが「能力が低いから」「努力が足りないから」と同窓会が片づけて良いとは思いません。
 学校は学ぶ生徒・学生と教える教員、支える職員で成り立つ「学びの場」です。そこで学んだ人たち、教えた人たち、働いた人たちすべてが「同じ立場」であるはずです。卒業し有名になった人を「優秀な卒業生」「卒業生の代表」とする発想を斎藤 秀雄氏は望んでいたのでしょうか?少なくとも私の知る斎藤 秀雄先生は「できの良い子は放っておいてもうまくなる。出来の悪い子を上手にすることこそが教育の本質」と考えていた教育者だと思っています。一期生である小澤征爾氏の世界的な活躍を強く望まれた気持ちは理解できます。そして、日本に世界で通用する演奏家を増やしたいと言う熱意も素晴らしいことだと思います。
 私には●●記念オーケストラや●●フェスティバルに「個人」を崇め奉るのは「尊敬」とは意味が違うように感じます。収益事業として利益を、母校の後進の育成に充てるのであれば「桐朋学園卒業生オーケストラ」として学校法人の管理下に置くべきです。メンバーの人選や基準、報酬も明確にすれば個人名を頭に付ける必要もなく、演奏者が入れ替わっても何も問題はないのです。
 まさかこれから先も、同じメンバーで演奏活動を続けるとは思えませんが、いずれ斎藤 秀雄氏に指導を受けた人は誰もいなくなる日が近くやってきます。「サイトウ」が「オザワ」になっても結果は同じです。
 音楽家は生前に、どんなに素晴らしい業績を残したとしても、いずれ世を去るのです。その後に、音楽家の名前を使った「コンクール」が多くあります。特に作曲家の場合には、残された作品を演奏することが大きな意義になります。
他方で演奏家の死後に「●●記念」や「●●管弦楽団」は世界的に考えても、ほとんど受け入れられていません。演奏家の「業績」は生きて演奏している間に評価されるものです。教育者の業績は多くの場合「学校」として継承されるものです。福沢諭吉の慶應義塾もその例です。桐朋学園もその一つです。斎藤 秀雄氏が自分の名前を学校名にしていたのなら、また話は少し違いますが少なくとも「オーケストラ」に個人…それが故人でも、現役の人でも「人を記念する」こと自体が間違っていると私は感じています。
 卒業生の癖に!母校愛がない!とお叱りを受けても、ひがみ根性だ!と言われても私は自分の考えでこれからも生きていきます。そして卒業した母校から、さらに新しい音楽家が生まれることを切に願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうとございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

うまくなるってどんな意味?

 映像はもう8年も前の演奏動画です。ヴィオラで演奏したシンドラーのリスト。自分の演奏を客観的に観察することは、演奏者にとって必要なことです。
自分以外の人の演奏を聴く時と何が違うのでしょうか。

 自分の演奏が何年練習しても「うまくならない」と感じるのは私だけではないと思います。多くの生徒さんが感じていることのようです。
 生徒さんより長く演奏をしている自分が、なぜ?うまくなっていく実感がないのでしょうか。練習不足もあります。練習方法に問題があることも。意欲が足りないことも。「原因」はいくらでも考えられますが、50年以上ヴァイオリンを演奏しても「この程度」と思ってしまうのが現実なのです。うまくなりたい!と思う自分と、あきらめている自分が葛藤しています。生徒さんには「あきらめないこと!」と言いながら自分が上達していないと感じる矛盾。
 そもそも「うまくなる」ってどんな事を表す言葉なのでしょうか。
「できなかったことができるようになる」うまく弾けなかった小節を、練習して演奏できるようになった…と思っても、本番でうまく弾けていないことを感じる時に感じる挫折感。練習が足りない…ことは事実です。でもね…。
 自分の演奏を昔と今と聴き比べて、どこか?なにか?うまくなったのか、考えることがあります。生徒さんの演奏ならいくらでも見つけられるのに、自分の演奏は「ダメ」なことばかり気になります。昔の演奏の「ダメ」もすぐにわかります。つまり「良くなったこと」が見つからないのです。練習している時には「これか?」「うん、きっとこれだ!」と思っているのに、あとで聴いてみると「違う」気がすることの繰り返しです。一体、自分はなにを目的に練習しているのか…うまくならないなら、練習しても意味がない。練習しないなら人前で演奏することを望んではいけない。音楽に向き合う資格がない。負のスパイラルに飲み込まれます。そんな経験、ありませんか?

 自分の演奏に満足できないから、練習をやめることは誰にでもできることです。一番、簡単に現実から逃避する方法です。
 自分がうまくなったと思える日は、最後まで来ないのが当たり前なのかもしれません。うまくない…のは、他人と比較するからなのです。自分自身の容姿に、100パーセント満足する人はいないと思います。性格にしても、健康にしても同じです。他人と比べるから満足できないのです。
 今日一日、過ごすことができた夜に「満足」することがすべてですね。
「欲」は消せません。生きるために必要なことです。本能でもあります。
欲を認めながら、自分の能力を認めることが生きること。それを、もう一度思い返して練習を繰り返していきたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンとピアノの音量

 映像はデュオリサイタル10代々木上原ムジカーザで演奏した、エンニオ=モリコーネ作曲「ニューシネマパラダイス」です。私がかけているメガネは「網膜色素変性症」という私の持つ病気の症状のひとつ「暗所で見えない」ことを解決するために開発された特殊なメガネです。
 さて、今回のテーマを選んだ理由は?

 練習を含めて、ヴァイオリンとピアノで演奏する時に、それぞれの演奏者に聴こえる「自分の音」「相手の音」のバランスと、客席で聴こえる両者=ヴァイオリンとピアノの音量のバランスの違いについて。以前にも書きましたが、私の場合練習していると自分の音の大きさに不安を感じることが増えた気がしています。聴力の問題ではなく、感覚的な変化です。演奏する曲によって、ピアノもヴァイオリンも音量が変わることは当然です。特に「聴こえやすい音域」さらに「同時になるピアノの音の数」は演奏者が考える以前に、楽譜に書かれていることです。それを音にした時、客席にどう聴こえるか?までを考えて楽譜が書かれているのかどうかは、ケースバイケース。どう演奏してもヴァイオリンの音がピアノの音に「埋没=マスキング」される楽譜の場合もあります。いくら楽譜上にダイナミクス=音の大きさの指示が書いてあったとしても、ピアノが和音を連続して速く弾いた時の「ピアニッシモ」の下限=最小限の音の大きさと、ヴァイオリンが低い音で演奏した「ピアニッシモ」のバランスを取ることは、物理的に不可能です。言ってしまえば「楽譜を書いた人の責任」でもあります。
 演奏すれ側にしてみれば、自分の音と相手の音の「バランス」を常に考えながら演奏することは、思いのほかに大きな負担になります。オーケストラの場合には指揮者がバランスを「聴いて」指示し修正できます。弦楽四重奏の場合、同じ弦楽器での演奏なので、音量のバランスは比較的容易にとれます。
 ピアニストに聴こえる「バランス」とヴァイオリニストに聴こえる「バランス」は当然に違います。経験で自分と相手の音量の「バランス」を考えます。
そもそもピアノとヴァイオリンの「音色」は音の出る仕組みから違いますから、聴く人には「違う種類の音」として聴こえています。ただ同時に聴こえてくるわけで、どちらかの音が大きすぎれば、片方の音は聞き取りにくくなります。
ピアノとヴァイオリンは「音源=弦の長さと筐体の大きさ」が圧倒的に違います。さらにピアノは「和音」を演奏し続けることがほとんどなのに対し、ヴァイオリンは「単音」を長く・短く演奏する楽器です。構造も音色も違う2種類の楽器が「一つの音楽」を演奏することの難しさと同時に「組み合わせの美しさ」が生まれます。それは味覚に似ています。甘さと同時に「しょっぱさ」を加えると、より強く甘みを感じます。コーヒーは苦みと酸味のバランスで味が決まります。ピアノとヴァイオリンの「溶けた音」を楽しんで頂くための「バランス」が問題なのです。

 物理的に音圧の小さいヴァイオリンを担当する(笑)私として、ピアニストの演奏する音の中に溶け込みながら、かつ「消えない」音量と音色を手探りで探します。それはピアニストも同じ事だと思います。お互いが手探りをしながらの「バランス」なのです。ただ、それぞれの楽器が演奏する中での「変化」も必要です。音色の変化、音量の変化。ヴァイオリンは音域が高くなるほど、聴感的に大きく聴こえる楽器です。逆にヴァイオリンの最低音はピアノの音域の中で、ほぼ中央部分の「G」ですから、音域のバランス的にもピアノの和音にマスキングされ聴感的に弱く聴こえてしまいます。
 練習の段階でヴァイオリン「単独」での音色と音量の変化を考えます。
ピアノと一緒に演奏してみて、その変化が効果的な場合もあれば、消えてしまう場合もあります。ピアニストの技術以前に「楽譜」の問題の場合がほとんどです。ピアノの「和音」と「音域」を、ピアノ単独で考えた場合に最善の「楽譜=最も美しく聴こえる楽譜があります。それがヴァイオリンと一緒に演奏したときにも「最善」か?と言えば必ずしもそうではないと思います。
 ヴァイオリニストの我がまま!(笑)と言われることを覚悟のうえで書けば、ヴァイオリンとピアノの「音圧の違い」を踏まえたアレンジ=楽譜を演奏する時の自由度=バランスを考えなくても演奏できる場合と、常に「これ、ヴァイオリン聴こえてるのかな?」と不安に感じ、弓の圧力を限界まで高くし、ヴィブラートをめいっぱい(笑)かけ、弓を頻繁に返す演奏の場合があります。どちらも「楽譜通り」に演奏したとしても、お客様が感じる「音の溶け方=混ざり方」の問題です。演奏者に聴こえるバランスではないのです。
 自分の音と、相手の音のバランスはホールによっても変わりますから、神経質になってもよくないと思います。ある程度の「当てずっぽ=勘」で演奏するしかありません。ただ自分の演奏が「平坦」になってしまわないように気を付けて演奏したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

長野県木曽町コンサート終了

 2022年11月23日(祝日)長野県木曽町「木曽福島」でのコンサートを無事に終えました。主宰された木曽福島町生涯学習課の皆様、会場にお越し頂いた多くのお客様に心から感謝を申し上げます。昨年11月に長野県「キッセイ文化ホール」主催で実施された同じ会場でのコンサートを今年は木曽町が引き継いで開催してくださいました。来年もまた、開催していただけることになりました。

 昨年は相模原と木曽福島を「日帰り」と言う強行スケジュールでしたが、今年は前泊することにして11月22日昼間、八王子から特急あずさに乗って塩尻~中央本線特急しなので現地に向かいました。

 木曽町が予約してくださった宿「御宿蔦屋」伝統と風情を感じる中に、新しい設備とおもてなしの心、素晴らしいお料理の旅館でした。駅にお迎えに来てくださった木曽町生涯学習課のかたに、この宿に行く前に是非!見て欲しい施設があるのでご案内したいとのお話で、11月19日にオープンしたばかりの施設「木曽おもちゃ美術館」へ。廃校になった小学校を使った、木曽ヒノキをふんだんに使った「木のおもちゃ」で子供も大人も心から楽しめる素晴らしい美術館。
到着したときにはすでに閉館していましたが、反省会をされているスタッフの皆様に出迎えられ案内された、「元体育館」の天井を取り外し、階段状の木のベンチを客席にしたホール。足を踏み入れた瞬間に感じた「木の残響」は、国内のどのコンサートホールにも勝る、物凄く自然で豊かな響き!あまりの興奮を抑えきれず、持っていたヴィオラとヴァイオリンでステージに置かれていた「小学校で20年前まで使われていた」アップライトピアノを使って数曲、演奏させて頂くことになりました。施設で働くスタッフが全員(笑)をお客様にしてのコンサート。演奏中からあちこちで聴こえるすすり泣きの声。皆さんが開館に向けて日々疲れ聴いておられたらしく、こんなホールだったんだ!という感動もあっての涙。「写真とっても良いですか?」「どーぞ!」「動画とっても良いですか?」「どーぞ!」「SNSにアップしても良いですか?」(笑)「どーぞどーぞ!」という事で、アップされた動画がこちら。

https://www.instagram.com/reel/ClR3P_OBj1a/?utm_source=ig_web_copy_link&fbclid=IwAR2T76JIaUQ-5GmJpRrv-tpzZv5Jo5S6KUZ-zVnOKkWlldO9DlZotnVDJLg

 見学と演奏を終えて旅館で休み、翌日は朝から雨。おいしい朝食を頂き、歩いても2分ほどの演奏会場「文化交流センター」に木曽町の車で(笑)移動。
 ホールには大昔のスタインウエイが私たちを迎えてくれました。このピアノも廃校になった小学校の体育館に眠っていたもの。昨年私たちが気付くまで、木曽町長、教育長も誰もその価値を知らなかったと言う事実(笑)
 リハーサルを終えて、浩子さんが居残りリハの動画。

・パガニーニの主題によるラプソディ
・椰子の実
・彼方の光
・Earth
・明日
・アニーローリー
・瑠璃色の地球
・美しきロスマリン
・アリオーソ
・ハンガリー舞曲第5番
アンコールに応えて
・我が母の教え給いし歌
・ふるさと
12曲を木曽町所有の陳昌鉉さん製作のヴァイオリンと、愛用のヴィオラこれも陳昌鉉さんの2010年製作の楽器…で演奏しました。
 木曽福島では「木曽音楽祭」と言う伝統的なクラシック音楽フェスティヴァルが介されていますが、私たちのコンサートは「身近に感じるコンサート」として、クラシック以外の音楽も町民の方々に「無料」で楽しんで頂くイベントです。
 来年、先述の木曽おもちゃ美術館でもぜひ!コンサートをと言う話も進んでいます。また楽しみが増えました。
 最後にコンサートに来てくださった皆様、木曽町の皆様に心よりお礼を申し上げます。
 お読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

二刀流って二硫か?(笑)

 写真はどちらも陳昌鉉さんの 製作された楽器です。
木曽福島で開催されるコンサートでこのヴァイオリンとヴィオラを使用します。
ヴァイオリンは陳昌鉉さんが名誉町民である木曽福島町に寄贈された楽器です。
縁があって昨年に続き2度目の演奏になります。

 なぜ?わざわざヴィオラの演奏もするの?ヴァイオリンだけじゃダメなの?
そう思われても当たり前ですね。
 ヴァイオリンの音色とヴィオラの音色を、一回のコンサートで楽しめる…これも「あり」だと思うのです。もちろん、違う演奏者が演奏するケースもあります。ただ、同じ演奏者が「持ち替え」て弾き比べ=聴き比べすることで、楽器による「違い」が明確になります。
 私自身から考えれば、同じ曲でもヴァイオリンで演奏した「音楽」とヴィオラで演奏した「音楽」が違う事を感じています。単に音色や音量の違いだけではありません。それほどに違う2種類の楽器であることを、聴いてくださるお客様に体感していただくことで、アンサンブルやオーケストラでなぜ?ヴィオラという楽器が必要なのかも理解されるのでは?とも思っています。
 ヴィオラはヴァイオリンよりも個体差の大きい楽器です。自分の気に入ったヴィオラに出会う確率は、ヴァイオリンよりも低いかも知れません。そもそも製作される本数が違います。ヴィオラの「良さ」を知ってもらうことで、ヴァイオリンの良さも再発見されるかな?と思っています。
 ヴァイオリンとヴィオラの演奏方法が「違う」のは当然です。「似て非なるもの」なのです。ヴィオラは「ヴァイオリンがうまくない人が演奏する楽器」と言う大昔の定説があります。演奏方法が似ていて、弾き手が少ないから…確かにそんな時代もありました。でも本当に美しいヴィオラの音色を聴いてもらえれば、その間違った説が覆せると信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽ファンを増やすために

 映像は昨年11月に実施された木曽福島でのコンサートの模様。この時はキッセイ文化ホールの主催によるコンサートでした。今年は同じ会場で、木曽福島町主催によるコンサートとなります。入場無料で100名のお客様が来場されます。
「クラシックコンサート」の明確な基準はありませんが、クラシックの音楽も演奏します。それが「つまらない」と思うかたは元より聴きに来られることは無いかもしれません。私たち夫婦のコンサートは「音楽ファンを増やす」事をコンセプトにしています。「お子様向けコンサート」ではありません。「音楽鑑賞教室」でもありません。ポップスだけのコンサートでもない「聴いて楽しめる」コンサートを目指しています。

 メリーオーケストラの演奏会も、デュオリサイタルも基本的には同じ考え方をもとにしています。メリーオーケストラはアマチュアとプロが「一緒に演奏する」と言う変わった形態の演奏です。私たち夫婦が「プロ」としての能力・技術があるのかないのか…それは私たちが決めることではありません。お客様の「満足度」がすべてだと思っています。コンサートを聴いて「楽しめた」と思える時間だったか?それが私たちへの評価だと思っています。クラシックだけを演奏するコンサートが好きな人にとっての「音楽」と、そうでない人が初めて体験する「音楽」は同じ演奏でもまったく違う価値のものになります。期待するものが違うのです。クラシック音楽のコンサートを楽しみにする人にも「初めて聴くクラシック」があったはずです。また「好きになったきっかけ」もあったはずです。
その出会いがまだ、ないという人が大多数です。まして「クラシック」と言う言葉に「古い」「つまらない」「長い」「マニアの好きな」と言うネガティブなイメージが付きまとう人も多くいます。「懐石料理」と聴くと「高級」「お金持ちの食べるもの」と言うイメージがあるのと似ています。
 コンサートのイメージを身近なものにする「コンサート」ですそ野を広げます。その後は、他のかたにお任せします!(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自由な想像力と協調性

 映像は台湾生まれでオーストラリア国籍のヴァイオリニスト、レイ=チェンが演奏するシベリウス作曲のヴァイオリンコンチェルト。何度聴いても素敵な演奏だと思います。他の同世代のヴァイオリニストと比べて「インパクト」が圧倒的に強い!1楽章が終わって拍手をしたくなる観客の気持ちがよくわかります。
 彼の演奏を冷静に聴いていると「自由」と「共生」を感じます。そして自分の演奏に対して他人からの評価を基準にしない「強さ」も感じます。
 20歳の時、エリザベートコンクール優勝したチャイコフスキーのコンチェルトにも感じられる「想像力の豊かさ」は彼特有の世界観を表現しているように思います。
「誰かがこう弾いたから」や「普通はこう弾くから」と言った固定概念よりも、音楽を演奏する自分の「想像力」を最大限に引き出す努力と技術は、本来演奏する人間に追って一番大切なことです。ただ単に「人と違う事をする」のとは違います。自分の想像するものを具現化する力です。これを「自由」と言う言葉に置き換えてみます。

「共生」と表したのは、彼がオーケストラと一緒に音楽を演奏しようとする気持ちです。よく聴くとオーケストラが旋律を演奏している時に、レイ=チェンは完全にオーケストラの演奏したい「テンポ」「リズム」を優先していることがわかります。むしろオーケストラの1パートとして、一体になっています。これは、彼が他人=他の演奏者を思う気持ちの表れだと思います。自由に演奏してもオーケストラが影響を受けない部分、範囲では楽譜に書かれていないリズムで演奏しても、オーケストラと絡み合う部分では決して自分勝手にリズムを崩さない上に、オーケストラ演奏者に拍が聞き取りやすい弾き方で演奏する余裕があります。だからこそ、オーケストラも思い切り、一番良い音で演奏しよう!と感じるのではないでしょうか。ソリストに「合わせにくい」と感じればオーケストラは抑え気味に演奏することになります。ソリストの独りよがりではないことが、音楽全体のエネルギーを増幅させています。

 想像力を具現化する技術は、自分の演奏技術を発展させることに直結します。
楽譜を音に、音を音楽にしていく過程で「想像」することは、演奏家にとってそれまでの経験をすべて使う作業です。体験し記憶している「感情」「風景」「人」「物語」を音楽の中に落とし込むことです。もし、悲しい経験しか、記憶にない人が音楽を演奏すれば、悲しい感情しか想像できないことになります。記憶は「思い出」でもあります。自分だけの思い出を、音楽で表現する。まさに「自由な創作行為」ですよね。多くの思い出こそが、多くの物語を想像できます。10代より20代、30代と年齢を重ねる中で嫌な経験も増えます。子供の頃の楽しかった思い出を忘れてしまいがちです。多感な幼児期に部屋にこもって、音楽だけを練習するよりも、友達と遊び・喧嘩をし・仲直りし…それらの思い出を大切に忘れないで育てることが親の役割だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

レガートの中で子音を作る

https://youtube.com/watch?v=-Fj58b59xy8

 映像はデュオリサイタル13。エンニオ=モリコーネ作曲「ガブリエルのオーボエ」をヴィオラとピアノで演奏したものです。演奏はともかく…素敵な曲ですね。こうした「レガート=滑らかな音のつながり」で演奏する曲の場合に、音の切れ目=発音がはっきりしない(輪郭がぼやける)音になってしまいがちです。レガートだから…と言って「ピンぼけ写真」のような印象になってしまえば、滑らかと言うよりも「もやもやした」音楽に聴こえます。
 演奏するホールの残響時間にも影響を受けますが、まずは演奏自体が「クリアな変わり目」であることが第一です。ポルタメントやグリッサンド、スライドなどで、音の変わり目を意図的に「点」ではなく「曲線」にする演奏技法もありますが、多用しすぎれば「気持ち悪い」「いやらしい」「えげつない」印象に聴こえてしまいます。
 歌の場合、特に日本語の歌詞の場合に「子音」が多く音の変わり目=言葉の切れ目を、聴く側が想像も加えながら聞き取れます。逆に子音が少ない歌の場合や、意図的に子音を弱く歌う歌手の「歌詞」は滑らかですが音の変わり目を、感じにくく、言葉の意味が聞き取れないこともあります。

 移弦を伴うレガートや、1本の弦で大きな跳躍を伴うレガートの場合には、それ以外の場合=同じ弦で2度、3度の進行との「違い」が生じます。
 同じ弦の中でのレガートでも、左手の指で弦を「強く・勢いよく」押さえることでクリアな音の変わり目を出そうとすると、固い音になりがちな上、弦を叩く指の音が大きくなりすぎる場合があります。むしろ、弓の速度・圧力を制御しながら、左手の指の力を抜いて「落とす」ことの方が柔らかくクリアな音の変わり目を作れるように思っています。
 移弦を伴うレガートの場合には、一般的な演奏方法なら「先に二つ目の音を指を押さえて移弦する」のがセオリーです。ただ、この場合に弓の毛が二つ目の弦に「触れる=音が出始める」瞬間に発音しにくくなります。音が裏返ることや、かすれることもあります。だからと言って、弓の「傾斜の変化」を速くすれば、一つ目の音との間に「ギャップ」が生まれます。レガートに聴こえなくなります。
移弦の時、弓の傾斜を変えるスピードは演奏者によって大きく違います。
例えて言えば次の弦に「静かに着地」する移弦の方法と「飛び降りる」ような速度で「着弦」する違いです。どちらにも一長一短があります。
 そこで考えられる方法が移弦する瞬間に、二つ目の音の指を「同時に抑える」方法です。弓の毛が二つ目の音を発音するタイミングと、左手の指が二つ目の音を押さえるタイミングを合わせる特殊な方法です。ずれてしまえば終わり(笑)
左手指で音の変わり目を「作る」ことで、レガートで且つクリアな移弦ができます。とっても微妙なタイミングですが、無意識に移弦するよりも何億倍も(笑)美しく移弦できると思います。お試しあれ!
 最後までお読みいただき、ありがとうとございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンらしい音色と音楽

 映像は、ミルシテインの演奏するショパン作曲ノクターン。
古い録音でレコードのスクラッチノイズ(パチパチという音)の中から聴こえる音色と音楽に、現代のヴァイオリニストの演奏には感じられない「暖かさ」と「柔らかさ」「深み」を感じます。録音技術の発達とともに、より微細な音も録音・再生できるようになった現代ですが、私にはこのレコードに含まれているヴァイオリンの「音色」で十分すぎるほどに、演奏者のこだわりを感じます。
コンサートで聴くヴァイオリンの音色は、演奏者が聴く自分の音とは違います。
ましてや、演奏者から10メートル以上も離れた場所で聴く音と、現代のデジタル録音したものとでは「違う楽器の音」と言えるほどの違いがあります。
 その違いはさておいて、ミルシテインの奏でる「音色」と「音楽」について、演奏する立場から考えてみたいと思います。

 音の柔らかさを表現することは、ヴァイオリンの演奏技術の中で、最も難しい技術だと思っています。「楽器と弦で決まる」と思い込んでいる人も多い現代ですが、何よりもヴァイオリニスト本人が「どんな音色でひきたいか?」と言うこだわりの強さによって変わるものです。柔らかい音色を「弱い音」とか「こもった音」と勘違いする人がいます。私たちの「触感」に置き換えて考えればわかります。
柔らかいもの…例えば羽毛布団やシフォンケーキ。
柔らかい触感と「小さい」や「輪郭のはっきりしない」ものとは違います。
私達は柔らかいものに「包み込まれる」感覚を心地よく感じます。
固いものに強く締め付けられることは、不快に感じます。
そして「暖かい」ものにも似たような交換を持ちます。熱いもの、冷たいものに長く触れていたいとは思いません。
 現実には音に温度はありません。固さもありません。ただ、聴いていてそう感じるのは「心地よさ」の表現が当てはまる音だから「柔らかい」「暖かい」と感じるのだと思います。

 では具体的にどうすれば、柔らかい・暖かい音色が出せるのでしょうか?
・弓の圧力
・弓を置く駒からの距離
・弦押さえるを指の部位
・押さえる力の強さ
・ヴィブラートの「丸さ=角の無い変化」
・ヴィブラートの速さと深さ
・ヴィブラートをかけ始めるタイミング
ざっと考えてもこれ位はあります。
演奏する弦E・A・D・Gによっても、押さえるポジションによっても条件は変わります。当然、楽器の個性もあります。それらをすべて組み合わせることで、初めて「柔らかい」と感じる音が出せると思っています。

 最後に「音楽」としての暖かさと優しさについて考えます。
ミルシテインの演奏を聴くと、一つ一つの音に対して「長さ」「大きさ」「音色」の変化を感じます。言い換えると「同じ弾き方で弾き続けない」とも言えます。これは私たちの会話に例えて考えてみます。
以前にも書きましたが、プロの「朗読」はまさに音楽と似通った「言葉の芸術」だと思います。同じ文字を棒読みしても、意味は通じます。ただ、読み手の「こだわり」と「技術」によって、同じ文字にさらに深い「意味」もしくは「感情」が生まれてきます。朗読には視覚的な要素はありません。動きや表情も使って表現する「俳優」とは別のジャンルの芸術です。
 文字=原稿には、強弱や声の「高さ」「声色」は指定されていません。それを読む人の「感性」が問われます。まさに楽譜を音楽にする演奏家と同じことです。
 一つ一つの音の「相対」つまり前後の音との違いを、音色と長さと音量を組み合わせた「変化」によって表現することで「揺らぎ」が生まれます。
楽譜に書かれてない「ゆらぎ」はともすれば「不安定」に聴こえたり「不自然」に聴こえたりします。そのギリギリの線を見切ることで、初めて個性的な演奏が生まれます。簡単に言ってしまえば「違うリズム・違う音に感じない範囲」で一音ずつを変化させることです。さらに、一つの音の中にも「ゆらぎ」があります。ヴィブラートや弓の速さ・圧力による響きの違いを長い音の中に、自然に組み入れることで、さらに深い音楽が生まれます。
 音楽を創ることが演奏者の技術です。それは演奏者の「感性」を表現することに他なりません。楽譜の通りに演奏するだけなら、機械の方が正確です。
人間が感じる「心地よさ」を追及することが、私たちに求められた役割だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弦と弓の毛のエイジングと良い音の寿命

 映像は3年前、代々木上原ムジカーザでのデュオリサイタルで演奏したドヴォルザーク作曲「ロマンティックピース」の一曲。
今回のテーマは、ヴァイオリン・ヴィオラの「弦」について。
以前にも弦の種類についてのブログは書きましたが、ちょうど来週、長野県でのコンサートと12月18日、来年1月7日のリサイタルに備えて弦の張替えや弓の毛替えを進めています。
 弓の毛替えは先日、いつもお世話になっている櫻井樹一さんの工房でヴァイオリンの弓2本、ヴィオラの弓1本の毛替えをして頂きました。
 木曽福島で使用する、陳昌鉉さん製作のヴァイオリンには数日前に生前、陳さんが一番好きだった弦の音色に近い弦のセットを張り替えました。こちらは、ナイロンの弦で張った直後は「キンキン」「バリバリ」と言う表現の音がうるさく聴こえます。毎日、時間の経過とともに音色が落ち着いていきます。
 経験上、およそ1週間ぐらい経った状態が、このヴァイオリンに一番合った音色になる「と感じる」ので、少し早め10日前に張り替えました。
 この弦に限らず、ナイロンの弦の「良い音がする寿命」は約2週間。それ以後は、余韻が極端に短くなりこもった音になります。その後は1年経ってもあまり変化しません。さらに言えば、弦が落ち着くまでに1週間から10日間かかるので、実際に「最高の音」が出る状態は約一週間…私の個人的な感想です。
 一方、ヴィオラと私のヴァイオリンに張るのは「ガット弦」です。
こちらの「エイジング=弦が楽器になじむまで」の期間は、弦の太さによって差があります。最も太いD線よりもA線が落ち着くまでの期間が一番長いのは、恐らく構造上の問題です。ヴィオラの場合はまた違います。
 ガット弦は音質が急激に落ちることがありません。むしろ、完全にガットが「伸びきった状態」言い換えると、湿度や温度の変化に、全く反応しなくなった時点でガット弦の寿命が終わったとも言えます。調弦が大変!と言うアマチュアヴァイオリニストのガット弦への不満を聴くことがありますが、ナイロン弦の場合でも「良い音の出る期間」には小まめに調弦が必要であり、むしろその変動幅はガット弦よりも大きい場合がほとんどです。価格の面で考えても、ガット弦の方が、良い音の期間が長く一概に「ガット弦は高い」とは言い切れません。

 
 最後に弓の毛のエイジングと寿命について。
職人の技術と使用する馬のしっぽの毛によって、大きな差があります。
櫻井さんに張り替えてもらった弓の毛は、張り替えて数日で松脂が毛に馴染み、伸びも収まるので演奏会に使用できます。さらに、張り方の技術差は弓のスティックの強さと曲がりによって、職人が針の強さを左右で調整できるか?と言う職人の経験が問われます。「すぐ切れるのは悪い毛」と言う考え方には疑問を感じます。何よりも「演奏の仕方」と「演奏する曲」で弓の毛が切れる頻度は大きく変わります。むしろ演奏する曲によって、主に使う弓の場所が違うため、摩耗する部分が変わります。張り過ぎの状態で演奏すれば、スティックの弾力を最大限に使えません。逆に毛の張りが弱すぎれば、毛を痛める原因にもなります。
 何よりも松脂を塗りすぎる人が多いように感じています。弓の毛と弦が音を出すための「摩擦」は松脂だけで作られているのではありません。毛の表面の「凹凸=おうとつ」で削られた松脂が「こぶ」になり、さらに摩擦の熱で「溶ける」ことで粘度が増えます。毛の表面の凹凸は、次第に減っていきます。さらに、経年劣化で、弾力を失い細くなります。寿命は「●●時間」と書かれているものもありますが、何よりも松脂を普段から「必要最小限」で使っていれば、摩擦が減ってきた…滑りやすくなったことを感じるはずです。その時が「弓の毛の寿命」です。
 どんな弦でも、弓の毛でも「なじむまでの時間」と「良い音の出る期間」と「寿命を迎えた時期」があります。それぞれのタイミングを見極めるのも演奏者の技術です。
 最後までお読みいただき、ありがとうとgざいました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

何気ない曲の何気ない難しさ

 もう15年も前になる初めてのデュオリサイタルで演奏した、チャイコフスキー作曲「懐かしい土地の思い出」よりメロディー。あまりにも多くのヴァイオリニストが演奏されているこの曲、実は自分の中で「何かが難しい」…何が難しいのかが自分でもよくわからないのですが(笑)そんなこともあって、今までにあまり演奏してこなかった曲の一つです。次回のリサイタルでリベンジ!と思い立ち、ユーチューブを聞きまくってみました。皆さん、じょうずに演奏されているのですが、自分の好みに合う演奏が見つからない。明らかに他の演奏者と違う解釈で演奏されている「ヤッシャ様」(笑)の演奏がこちらです。

 ハイフェッツ様だから許される?(笑)大好きな演奏なのですが、個性的過ぎて「猿真似」になりそうで近づけません。いや…近付けるはずもないのですが。
 曲の好みで言えば、大好きな曲の中に入るのに自分で演奏すると「どこが好きなんだよっ!」と自分に突っ込みを入れたくなるほど。
 聴くことが好きな曲と、演奏したい曲が違うのはごく普通の事です。
でも、よく考えると聴くのが好きなら「ひいてみたい」と思うのが自然な流れのはずです。弾けない…という事でもないのですが、自分の演奏が好きになれません。「それ以外の曲は満足してるのか?」と言われれば、冷や汗ものです。
 趣味の領域で「楽しむ」事と、お客様に聴いていただく立場で自分が「楽しむ」ことの違いなのかもしれません。好きだから怖くて弾けない?(笑)
ぶつぶつ言っていないで、なぜ納得できる演奏が出来ないのかを言語化してみます。

 調性はEs dur=変ホ長調。特に苦手とか嫌いとかはありません(笑)
4分の3拍子。問題なし。重音の「嵐」も吹かない。特別に出しにくい音域でもありません。むしろ「普通に弾ける」言い換えれば、弾きやすい曲でもあります。
モチーフも覚えやすく、リズムもシンプル。
 中間部の軽い動きが「苦手」なのは否めない事実です。
気持ちが先走って、冷静に弾けていないことが一番の原因と分かりました。
とにかく、一音ずつ練習しなおし!
好きな曲を、気持ちよく弾けたら最高に気持ちいいですよね!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ファンになりました。

 映像は2年前、かてぃんこと角野隼人さんのラジオ番組にゲスト出演していた、ピアニスト亀井聖矢さん。先日のロンディボー国際コンクールで同率1位。
20歳(今年21歳)で桐朋学大学4年生…って計算が合わないぞ?それもそのはず、17歳で高校から「飛び級制度」で桐朋学園大学に特待生で入学。桐朋学園では「初の飛び級入学」
 正直、かてぃんのチャンネルで共演していたりする動画は見ていましたが、名前を知ったのは今日が初めてです。そして、彼のいくつもの動画を見て、あっさり「ファン」になってしまいました。
 私はピアノの演奏技術の「優劣」がわかる人間ではありません。ただ感じるのは、「純粋に素敵なピアニストだ」という感想なのです。彼の「素顔」も知りません。性格だって知りません(笑)彼の演奏を見て、聴いて感じることを書いてみます。

 何よりも強く感じるのは、深刻さ・悲壮感を感じないという事です。
子供の頃の演奏動画もアップしています。10歳の頃の「ラ・カンパネラ」をご紹介します。

 「愛知の神童」だったかどうかは知りません(笑)が、これが10歳の演奏か…。素直に「この曲がひいてみたい」と言う少年の素直な気持ちがそのまま音楽になっている気がします。演奏活動をコロナで阻まれながらも、国内の主要オーケストラとの共演も既に終わっている(笑)日本音楽コンクールとピティナを同じ年に「一位取り」すると言う経歴にも納得です。
 普段、コンクールで何等賞…と言うニュースにほぼ無関心な私です。そして、話題になった人の演奏動画は一通り見ていますが、正直「感動しない」という感想で今まで過ごしてきました。それは「好み」の問題でしかありません。
 亀井さんの演奏に共感する理由をもう一つ。
「自然なアクションと表現」に感じることです。私はオーバーアクションに見える演奏家が好みではありません。演奏中の表情もそのひとつです。自然に表に出る「感情」や「動き」は理解できるつもりです。それ以上の表情は「作っている」としか思えないのです。もしもその「表情」がパフォーマンス…だとしたら、余計なこと(笑)だと思ってしまいます。
 彼の活動を見ると、「やりたいことを、やりたい時にやっているだけ」に感じます。それが素敵なんです。先を考えて…とか、日本の音楽界のために…とか、作曲家の精神に触れた…とかと言う話を20代の演奏家が話しているのを聞くと「そのセリフは40年後に言いたまへ(笑)」と思うのです。
 純粋に今、やりたいことに没頭する美しさ。評価よりも自分の「価値観」を優先した生き方に、年齢は関係ありません。若いからできること、若いとできないこと。高齢になってできないこと。高齢になって初めてできること。それを素直に受け入れられる「ひと」の演奏が好きです。彼がこの先、どんなピアニストになるのか?とても楽しみですが、何よりも今の彼の演奏が楽しくて好きです。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ライブ演奏ととCDの違い

映像はハリウッド映画「インテルメッツォ」で使用されていたプロボスト作曲「インテルメッツォ」
代々木上原ムジカーザでのライブ映像です。今回のテーマはライブ=お客様の前で「生演奏」した演奏とCDなどの録音での演奏について違いを考えるものです。
 私たちも過去に3枚のCDを録音・作成・販売しています。3枚とも自宅で自分たちで機材のセッティングから編集を行いCDジャケットの作成も「手作り」のCDです。
同じ曲でも録音する場合と生演奏では全く違った演奏になります。

録音の場合には自分たちが納得できる演奏が出来るまで何回でも録音し直すことができます。
1曲録音して聞き返して不満があれば休憩してから録り直す作業を繰り返せます。自宅で録音したので何日にも分けて録音することも可能です。
録音方法の「進化」で多くのレコーディング現場では「部分録音」をつなぎ合わせたりピアノとヴァイオリンを別々に録音する方法が主流になりつつあります。この方法だと納得いかなかった部分だけを録音し直すことで時間の短縮が可能な上、別々に録音することで二人のどちらかがミスをした場合、そちらだけを部分的に録音すれば良いので効率がさらにアップします。
「そんななのずるい!」(笑)と思う方も多いと思いますが、昔から行われていた録音方法です。
二人の音量のバランスも別々に録音すれば後から電気的な処理でいくらでも変更が可能になります。
オーケストラの演奏を録音する場合でも10~20本のマイクをソロのある楽器や音の小さな楽器のすぐ近くに立ててそれぞれを違うチャンネルに録音する「マルチトラック録音」が当たり前になっています。
昔のテープ六異音と違い雑音のない音で何度編集してもピッチが変わらず音質も劣化しません。
こうして出来上がるのがCDでありプロオーケストラの演奏動画です。

生演奏の場合、特に拡声装置をしようしないアコースティックでの演奏は演奏のミスもやり直しが出来ませんが音量のバランスも後から変更することは不可能です。
さらに演奏会で1曲だけを演奏して終わる…ことはほぼあり得ませんから、多くの曲を限られた時間内で演奏する集中力と体力が求められます。録音とは全く違う緊張感があり準備の時間も比較にならないほど必要になります。聴く側にしてみればCDを自宅で聴くのも会場で生演奏を聴くのも同じ曲・同じ演奏者かも知れません。CDと同じ演奏をライブに期待する人もいますが正直に言えば意味のない期待です。
CDの演奏が聴きたければCDを聴けば何回でも同じ演奏を聴けます。先述の通り録音され加工された演奏は生演奏とは「別物」です。極論すれば巨大なライブ会場=ドームなどで何百人・何千人の聴衆と一緒に「CDの音」を聴いているケースもあります。CDではなくても予め録音された音を一部使いながらライブを行うバンドも珍しくありません。「一体感」を感じたいのであれば満足なのかも知れません。

生演奏が好きか?CDの演奏が好きか?これは好みの問題=価値観の違いですのでどちらが正しいと言うものではありません。それぞれに良さがあるのも事実です。どちらにも一長一短があります。
 私たち夫婦がコンサートで演奏する場合もっとも重要に考えているのは聴いてくださるお客様への配慮=おもてなしの心です。演奏する本人が練習にどれだけ時間をかけたからと言って聴く人にとって演奏会を楽しめなければ意味のない事だと思っています。時間と体力と交通費をかけてまで会場に音楽を聴きに来られた方に対する感謝と経緯を忘れた演奏は自己満足でしかありません。もちろんすべての来場者が満足できるコンサートは現実にはあり得ないのかも知れません。演奏者のファンだけが集まるコンサートであっても選曲によって不満を感じる人もいます。予め演奏曲が告知されていてもCDと同じ演奏を期待する人には不満があるはずです。
 結論として生演奏でのライブやコンサートは「その時だけの演奏と感動」があることを演奏する側も聴く側も共通理解しておくことが一番大切だという事です。ライブ演奏を録画・録音した映像や音源が世界中に無数にあります。私たちの演奏動画もその中の一つです。コンサートで実際に聴いてくださった方が録画された音を聴いて「なにか?生演奏と違う」と感じて当然です。会場で感じた演奏者の立ち振る舞いや息遣い、会場での音などは「記憶」にしか残りません。聴いてくださった方の良い記憶になるコンサートを続けていきたいと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

上達に必要な基本の「知識」「技術」「練習方法」

映像は2004年みなとみらい大ホールで演奏する中・高校生の部活動オーケストラ定期演奏会。
チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」の一部です。私の作った部活オケを指揮した最後の定期演奏会でした。中学校に入学しオーケストラに入部して初めて楽器を手にした子供がほとんどです。中高一貫の私立学校で当時、オーケストラは中1~高2までの5学年の生徒が一緒に演奏していました。総勢150名にもなる大所帯。全校生徒1200名の内の150名が参加する部活オーケストラ。
 今回のテーマは部活も含めた「趣味の音楽」を楽しむ上で上達するための「知識」「技術」と「練習方法」を経験を元に考えるものです。

 まず前提として趣味で楽しむ楽器の演奏と演奏の専門家=プロを目指す人の目的は全く違う事を忘れないことです。目指す技術のレベルではなく「目的」の違いです。趣味で音楽を楽しむ人の集まりが部活オーケストラや部活吹奏楽、さらに市民オーケストラもその一つです。プロを目指す人の場合にはまず個人の演奏技術・知識を身に付けることが必須条件になります。多くの仲間と共に演奏を楽しむ「プロ」になるためにはまず個人のスキルが高くなければなりません。
 趣味だから下手でもいいか?結論は「はい」です。演奏する本人・本人たちが楽しめることが最優先であるべきです。その演奏を聴いてくれた人が「ヘタだねー」と言ったとしても気にする必要もないし、趣味の演奏をヘタだじょうずだと言う人が間違っています。演奏する本人・本人たちが「もっとうまく演奏したい」と言う希望・欲を持つ場合に初めて必要になる基本の知識・技術・練習が生まれます。指導者=部活の場合顧問がいくらレベルアップを望んだとしても、演奏する本人たちが望まないのであれば無駄な労力と時間を浪費するだけです。指導者が演奏をレベルアップしたいと考えるなら、まず本人たちが「純粋に」レベルアップを望むように誘導するべきですが「コンクールで上位を目指そう」と言う安直な餌で生徒を釣ることは絶対にやめて頂きたいと教員時代から願っています。趣味の音楽に序列を付けるのは「無意味」でしかありません。コンクールと言う餌がなければ生徒を惹きつけられないのは指導者の「指導能力」「指導経験」が足りないことを証明するだけです。「純粋に」と強調したのはその意味です。演奏するホ人が何故?何を?上達させたいと思っているのかという根本的な問題をクリアする必要があります。自分の目指す演奏レベルと自分の演奏の「どこが・どう違うのか?」を知らないのが当たり前です。なんとなく…自分よりうまく聴こえる演奏に漠然と憧れている人に「がんばれ!」って言いますか?スポーツで考えればプロ野球の選手が出来ることを中学生・高校生に真似させて「強く」鳴れるはずがありません。そもそも指導者が「上達する道を通った経験」がないとしたら?YouTubeや本から得た情報だけで指導ができると思い込むのは「百害あって一利なし」です。間違った指導は成長の未来のある生徒の夢を破壊します。宝石の原石を叩き割るのが無知な指導者です。

生徒が自発的に上達したいと考えているなら…あるいは自分自身がそう思う演奏者なら「足りない技術・知識」を誰かに教えてもらう事です。少なくとも自分よりうまいと感じる人、できれば専門家を目指す人に必要な技術・知識を学んで身に着けた人に教えてもらべきです。
 動画で演奏している中高生に音楽の授業を通して「楽典」を教えました。当然ですが部活に所属していない生徒たちにも同様に楽典の授業を中学1年から教えました。特に「音名」「音程」について覚えていて損はしません。当然変化記号=シャープ・フラット・ダブルシャープ・ダブルフラット・ナチュラルや調号の仕組みや名前についても教えました。子供たちにとって覚えることは他教科でも鳴れています。覚えさせすれば定期考査で100点を取れます。事実、多くの中学生が楽典のテストで100点満点を取りました。覚える気のない生徒の点数はは一桁でしたが(笑)
 さらに指揮法の図形も授業で教えました。校内の行事で合唱コンクールがあり学級ごとに生徒指揮者、ピアノ演奏者を決め音楽の授業時以外にも担任が立ち会って練習していましたので「指揮法」は生徒たちが求めた技術でもありました。もちろん部活オーケストラで演奏している生徒たちも図形や「点」「叩き」「平均運動」などの意味を覚えました。これも合奏では大いに役に立つ知識です。

生徒が自発的に上達したいと考えているなら…あるいは自分自身がそう思う演奏者なら「足りない技術・知識」を誰かに教えてもらう事です。少なくとも自分よりうまいと感じる人、できれば専門家を目指す人に必要な技術・知識を学んで身に着けた人に教えてもらべきです。
 動画で演奏している中高生に音楽の授業を通して「楽典」を教えました。当然ですが部活に所属していない生徒たちにも同様に楽典の授業を中学1年から教えました。特に「音名」「音程」について覚えていて損はしません。当然変化記号=シャープ・フラット・ダブルシャープ・ダブルフラット・ナチュラルや調号の仕組みや名前についても教えました。子供たちにとって覚えることは他教科でも鳴れています。覚えさせすれば定期考査で100点を取れます。事実、多くの中学生が楽典のテストで100点満点を取りました。覚える気のない生徒の点数はは一桁でしたが(笑)
 さらに指揮法の図形も授業で教えました。校内の行事で合唱コンクールがあり学級ごとに生徒指揮者、ピアノ演奏者を決め音楽の授業時以外にも担任が立ち会って練習していましたので「指揮法」は生徒たちが求めた技術でもありました。もちろん部活オーケストラで演奏している生徒たちも図形や「点」「叩き」「平均運動」などの意味を覚えました。これも合奏では大いに役に立つ知識です。

最後に趣味の演奏で有効な練習方法について。
一言で言えば「課題を見つけるための練習」をすることです。
一般には出来るようになるまで繰り返すことを練習だと思いがちですが出来ないこと=気付いていない症状を発見する事が優先です。治療は症状と原因を見つけてからするものです。病気と違って楽器の演奏に「予防」はありません。常に自分の演奏の状況を観察し必要なら録音や録画をし自分の演奏の問題点を見つけ原因を探ることです。この場合も指導者のアドヴァイスは有効です。症状も原因も複数のことが絡み合っている場合が殆どですので「症状を分析する=もつれをほどく」作業が第一です。例えばボウイングだけを意識して開放弦を練習すると出来ることがスケール=音階になるとできなくなる場合や曲の中で苦手な部分になると何故か?音が小さくなったり汚くなる症状です。気付くためには「観察する=聴くこと」以外に方法がありません。人に指摘されて修正するなら自分の音を聴いていなくても出来ることです。自分で自分の音を聴くのは一番疲れることです。演奏しながら聴くのですから指や腕を動かすことに意識が集中すれば「聴く=聴覚」への集中は落ちてしまします。運動する部分を「ひとつ」からスタートし「足し算」つまり運動する部位を一つずつ増やしながら聴く練習をすることが有効です。一気にすべての運動=右手・左手を動かして曲を弾けばどの運動が原因で雑音が出ているのかは判断できません。引き算しんがら練習する方法もありますが、最初はひとつずつ=最初は右手だけ→左手だけでピチカート→両手で演奏のように症状が出始める原因を探すことです。
 練習できる時間は人によって異なります。楽器を使って音を出さなくても上達する練習があります。ひとつは「頭の中で演奏する=イメージトレーニング」これは電車の中でもできます。もう一つは「楽譜と音楽を一致させる」練習です。楽譜を読む技術向上にもつながります。また色々な人の演奏を聴き比べながら楽譜を見ることで発見もあります。お茶を飲みながらできる練習です。
 技術・知識・練習は「意欲」によって内容も結果も変わります。
モチベーションを維持するのは大変に難しいことです。最大のポイントは「継続は力ない」という言葉だと思っています。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの音量

映像はアンドレ・ギャニオン作曲「明日」をヴァイオリンとピアノで演奏したものです。
今回のテーマはヴァイオリン、ヴィオラの演奏で「音量」を考えるものです。
 前提としてヴァイオリンは管楽器や打楽器、弦楽器の中で音量が大きい楽器ではないことを考えます。確かにギターやマンドリン、リコーダーと比べれば音量=音圧はヴァイオリンの方が大きいと言えます。しかしチェロ、コントラバスと比較すればヴァイオリンは音域が高いとは言え音量で考えれば比較して小さな楽器です。筐体=ボディーの大きさ、弦の長さと太さを考えれば当然のことです。事実オーケストラにおいてヴァイオリンの人数がヴィオラ、チェロ、コントラバスより多いのは音量の問題があるからです。当然フルートやピッコロなどの木管楽器、トランペットなどの金管楽器とは比べようもなく音の小さな楽器です。
 ヴァイオリン協奏曲を考えると明らかにオーケストラとのバランスが悪い楽器とも言えます。多くのレコードやCDで独奏ヴァイオリンの音がオーケストラと対等、あるいはオーケストラ以上に大きく録音されているのは単純にマイクの位置によるものです。会場で聴いた場合のバランスとは全く違います。これはピアノとヴァイオリンの二重奏でも同じことが言えます。
ピアノの音圧はヴァイオリンより遥かに大きく、小さな音の比較ではヴァイオリンと同程度まで小さな音を演奏できる楽器です。だからこそ「ピアノフォルテ」と言う正式な名前がついたわけです。ピアノとヴァイオリンが同時に演奏し、双方が目いっぱいのフォルティッシモで演奏したとしたら、ヴァイオリンの音は完全にマスクされ会場ではピアノの音ばかりが響きます。これはヴァイオリンの楽器がストラディバリウスだろうが新作のヴァイオリンだろうが変わりありません。演奏技術の問題でもありません。構造上の違いだからです。

ヴァイオリンを練習している時にフォルテやピアノ、クレッシェンドなど音量の変化に「基準」があるでしょうか?
どんな楽器の演奏でも最小・最大の音量があります。
音が出ていない状態でも音楽の一部です。休符や音楽の始まる直前、弾き終わった直後も音楽です。実際に楽器で音を出している時の音量は常に相対的な音量の差です。人間の耳は静かな場所では敏感になります。逆に地下鉄の車内や飛行機の中、大音量のロックライブ会場では隣の人の話し声さえ聞き取れなくなります。聴く人と演奏している人で感じられる音量の差=変化が違います。感覚の違いより楽器との距離の問題が一つ。距離が離れるほど微妙な音量の違いは感じられなくなります。特に小さな音の場合には離れた場所では聴こえなくなります。
もう一つ大事なのは演奏者が「大きく(小さく)したつもり」で実際には変化がほとんどない場合です。クレッシェンドしているつもりでも聴いている人には同じ音量に感じるケースです。ヴァイオリンのように最大音量が小さい楽器は音量の変化を「感じてもらう」ことが困難です。もっと大きく!と頑張ると得てして汚い音になりがちです。
音量の変化量=聴いている人が感じる音量の変化量を大きくしたければ「小さい音」を有効に使うべきだと思います。楽器の音量を物理的に大きくする技術や弦を考えることも大切ですが「相対」を大事にすべきだと考えています。
コンサートで物理的な最大音量をさらに大きくしたいのであれば最終的に「電気の力」を借りれば良いのです。野外でのクラシックコンサートでは当然の事ですがマイクとアンプ=電気的な増幅と巨大なスピーカーを多数設置して何千人・何万人の聴衆に音を届けます。
「大音量」で演奏できることが良い演奏だと思い違いをしないことが重要だと思います。そもそも録音するなら大音量はまったく必要ありません。レコーディングの現場は音量の変化は電気的に行うのが常識です。大ホールで演奏する場合に客席の最後列でピアニッシモが聴こえないとしたら?コンサートとして成り立っていません。だからと言って曲全部をフォルテで演奏したら?ダメですよね。
 小編成のアコースティック=電気を使わない楽器の演奏・歌を大ホールで開催することに違和感を持っています。どんなに音響の良い大ホールでも音の届く限界距離があります。無理に大きな音を出そうとするよりも聴衆にピアニッシモが心地よく聴こえる環境で演奏することを考えるべきではないかと思います。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏会場を選ぶポイント

映像は代々木上原ムジカーザで2010年から2026年まで毎年デュオリサイタルを開いてきた私たちの「最初と最後」の演奏をまとめたものです。17年間にたくさんの曲を演奏し本当にたくさんのお客様と出会いました。同じホールで同じピアノを同じ調律師(名取さん)にお願いして、ほぼ同じ時期(1月初旬の土曜日)に開催し続けました。
今回のテーマは「演奏する場所」について考察するものです。

演奏には「聴衆の前で演奏する」場合と「録音や撮影のために聴衆のいない状態」の場合
があります。聴衆がいるコンサートを録画・録音した「ライブ」もありますが聴衆の有無は大きな違いになります。
スタジオで演奏し録音する場合は響きのない室内での演奏になります。
ピアノとヴァイオリンの録音を別々の時間・場所で録音する場合もあります。昔の言い方をすれば「「重ね録り」と呼ばれるものですが、多くはポピュラー音楽の録音に使われてた録音方法です。録音のための演奏なのでノイズ=周囲の雑音を極力減らし、後の編集作業のために残響時間も少ない事が求められます。演奏する人はヘッドホンを装着しメトロノームの音や先に演奏を録音した音を聴きながら演奏=録音します。慣れないと非常に演奏が難しいものです。
 聴衆を前に演奏する「コンサート」の場所は広さ=客席数、音響(残響時間など)が最も大きな違いになります。ホールや演奏場所の立地環境=交通アクセスも聴衆にとっては大きな問題になります。
 あまり大きく取り上げられませんがホールのスタッフと設備・備品は演奏者にも聴衆にも影響します。スタッフが演奏者の立場と聴衆の立場で最善の環境を作る技術と感覚を有していないと演奏が素晴らしくても良いコンサートにはならないものです。また施設や設備が演奏に不向きな場合もあります。エアコンの動作音が大きく演奏の小さい音にノイズが混在するホールもあります。客席の椅子が折り畳みのパイプ椅子で聴衆が長時間座るのが苦痛になる場合もあります。椅子のきしみ音も演奏の妨げになります。

演奏者がホールを選べる場合と、演奏を依頼され場所も予め指定されている場合があります。
後者の場合どんな会場でもその場にあった演奏を限られたリハーサル時間の中で探す技術・経験が求められます。
自分で会場を決める時に最終的に資金的な問題を優先することになります。もちろんこの費用を気にしなくても開催できる演奏者もいます。うらやましい限りですが多くの場合は会場使用料やピアノなどの使用料金、スタッフの費用などを含めたトータル費用とチケット収入の予想をシミュレーションして会場を決めることになります。
 演奏者の好みも分かれます。残響時間、客席の場所による聴こえ方の違い、演奏している音の演奏者自身の聴こえ方などです。資金的な条件の中で自分が最も演奏しやすく聴衆にも自分の理想に近い音で聴いて頂けるホールを選びます。

私たちが二人で演奏させて頂いた色々な会場の中で印象に強く残った会場「杜のホールはしもと」と「代々木上原ムジカーザ」は演奏した回数の多さもありますが残響時間、ピアノとヴァイオリン・ヴィオラのバランス、演奏者に戻ってくる音など大好きな会場です。杜のホールは525席のホールですがどこで聴いても気持ち良く楽しめる音響です。私たちの最初のリサイタルは長野県松本にある「音文」と呼ばれているホールの小ホールでした。初めて二人で演奏した緊張感もあって音響の事までは記憶に残っていませんが、その年に杜のホールで同じプログラムで演奏した時の感動は鮮明に残っています。
 野木にあるエニスホールも適度な残響とぬくもりのある響きの素敵なホールです。コンサート会場ではないのですが長野県木曽町にある「おもちゃ美術館」に併設されている体育館(実際に昔小学校の体育館だった建物を減築・改築した会場)の響きが忘れられません。

最後になりますが、演奏者にとって演奏会場は自分の演奏を聴衆に届けるための空間であることを書いておきます。自分が演奏者としての立場だけではなく、聴衆としての立場にたってホールを選ぶことです。主催者が自分でない場合、言いにくい一面はありますが演奏する以上「聴いてくださる方」への思いを第一に考えるべきです。
 演奏会場は公共の場です。多くの人が違う価値観を持って集まり共に音楽を楽しむ場です。主役は演奏者だけではありません。聴衆もスタッフも同じ目的=音楽を楽しむ時間と空間を共有する目的を達成するために必要な人です。誰が欠けても目的は達成できません。演奏者・スタッフ・聴衆が等しい関係性でなければ良い結果は得られないことを、まず演奏者自身が理解することが大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クラシック演奏の個性ってなんだろう?

映像は昨年1月に演奏したサン・サーンス「死の舞踏」
原曲は管弦楽で演奏する曲ですがピアノとヴァイオリンで演奏するためにアレンジされたものです。

さて、今回のテーマ「クラシック演奏の個性」ですが、個性的と言う言葉には一般的ではないというイメージがあります。個性が感じられないと言えば、逆に多くの人が認めている事や珍しくないと言う意味を含んでいます。
本来すべての人はそれぞれ違った個性を持って生まれます。どんな演奏であってもすべてに個性があります。歌であれば声・歌い方に個性があります。楽器の演奏でも音色やテンポ、部分的な音量などに個性があるものです。クラシック音楽の場合「楽譜通りに演奏する」と言う特色があり、ジャズやロックのように「楽譜も違う」音楽との違いがあります。
 落語に古典と創作があるように、料理にも創作料理があります。古典落語であっても「ラーメン」でも演じる人・作る人が変われば「個性」があります。この微妙な違いこそ演奏の個性に繋がるものです。
 楽譜に書かれている音符やテンポの指示、強弱の指示に従って演奏しても他人と同じ演奏にはなりません。微妙な違いを聴き分けられる人と気付かない人がいます。単に聴いた演奏の数と時間だけの問題だと思います。違いに気付かないから鈍いとかクラシック音楽を理解していないと考えるのは間違っています。ラーメンを一度だけ=1種類だけを食べた人と、多くの店を食べ歩き様々なラーメンを食べ比べた人の違いと変わりません。
 個性が強すぎると「癖がある」「一線を越えている」と酷評されがちですが「強い個性」の基準もないはずです。元より「初演」される音楽の演奏は比較される演奏がないのですから、次に誰かが演奏するまでは「唯一無二の演奏」になります。

 楽譜を初見で演奏したものと、時間をかけて考え試行錯誤を繰り返し練習した演奏があったとします。初見の技術・能力が高い人の演奏なら多くの人は「違い」を感じないかも知れません。むしろ「え?初めて楽譜を見ただけなのに?すごい!」と初見の演奏に喝采を送るかも知れません。
「間違えないために練習する」必要のない人も現実にいます。ではその人の個性は?
初見能力は演奏の個性とは別のものです。
 演奏する人の「音楽への思い」が個性になります。思いのない演奏がどんなに正確でも聴く人には感情が伝わらないものです。音楽を聴いて感動するのは「音」「音楽」にではなく、演奏する人への共感だと思います。私は演奏する人に「座学」を進めます。楽譜を記号として音にするための読譜ではなく音楽を「感じる」ための時間を取ることです。考えることで初めて自分だけの音楽=個性が生まれると考えています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

緊張を味方に付ける考え方

映像はオリンピックのフィギアスケート女子シングルで金メダルを取ったアリサ・リュウ選手のインタビュー映像です。
彼女の経歴や国籍、誕生にまつわる話にも興味があり調べましたが、ここでは敢えてそこには触れません。このアスリートが大舞台で見せたメンタルの強さをテーマに考えてみます。
多くの選手たちがプレッシャーに押しつぶされ、恐らく普段の練習や通常の大会では考えられないような大きなミスをしてしまいます。
中には「国家」「国民」からの過剰な期待が原因になる選手もいます。そんな中で彼女の今回の演技は「本人が楽しんでいる」ように感じ見ている私たちも自然に楽しめたように思います。「勝つこと」を何より優先していれば人間の真理として「頑張って」しまいます。
どこにその違いがあり、彼女の意識は何を求めていたのか?

インタビューの中で「対策より経験が第一」と言う言葉が印象的でした。勝つための準備や練習に主眼を置いても経験がなければ勝てない。事実、北京オリンピックで苦しんだ彼女は一度スケートから遠ざかり「普通の生活」を取り戻しました。幼い時からトップの成績で注目を集めた彼女でさえ「苦しんだ」と言う表現をした過去があります。
そして心理学を学んだ彼女の「脳の成長」が新しい人生観をつかむきっかけになったのかも知れません。「人とのつながり」当たり前のようで勝負の世界では必要性の低そうな他人との絆を大事にする考えに感動します。2位3位になった日本人選手について問われると「3人とも人生の違う段階にいます」と答えています。なんと素晴らしい答えでしょう。単に技術を語るのではなく「人生の段階」と言う言葉。まさに経験こそが大切と言う言葉の証明です。

緊張することは自然な生理現象です。不安な気持ちになった時に心拍が速くなったり手に汗をかいたり、膝ががくがくしたりすることは避けることのできない現象です。犬や猫でも不安になった時に普段と違う行動をします。防御本能の表れだと思います。
不安が少なければ緊張の度合いも少なくなります。いつもと違う環境に出ることが予め分かっている場合、例えば演奏会や試合がの前に「本番のイメージ」を頭の中で作って練習・準備することも出来ます。
不安のない普段の練習で本番での自分を想像しながら練習するのが「イメージトレーニング」です。
過去に経験した失敗の記憶も失敗の原因を理解すればイメージトレーニングの材料になります。
不安を完全に消し去ることは不可能です。本番の日、時間が近づくにつれて不安がふくらんでいきます。
極端な場合、本番の直前に楽譜を思い出そうとして「あれ?」とパニックになることもあります。
直前に練習した部分でさえ思い出せない気がする場合もあります。
人間の記憶は「脳」と「身体」の両方で再生されます。主に脳の記憶は冷静な時に「思い出す」事ができる記憶です。一方で身体が覚えている(実は脳の記憶ですが)運動は考えていない時に再生されます。
不安になる時=緊張する時に脳の記憶を無理やり呼び起こそうとするのは逆効果です。かえって不安が増えます。
1曲の演奏時間が5分間だとします。それを本番直前に一瞬で思い出そうとしても無理なのです。練習で演奏している時を考えれば分かります。1小節目を弾きながら最後の小節を考えません。2小節目を弾いている時に1小節目の事を思い出していません。つまり脳は演奏する順序=時間経過で記憶しているのです。常に次の音を考えています。その連続で時間が過ぎていきます。もちろん、練習で曲の途中だけを練習することはあります。この場合に記憶しているのは曲全体の記憶とは違う記憶をしていることになります。むしろ身体が覚えるための練習です。
音楽もフィギアスケートも「時間と運動」が一つ塊になっています。自分だけが記憶している「次の運動」を再生し続けるのが演奏であり演技です。どんなに難しいパッセージでも必ずつながりがあります。突然15小節目から演奏したり、4回転ジャンプをするわけではないのです。
話を戻します。
不安が緊張の原因なので「安心」を感じられる準備をすることです。
人によって安心する環境は違います。信頼できる人と一緒にいるのが良い人。
一人になって集中するのが好きな人。自分が一番穏やかでいられる心理状態を探すことです。
アスリートの中には試合直前に決まったルーティンをする人が多くいます。
陸上短距離のウサイン・ボルト。野球のイチローなどは有名ですね。自己暗示の一種です。
掌に「人」と書いて飲み込む真似をする「おまじない」で本当に安心する=自己暗示が出来るトレーニングをした人なら効果があります。普段から自己暗示のトレーニングをしていない人が同じことをしても効果は期待できません。
練習で「どうすれば成功する=思ったようにできる」かを考えながら身体を使う事も暗示につながります。無意識に繰り返して練習するのは一時的に身体=筋肉・関節が運動を記憶しているだけなので再現性が低くなります。「考えながら繰り返す」ことが重要です。

 緊張を楽しむ発想も有効です。
そもそも普段と違う環境を「非日常」と考えることです。普段の生活で体験できない環境を不安に思うより「期待」することで直前の過緊張から解放されます。どんな演奏でも演技でも同じことは絶対に出来ません。聴く人・見る人も違います。同じ曲を弾いたたとしても演奏は以前とは違うものです。

不安を楽しみに置き換えることは特別な事ではありません。
初めて食べる料理、初めて訪れる観光地などは不安より期待の方が大きいものです。
うまく弾こうとか間違えずに終わることを優先するより、一度しかない演奏の機会を心から楽しむ気持ちを持つ習慣をつけ「経験」を積むことで緊張を活用できるはずです。
 最後に「緊張は生理現象」だという事をもう一度書いておきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「絶対音感」の嘘ホント

映像はヴァイオリンとピアノで演奏した「ふるさと」ですが…
ヴァイオリンで弾き始めた最初の音の「音名」がすぐに分かる方は、
もしかすると?絶対音感をお持ちの方かも知れません。
答えは「レ」のフラットです。
YouTubeに動画でも時々「絶対音感」の意味を間違って使っている動画を見かけます。
音楽で使用される「12種類の音」の高さと音の名前が常に一致している状態を
「絶対音感のある人」と言います。絶対の対義語は相対です。相対音感はトレーニングで
絶対音感に近い音感に出来ますが「根本的」に違います。
試すのであれば「ソのシャープ」を歌ってみてください。
その音がピアノの音やチューナーを使って本当に合っているか?確かめてみてください。
前提はこの実験の間に楽器を演奏したり音の高さを知っている曲を聴いた後ではないことです。この状態から音の高さを「測って歌う」「測って音名を答える」のは相対音感の人です。
ラ=Aの音だけなら歌える・聴き分けられるのも「相対音感」が発展したものです。
私自身もその一人です。小学校1年生からヴァイオリンを弾いていますが絶対音感はありません。一般には言葉を覚える幼少期=2~5歳に音の高さと音の名前を繰り返し覚えると絶対音感が身に着くと言われていますが例外もあります。
そもそも鍵盤で1オクターブの中に12種類の音があることを知らない人がほとんどです。
さらに黒鍵にはシャープとフラットだけでも(ダブルシャープ・ダブルフラットを使わない)2種類の「音名」があります。ファのシャープとソのフラットは同じ鍵盤です。
絶対音感を持つ人の場合でもこの「異名同音」をすべて理解しているとは限りませんが、少なくとも「どれか1種類」の音名を間違えずに答えられるのが絶対音感です。
もっと厳密な絶対音感を持った人の場合、A=442ヘルツで記憶している人は444ヘルツ、445ヘルツの音を聴くと「高い」ことを一瞬で聴き分けます。まさに「人間チューナー」ですね。
この厳密な絶対音感のある人から見れば、何種類かの音の名前を答える人が「絶対音感があります」なんて笑ってしまうでしょうね。
絶対音感がなくても演奏できます。音楽の学校にも入学できます。プロの演奏家にもなれます。相対音感を鍛えれば良いのです。ただそれは「絶対音感」とは言いません。
意味を知らないで絶対音感!なんて言わないことです。

クラシック演奏家の人気って

映像は1985年のショパンコンクール。私はこの年に教員になって音楽の授業で生徒と一緒にドキュメンタリー番組を見た記憶があります。
話題をさらった「ブーニン」は当時のクラシック演奏家の中で最も人気のあるピアニストでした。今回のテーマはクラシック音楽の演奏家の「人気」について考える内容です。

人気…まさに人間が気にするから「人気」ですね。
コンサートに多くのお客様を集める「集客力」も人気のバロメーターです。コンサートの頻度=回数、地域や国、共演者、演奏会場などでも演奏家の人気が見て取れます。
一人の演奏家を中心に考えると人気がある「期間」と「人気度」が変化する人と、一定の人気で演奏活動を続ける人に分かれます。
一方で一人の聴衆から考えると自分の好きな演奏家が変わることもありますし、一人の演奏家の成長=変化を楽しみ続ける聴衆もいます。
 演奏をする人の数より聴く人の数の方が圧倒的に多いのは当然ですが、時代の変化と共に徐々に演奏家が増えすぎ、クラシックを聴く人が減少し続けている気がします。もちろん「演奏家」とひとくくりに出来ないようなレベルの違う演奏家たちが昔も今も存在します。強いて分類するなら「一流演奏家」と一流でない演奏家?(笑)ヴァイオリンの世界で言えば本人の意思=選択がありますが一般には「ソリスト」が頂点で「プロオーケストラメンバー」がその下の位置付けで「音楽教室やエキストラ」で生計を立てる人が底辺かも知れません。音楽大学で教える人の場合は教授、准教授、常勤講師、非常勤講師、合奏指導員と言う序列があります。
 これらは人気とは別の話になりますが、いずれの場合にも演奏家としての評価が基準になります。教員の場合は本来「指導力」が基準のはずですが必ずしも指導力で学校内地位が決まるものでもないようです。
人気のある演奏家とは?人気のない演奏家とどこが違うのでしょか?

演奏者の技術は人気にどれほど関係があるでしょうか?一般の人にとって専門技術の優劣は判断できません。難しそうな曲を速く演奏していれば「じょうずな人」に感じるものです。
技術以外に何が?基準なのでしょうか?
演奏者の容姿=ビジュアルの「好み」はどうでしょうか?衣装、容姿、話し方、声なども音楽とは無関係ですが人気の基準になります。「演奏家は音楽で!」と言う考えは正論ですが
見た目の印象で人気が出ることも事実です。
 演奏家が増え続ける今、演奏家として生き残るために何が出来るでしょうか?

「アイドル」をデビューさせるためには数億から時には10億円以上のお金が使われていました。1980年前後のおアイドル全盛期の話です。
毎月のように新人がデビューし、テレビや雑誌に顔を出してもらう為に、事務所は莫大な広報費用を使いました。名前と顔を一致させてもらう事が第一。歌のうまさは問題外。歌わせてもらえる番組ならどんな深夜番組でも出演。人気が出初めたら「売り抜ける」のがプロダクションの役目でした。アイドルは「使い捨て」とも言われていた時代です。
現代でも大手の音楽事務所は存在します。スポンサー企業を募り有望と認められたアーティストの宣伝にだけ広報費用を使います。
どんな演奏家=アーティストが有望なのか?
1.話題性がある=マスコミがあおってくれるネタがある
2.演奏以外の特徴がある=年齢・経歴・ルックスなど
3.事務所の意向に服従する=自由な発信や発言はさせない
4.どんな選曲でも無難に演奏する
恐らく他にもたくさんありそうですが、何より演奏家の個性や演奏技術よりも話題性が大切です。売れなくなったら違うアーティストを売り出します。

職業=音楽家に憧れる若者の夢を叶えられる割合は全国で100人に一人=1%より遥かに少ない数です。私が音楽高校、音楽大学に通っていた時代=今から40~50年前でも毎年たくさんの音大卒業生が生まれていました。音楽大学の数自体は今と大差ありません。卒業生の人数も変わりません。むしろ少子化と不景気が原因で音大の定員割れが深刻な問題になっています。
 学生の技術レベルはどう変わったでしょう?昔も今も変わらないのは「個人差が恐ろしく大きい」事です。入学できるレベルは昔より下がったと言われています。卒業に必要な知識・技術のレベルも下がったと言う声がほとんどです。「誰でも入学できて誰でも卒業できる」時代かも知れません。
 うまい人=技術の優れた学生を昔と比較すると恐らく現代の方がレベルが高いと思います。違う言い方をすると音大を首席で出る人の技術は今の方が高いと言う事にもなります。音大卒業生の「平均レベル」は表しにくい面があります。各音大を卒業した「ある年」の卒業生の中で何人が?どのコンクールに?入賞したか?と言うデータは取れますが、それが平均値だとは言えません。進学塾は「何々中学合格何名」で生徒を集めますが、その数字も実際には信頼に値しません。進学塾が優秀と思われる子供と保護者に対し授業料を免除するなどして囲い込み、有名な学校を受験してもらいます。それが実状です。

先述したように「少子高齢化」「景気の低迷」「先行きの不安感」が長い期間続いています。改善される見通しがありません。企業で働く「サラリーマン」は給料が上がらない!事が大問題ですが演奏家は?
給料をくれる人=就職できる企業がない!のが実状です。
以前のブログで書いたようにコンピュータの進化と普及で演奏家の仕事は激減しました。結婚式やパーティーでの演奏の仕事も激減しました。教室で教えようにもレッスン代に使う余裕がなくなった家庭が増え習い事は真っ先に切られました。プロのオーケストラで欠員が出る可能性は年々減っています。定年年齢は変わらなくても定年ギリギリまで演奏する人が増えたことと、高い人件費=社会保障費を含むを払わなくても済む「エキストラ」でコンサートを開くオーケストラが昔よりさらに増えたこと

「多くの人に認めてもらう人気より本当に自分の演奏を喜んでくれる人を一人でも増やすこと」
「自分の演奏にこだわりを持ち続け他の演奏家との差別化を考える」
時代は変わりました。音楽が爆発的に流行することはありません。
特定の演奏家が話題になってもすぐにブームが終わります。
世界は狭くなり情報はスマホで24時間得られます。
クラシック音楽の演奏会が今後、増える可能性は極めて低い中で
自分の出来る範囲で出来る広報を行い、人との絆を大切にすることしか演奏家が絶滅せずに生きる方法はない気がします。
がんばりましょう!
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介。。

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「好みの違い」はどこから生まれる?

今回のテーマは「好み」が人によって違うことを掘り下げるものです。音楽でも食事でも人それぞれに好き嫌いがあるのは当たり前のことです。それは自分以外の人に対しても言えることです。
「私は嫌いな人は一人もいない」って人を見たら正直「ホント?」って思ってしまいます。理想的には嫌いなものがひとつもない人間…かも知れませんが不自然な気がします。嫌いではなくても好きではないとか、こちらの方が好きと言う感覚はあって当然だと思います。
同じような環境で育った兄弟でも好き嫌いは違うものです。双子の姉妹でもそうだと聞きます。

何から何まで好みが同じ人は恐らく存在しないと思います。
では何故?いつの間に?人の好みは決まるのでしょうか?
離乳食を食べ始めた頃の乳幼児でも味の好き嫌いがあり、人の好き嫌いがあります。本能的に母親の声や匂いが一番安心できる事は誰でも想像できます。ただ今まで味わったことのなかったはずの離乳食の中で好きな味・舌触り・匂いはどうしてあるのでしょうか?

以前「臭いと感じる匂いはその人にとって有害な匂い」と言う話を聞いたことがあります。ただ必ずしも害があるとは思えない気もします。例えば納豆の匂いが嫌いな人にとって発酵食品や大豆が有害だとは思えません。納豆が好きでもブルーチーズの匂いは我慢できないと言う人も珍しくありません。
生理的に嫌い!と言う言葉も耳にしますが根拠となる事実はなさそうな気がします。ただなんとなく嫌い…言葉に出来ないけれど嫌いという事はいくらでもあります。逆に何故か大好きと言うものもたくさんあります。
好きだった物が嫌いになったり、逆のケースも良くあります。好みが変わるのも生きていれば経験することです。この「変化」がどうして起きるのかを考えると何故好きになったのか?嫌いなのか?の謎を紐とける気がします。

好みが変わるきっかけがある場合もあります。
「食わず嫌い」もその一つです。先入観があって嫌いと思い込んでいた食べ物や音楽は子供の頃にはたくさんありました。初めて食べた時に「まずい」「嫌い」と感じた食べ物や音楽は次に同じものを食べたい・聴きたいとは思いません。二度目に我慢して食べたり聴いたりして判断が変わる場合もあれば「やっぱり嫌い・無理」と思うケースもあります。嫌いだった食べ物や音楽を好きになる共通項は「経験」することです。何回も嫌な経験をすることもありますが、「嫌いな食べ物や音楽」が「実は美味しい!好き!」と変わる経験ですね。
人間の五感「視覚・嗅覚・味覚・聴覚・触覚」は成長と共に変化します。多くの場合は徐々に鈍くなると言われています。ただ人間の視覚は乳幼児の頃には非常に鈍い=視力が悪いのが普通だと言われています。加齢と共に聴覚、視覚が衰えるのは一般的に知られています。
嗅覚を使って香水の調合をしたりワインの香りを嗅ぎ分ける職業の人もいます。もちろん犬や猫の嗅覚には及びませんが。視覚も空を飛ぶ「鷹」などは数キロ先の小動物を見分ける視力があると言われています。聴覚も人間が感じられる範囲より遥かに高い音を聴くことが出来る生物はたくさんいます。

そんな人間の五感と脳の記憶が繋がって「好み」が生まれます。

察するところ人間の好き嫌いに明確な違いは見つけられないと思います。記憶した物の名前と経験が「これは好き」「これは嫌い」と分類している事の方が多いと思います。
先入観を持たずに名前さえ知らない料理を初めて味わった時「何かに似ている」物を探そうとします。味覚の種類=塩味・甘味・苦味・うま味(これも入るようです)の組み合わせと匂い、食感=舌触り・噛み応えなどを感じて「好きな食べ物」かどうかを無理やり決めようとします。分析しているわけではないのでその料理の名前と「好き・嫌い」を記憶しています。
音楽もよく似ています。「これはクラシック音楽です」と先に伝えられて聴いた音楽がつまらない・面白くない・楽しくないと感じれば記憶として「クラシックは嫌い」と残ります。クラシックって何?(笑)
戻ってしまいますが中華料理が苦手と言う人に中華料理ってどの食べ物の事?と尋ねて答えが正しく言える人はいません。そもそも分類自体が曖昧であり中華料理の定義さえ人によって違うのですから。
クラシック音楽にも厳密な定義はありません。さらに言えばベートーヴェンが作曲していた当時のベートーヴェンの作品は「クラシック」ではなく「現代曲」だったはずです。バッハでもストラビンスキーでも同じです。多くの人は演奏のスタイルでクラシック音楽が決まっていると勘違いしています。オーケストラでゲーム音楽を演奏した場合、クラシック音楽ではありません!が子供がその音楽を聴いていると親は「我が子もやっとクラシック音楽に目覚めたか!」とぬか喜びしていた話は有名です。

最後に今現在嫌いな音楽や食べ物がある人の場合を考えます。
もちろん何歳になっても好き嫌いがあって当然です。
死ぬまで一度も口にしないと決めた料理があっても誰も咎められませんし不幸だとは思いません。音楽も同じです。一生演歌は聴かない!ヴァイオリンでポピュラーは弾かない!と決めて誰かが困る?(笑)
一方で演歌が大好きな人からすれば「なんで?演歌の何が嫌いなの?」と考えるものです。先ほどの中華料理の話ですね。
好きな食べ物・音楽に巡り合えた人は楽しみ・幸せを一つ多く見つけたことになります。好きな食べ物だけを食べ続けても絶対に!飽きない人は恐らくいません。音楽は食べ物と違って聴かなくても死にません(笑)から、一生1曲の演奏だけを聴き続けても健康には問題ありません。他の人から見れば「可哀そうな人」と思われるだけです。
どんな音楽、どんな演奏も嫌いになる客観的な理由はない事。自分が嫌いな音楽と好きな音楽に共通点が必ずあること。
演奏する楽器に不向きな音楽もあると思います。。それさえ人によって判断が異なることです。
他人の価値観を否定せず、自分の好きなものを増やすこと。
そんな生き方をしたいと願っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者との距離と楽しみ方

映像はかなり前の演奏動画ですが普段レッスンで使っていた教室のスペースで開いたミニライブ(コンサート)での演奏動画です。
映っているように私と最前列で聴いてくだっさているお客様との距離は1メートルあるか?ないか?の至近距離です。
今回のテーマは演奏を聴く時の「距離」で何が違うのかを考えるものです。

演奏する会場が「〇△ホール」と書かれている場合、一般的には客席数が100から数百席の「小ホール」と1,000席以上の客席を持つ「大ホール」に分かれます。
名称だけでは判断できませんが設計段階での「目的」があります。多目的に使うためのホールは残響時間を短くし講演や演劇の声を聞き取りやすくした音響を考えています。客席から舞台上が見えることも大切な要素になります。
音楽の演奏を主眼とする音楽ホールでも大音量のコンサートを開催するためのホールと室内楽やソロ、アコースティック楽器によるジャズライブなどに適したホールに分かれます。前者の場合にはステージの広さも求められます。残響と反射音は設計で変わります。金管楽器や打楽器の演奏では残響や遅延=ディレイは嫌われる傾向があります。一方で弦楽器のアンサンブルや独奏の場合には音域のバランスが取れた残響があった方が心地よく演奏を楽しめる上に演奏者も自分の演奏した音が返ってくるので安心して演奏できます。

ホールではない場所での演奏も立派な演奏会場になり得ます。
数千から数万人が一度に音楽を楽しめるような野外でのフェス、巨大なドームでのライブなどでの演奏もあります。音は電気的に増幅し巨大なスピーカーから聴こえてきます。演奏者を見るのもスクリーンに投影された映像になります。
ストリートライブや商業施設や駅構内で演奏するケースもあります。
演奏の環境は決して良いとは言えなくても演奏者を間近に感じられるのが最大の楽しみです。
それ以外にもサロンホールでの演奏や会議室、一般家庭のリビングでも演奏できます。広さも音響も様々です。
一度に多くのお客様を迎えられる会場での演奏と数名~数10名程の方に聴いて頂く演奏の違いとは?
一言で言えば「お金」の問題です。
大きな会場は使用するための費用が莫大になります。利益を出すためには来場者からの入場料(チケット代金)×来場者数で決まります。
小さな会場や会議室、リビングのような場所であれば会場費はほとんどかかりませんから入場料や人数を気にする必要はありません。
もちろん大きな利益を望むなら「大きな会場で高い入場料をたくさんの人に払ってもらう」事が条件になります。現在の不景気は日本で高い会場費に見合う集客をすることは極めて困難です。高い入場料を払えない人にとって演奏会が縁遠いものになっています。

そんな現代演奏家が生活する収入を得ることは本当に大変なことです。
「自然淘汰」と言ってしまえば簡単ですが若い演奏家や大手の音楽事務所のプロモートを受けていない演奏家にとって演奏する機会が失われています。
小さな会場でも少ないお客様でも演奏を聴いて頂ける場を提供してくださる方たちが増えることを願っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介