メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

     

メリーミュージック

   

2004年創業バイオリン教室・ピアノ教室・ビオラ教室・楽器店です
神奈川県相模原市緑区原宿南2-26-1

ブログ

ピアノ・バイオリン・ビオラのレッスンメリーミュージック

メリーミュージックは2004年8月に開業した音楽教室・楽器店です。
神奈川県相模原市緑区原宿南2丁目に建つ赤い外壁の一軒家
桐朋学園大学卒業の演奏家夫婦(野村謙介=バイオリン・ビオラ 野村浩子=ピアノ)が経営・指導しています。
月曜定休日。土曜日日曜・祝日も朝10時から夜9時までレッスン
個人指導。音大・音高受験対応
代表 野村謙介はこれまでに私立中・高校で20年間音楽教諭として勤務し150名の部活動オーケストラを設立し指揮者として指導
NPO法人メリーオーケストラを創設し理事長・指揮者として活動中
現在までに1,000人を超える生徒に楽器演奏を指導
初めての方も上達を望む方も大歓迎です
高齢者も障がいのある方でも安心してレッスン可能
演奏を楽しみたいと思う方のサポートをライフワークにしています。

一年の計は…

 2023年になりました。兎年。私?年ですが(笑)
一年の計は元旦にあり?あるのかな~?今までも元旦に「よし!今年こそはっ!」と誓ったものですが、年末にはそれさえ忘れてたような人生。とほほほ。
 今年の目標!「来年のお正月も平穏に迎えられること」って駄目ですか?
穏やかに一年を暮らせるなら、それが一番の事です。昨年末に「今年の10大ニュースってなんだろうね?」と二人で考えて、10個もないから3大ニュース(笑)
第一位! 浩子さんが電子楽譜「グイド」を使い始めたこと
第二位! お風呂の換気扇が壊れて新しくなった
第三位! 特になし(笑)
その位に穏やかな一年でした。つまらない?いえいえ。これぞ平穏!

 今までの62年間に、やり残してきたことは山ほどあります。
でもそれを悔やんでもいません。受け入れることができる年齢になって、それを共感できるパートナーと暮らせることが一番です。
 今年も一年、屁理屈ブログにお付き合い下さい!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

歌を弾く

 映像は友人の作曲家、Ikuya Machida君がアレンジしてくれた「ビリーヴ」を陳昌鉉さんのヴィオラを使って、浩子さんと自宅で撮影したものです。
 ヴァイオリンなど楽器を使って「歌」を演奏する場合、特にクラシック歌曲ではなくポップス系の音楽を演奏すると「安っぽく」聴こえてしまうことがあります。演奏技術の不足と、アレンジの稚拙さが原因の場合がほとんどです。
旋律は美しいのに、ピアノのアレンジが…いま百(笑)と言う楽譜がほとんど。
かと思えば、ヴァイオリンが旋律を演奏していたと思ったら、ピアノが旋律を演奏し始めて、ヴァイオリンは「ひゃらひゃらら~♪ぴろりろり♪」もしかしたら?オブリガードのつもり?なのか意味不明な「別物」をひかされると言う「あるある」なアレンジ。ヴァイオリンにメロディー弾かせてくれ!(笑)
 綺麗に弾けば、綺麗な曲がたくさんあります。
もっと「現代ポップス」に光を当てましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリス 野村謙介

上質の「とろけるプリン」か「しっかり羊羹」か

 上の動画は、オイストラフ。下の映像はムターの演奏です。
どちらも大好きな演奏家なのですが…弓の「使い方」音の「出し方」がまったく違う二人に感じます。
・オイストラフは「口に入れると溶ける、究極のなめらかプリン」のイメージ。
・ムターを例えるなら「きめ細かいずっしり身の詰まった羊羹」のイメージ。
当然、お二人ともに曲によって、音色を使い分けられる技術をおもちです。
むしろ「好み」と言うか「デフォルトの音色」とでもいえる音の出し方が違うように感じます。
 リサイタルで演奏するヴァイオリン・ヴィオラの音色を考えていて、どちらの「食感」が似合うのか?さらに言えば、その音の出し方で、客席にどう?響くのか?結局、どちらのひき方もできるようにして、会場で誰かに聞いてもらって確かめるしかないのですが…。
 特にヴィオラで「羊羹」的な演奏をすると、チェロの音色に似せようと「足掻いている」「無理をしている」ようにも聞こえてしまいます。一方でヴァイオリン特有の「弓の圧力と速度」は、実際に使っている楽器と弓とのお付き合いが長いので、客席への音の広がり方も想像ができます。
 好みが分かれます。「プリン」を「軽すぎる」「弱い」と感じる人もいます。「羊羹」を「息が詰まる」「潰れている」と感じる人もいます。
どちらおも「美味しい」のです。食感が違うのです。甘さの問題ではありません。さぁ困った(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏方法の「原点」に立ち戻る

 写真は恩師久保田良作先生が、箱根で行われた門下生の夏合宿で合奏を指揮されているお姿です。日本を代表する素晴らしいヴァイオリニストとして、演奏活動も続けられながら、多くの弟子たちに熱く、そして優しく「音楽」を伝えられた指導者でもありました。桐朋学園大学の弦楽器主任教授としても、多忙な日々を送られていました。レッスンを離れると、人を気遣い優しい言葉で語り掛けてくださる「憧れの人」でした。

 「久保田門下」で最も不出来の弟子だった私が、今「デュオリサイタル」を開き大学を卒業して40年近く経っても、音楽に関わっています。
演奏技術を身に着けることは、その人の生涯をかけた行為です。「すべて身に着けた」と思える日は来ないものでしょう。それでも、あきらめずに練習することが演奏家の日常だと信じています。
 練習をする中で、新しい「課題」を見つけることも演奏家にとって日常の事です。その課題に向き合いながら考えることは?
 「原点に帰る」事だと思っています。
何を持って原点と言うのか?自分が習ったヴァイオリンの演奏技術を、思い起こせる限り思い出して、師匠に言われたことを「時系列」で並べてみることです。
 その意味で、私は幸運なことに久保田良作先生に弟子入りしたのが「中学1年生」と言う年齢ですので、当時の記憶が駆るかに(笑)残っています。
 「立ち方」「左手の形」「弓の持ち方」「右腕の使い方」
教えて頂いたすべての事を記憶していない…それが「不出来な弟子」たる所以です。それでも、レッスンで注意され発表会で指摘される「課題」を素直にひたすら練習していました。「できない」と思った記憶がないのは、出来たからではなく、いつも(本当にいつも)言われることができなかったからです。要するに、出来ていないことを指摘されているので「出来るようになった」と思う前に、次の「出来ていないこと」を指摘される繰り返しだったのです。それがどれほど、素晴らしいレッスンだったのか…今更ながら久保田先生の偉大さに敬服しています。
 教えて頂いた演奏技術の中に、私が未熟だった(今もですが…)ために、本質を理解できずに、間違った「技術」として思い込んでいたもの=恐らく先生の糸とは違う事も、何点かあります。それをこの年になって「本当は?」と言う推測を交えて考え真押すこともあります。

 自分が習ったことのすべてが「原点」です。師匠に教えて頂いたことを「できるようになっていない」自分を考えれば、新しい解決策が見えてきます。
 自分にとってどんな「課題」も、習ったことを思い出して「復習」すれば必ず解決できる…できるようにはならなくても、「改善する」ことはタイ?かです。
信頼する師匠から受けた「御恩」に感謝することは、いつになっても自分の演奏技術、音楽を進化させてくれるものだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


音楽の「揺らぎ」とは?

https://youtube.com/watch?v=8bonX5-kuFQ

 映像は木曽福島でのコンサートで演奏した瑠璃色の地球。ヴィオラとピアノで演奏しました。
 クラシック音楽とポピュラー音楽の「違い」は様々あります。例外も含めて考えれば厳密に「違い」を言葉にすることは不可能かもしれません。
 クラシック音楽を学ぶ時、テンポを「維持する」事と「揺らす=変える」事を多く学びます。一定の速さで音楽を演奏する技術と、その真逆に意図的に速さを変える技術はクラシック音楽のほとんど全てで用いられる技術です。一人だけで演奏している時にも、アンサンブルやオーケストラで誰かと一緒に演奏する場合にも必要不可欠な技術です。トレーニングの仕方も様々あります。メトロノームを使った練習や、時計の秒針を使ってトレーニングすることもできます。
 一方、ポピュラー音楽の場合に「一定の速さ」で演奏することは、多くの曲で「当たり前」の事です。その昔、レコーディングスタジオでヴァイオリンを演奏するお仕事をしていた際に、演奏者がモニター(ヘッドフォン)で聴く音を選べました。「ドンカマ」と呼ばれる電子メトロノーム音を選ぶこともできました。また、ヴァイオリンより先に録音されたドラムの音やベースの音を選択することもできました。要するに「指揮者不要」だったわけです。この方法で色々な楽器を順番に録音していく方法を「重ね録り」「マルチトラック」などと呼びます。一度に「せ~の!」で録音する方法しかなかった時代には、当然考え付かなかった録音方式です。この方法なら、それぞれの楽器を別々に録音するので「録り直し」の回数が格段に減る上に、あとからヴァイオリンパートだけをやり直すことも、音量のバランスを変えることも自由自在になります。すべての楽器の録音が終わって出来上がったもの=メインボーカルが入っていないものが「カラオケ」と呼ばれるものです。現在のカラオケと言う言葉は、この録音方式で生まれた言葉なのです。
 言うまでもなく、この方式で録音サウル場合、途中でテンポが「揺れる」のは編集する人にとっても、演奏する私たちにとっても「煩わしいことでしかありませんでした。現代は録音がすべて「データ」つまり電気信号としてコンピューターに記録される方式です。昔は「テープ」を使って録音するのが当たり前でした。一秒間に38センチの速度で録音ヘッドを通過する「テープ速度」で録音していました。巨大な10インチのリールに巻き付いたテープでも、約45分しか録音出来ません。録音するのも大変は事だったのです。
 その限られた条件での録音を効率化するためにも、テンポの揺れは「御法度」だったのポピュラー音楽です。

 クラシック音楽の場合、テンポの揺らぎ=揺れは演奏家の「こだわり」で生まれます。テンポを変えずに演奏する時にも「意図」があります。
なんとなく、テンポが変わってしまう…駈け出したように速くなったり、いつの間にか遅くなったり…無意識に変化することは「ダメ」とされています。だからと言って、先述のポピュラー音楽のようにテンポをキープさえしていればよいか?と言うと、それも「ダメ」なのです。難しいですね~(笑)
 音楽の揺らぎは、楽譜に書き表される「リタルダンド」や「アッチェレランド」とは根本的に違います。作曲家が指示している速度の変化は、作曲家の感じた「揺らぎ」だと考えています。もちろん、それはとても重要なことですが、どのくらい?「だんだん遅く」「だんだん速く」するのかは、演奏者の「感じ方」で決まります。さらに、楽譜に作曲家が書かなかった「揺らぎ」を演奏者が感じ、表現することは演奏者に許された表現の自由(笑)だと思います。
 指導者によっては「そこで遅くしてはいけない!」とか「もっと速くしなきゃ!」と生徒に自分の感じ方を押し付ける人がいます。正しく伝えるのなら「…私なら」という接頭語を付けるか「例えば」として違う選択肢の速さを生徒に示して、好きなように演奏させるのが正しい指導だと思います。合奏ではそうもいきませんが(笑)みんなが好き勝手なアッチェレランドをしたら、収拾がつかなくなります。二人だけのアンサンブルでも、それぞれに違った「揺らし方」の好みがあります。どちらが正しい…という答えは存在しません。歩み寄るしかありません。
揺らすことが常に心地よい…のではありません。それも大切なことです。
揺れると気持ち悪く感じる場合もあります。逆に、常に同じテンポで揺れずに演奏していると「不自然」に感じることもあります。多くの生徒さんは「揺らす」ことを怖がります。むしろ揺れていることに気付かない場合が多いのですが(笑)意図的に、ある「拍」だけを少しだけ長くすれば、次の拍が始まる時間は後ろにずれる=遅れます。この一拍の「揺らぎ」も立派な揺れなのです。
聴いている人が「自然に感じ」「揺れに気付かない」ことが最も自然は揺らぎだと思います。心地よい揺らぎは、例えれば不規則に吹く「そよ風」の中で感じる感覚です。あるいは、静かな湖面にぷかぷかと浮かんでいる時に感じる「静かなさざ波」にも感じられます。決して「暴風」や「大波」ではないのです(笑)
 怖がらずに実験することです。注意するのは「癖になる」ことです。例えば、小節の1拍目を「いつも遅く入る」癖は無意識にやってしまいます。また、音型に気を取られすぎる場合も「癖」が出ます。上行系クレッシェンドで「いつも遅くなる」のも癖。3連符なのに「1.5:1.5:1」でいつも演奏するのも癖です。
 何度も試してからひとつを選ぶこと。正解はありません。自分の「個性」を違和感なく表現するために、必要な努力だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

デュオリサイタル15迫る

 動画はデュオリサイタル15のご案内動画です。
2022年12月18日(日)午後2時開演 相模原市緑区もみじホール
2023年1月7日(土)午後5時開演 代々木上原ムジカーザで
同じプログラムをホールとサロン、ベヒシュタインのピアノとベーゼンドルファーのピアノで聴き比べが出来ます。
予定している演奏曲
・懐かしい土地の思い出より「メロディー」(チャイコフスキー)
・ノクターン(チャイコフスキー)
・ただ憧れを知る者だけが(チャイコフスキー)
・シュピーゲル・イン・シュピーゲル(アルヴォ・ペルト)
・祈り(ラフマニノフ)
・彼方の光(村松崇継)
・ジョスランの子守歌(ゴダール)
・無言歌(メンデルスゾーン/クライスラー)
・明日(アンドレ・ギャニオン)
・Earth(村松崇継) 他
どの曲も私たちにとって、愛すべき曲たちです。
多くの演奏家と比べて、私たちはすぐに音楽に出来るような技術を持ち合わせていないことを自分でも、互いにも認めています。だからこそ、昨年のデュオリサイタルから1年間と言う時間をかけて、これらの曲に取り組んできました。
 それでも自分たちで完全に満足できる演奏にまで、到達できるかどうか自信はありません。出来ることを出来る限りしています。その努力も他のかたから見れば足りないものかも知れません。自分を甘やかす気持ちではなく「受け入れる」ことも大切なことだと思っています。
 生徒さんに「妥協」と言う言葉の意味をレッスンでお伝えしています。悪い意味で考えれば自分を追い詰めてしまいます。諦めることとも違います。今の自分の力を認め、足りないことを知った上で演奏をする以外に、方法はないと思っています。「完全に満足できるようなってから」と言う考え方こそが、諦めであり現実からの逃避だと思います。そもそも完全な演奏は人間にはできないと思っています。不完全で当たり前だと考えています。
 リサイタルで一人でも多くのかたに、自分たちの音楽を楽しんでもらいたいと願いながら、現実に来場されるかたの人数は、著名な演奏家の方々が開くコンサートとは比較になりません。当然だとも思います。広告にかけるお金もなく、知っている方の数も限られています。「お友達」「先輩」「先生」「生徒」以外の一般のお客様は、有名な演奏家のコンサートや、クラシックファンの喜ぶプログラムのコンサートに足を運ばれるのは当然のことです。来ていただいた方たちに「これだけしかお客さん、いないの?」と思われてしまうことが申し訳ない気持ちです。それが現実なのでお許しください。
 こんな私たちですが、ぜひ生の演奏をお聴きいただき、ご感想を頂ければと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
ピアニスト 野村浩子

客席で聴こえるヴィオラとピアノ

 映像は11月23日(祝日・水曜)に木曽町文化交流センターで開催されたコンサートよりヴィオラとピアノで演奏した村松崇継さん作曲の「Earth」
撮影してくださったの福島小学校の教職員。客席の片隅からビデオカメラで圧営してくださったものです。カメラに付いたマイクで録音されているので、客席に聴こえているバランスに近いものです。

 この曲について以前のブログでも書きましたが、村松崇継さんがフルートとピアノのために作曲され、ご自身のライブコンサートでチェリスト宮田大さんと共演されている動画に触発されて(笑)ヴィオラで演奏できるようオリジナルでアレンジして者です。宮田さんはご自身のコンサートツァーで演奏されているようです。ピアノの「楽譜」がとても音符の多い(笑)、かなり派手目な曲なので、弦楽器でメロディーを演奏すると、二つの楽器のバランスが心配でした。
 この動画をご提供いただき、改めて聴いてみると「思ったよりヴィオラが聴こえてる!」ことにやや驚きました。頑張らなくても大丈夫なのかも!って今更思う(笑)リサイタルでも演奏する予定なので、とっても有意義な動画になりました。
 うーん。それいにしても、私だけを撮影すれたのは辛い…。カメラのアングル的にピアニストが映りこまなかったようですが、鑑賞には堪えません。見ないで聴いてください(笑)

 こちらも同じコンサートアンドレ=ギャニオンの「明日」をヴィオラとピアノで演奏したものです。以前、ヴァイオリンで演奏したものですが、ヴィオラの太さ、暖かさ、柔らかさも好きです。間奏で私は何をしたものやら(笑)
 今回、リハーサル時にホールの響きを確認してくれる人がいなかったため、とても不安でした。残響が短い多目的ホールだったこともあり、客席に届く音がどうなのか…録音されたものを聴くことで初めてわかるというのも辛いものです。
 来年は「木曽おもちゃ美術館」の残響豊かなホールで演奏予定で、今から楽しみにしています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

●●記念オーケストラに物申す

https://youtube.com/watch?v=jyL6QmdLg90

 映像は1992年松本のキッセイ文化ホールでの「サイトウキネンオーケストラ」の演奏。このホールが出来たばかりのこの年、私の母校でもある桐朋学園創始者の斎藤 秀雄氏を偲んで開催された演奏会。1974年に逝去された斎藤 秀雄氏を私は直接存じ上げません。指導を受けたこともありません。ちなみに私は桐朋学園の第25期生です。小澤征爾氏が第1期生なので私の25歳「大先輩」でもあります。この演奏会が行われた30年前、私は32歳。小澤征爾氏は57歳。
高校大学生の頃に「小澤先生」として学生オーケストラの指導をされていた当時の事を今でも鮮明に覚えています。高校入学当時15歳の私、小澤先生は39歳。思えばまだ若い先生でした。出来の悪い学生だった私にとって、小澤先生の活躍は憧れでもあり雲の上の存在でもありました。尊敬する気持ちは今も変わりません。
 ただ、今現在もこの「サイトウキネン」が演奏を行っていることに、大きな違和感を持っています。私はサイトウキネンに「呼ばれる」ような技術ではないので「部外者」です。それを「ひがみ」と思われても私は構いません。桐朋学園の一人の卒業生として、また今も多くのアマチュア演奏家と共に音楽を愛好する人間として、私立学校の創始者をオーケストラの冠に付けて、演奏していることが果たして純粋な「恩師への感謝」と言えるのか疑問に感じます。
 桐朋の高校(桐朋女子高等学校音楽科)に入学する以前に、子供のための音楽教室などで斎藤 秀雄氏の指導を受けていた人もいるとは思います。とは言え、その人たちは当時13歳以下の子供だったことになります。つまり、斎藤 秀雄氏に指導を受けた「生徒」たちの最年少が現在(2022年)63歳もしくは64歳のはずです。一期生は現在、86歳もしくは87歳です。この第一回「サイトウキネン」が行われた当時から30年間という年月が経って、諸先輩が演奏されていることは素晴らしいことだと思います。その反面、現在演奏しているメンバーの中には多くの「斎藤 秀雄を知らない人」がいるのも事実です。第一回の演奏会の時から数名はそうした演奏者もいましたが、現在は?そして今後は?
 さらに、誰がこのオーケストラに参加する「お許し」を与えているのかという素朴な疑問です。「上手な人を集めているだけ」と言われればそれまでです。それが何故?「サイトウキネン」なのか意味不明です。一言で言ってしまえば「誰かのお気に入りが集まっているオーケストラ」にしか思えないのです。それでも演奏技術が高ければ良い…それならそれで「サイトウキネン」と言う学校名を連想させる名前を使うのはいかがなものでしょうか?
 桐朋学園同窓会の幹事として、意見を一度だけ発言したことがあります。
「卒業生の中で一部の人だけの活躍を称賛し、応援するのは同窓会として正しいのか?」という意見です。私を含めて、多くの桐朋学園卒業生が「サイトウキネン」や「●●周年記念コンサート」とは無縁の生活をしています。それが「能力が低いから」「努力が足りないから」と同窓会が片づけて良いとは思いません。
 学校は学ぶ生徒・学生と教える教員、支える職員で成り立つ「学びの場」です。そこで学んだ人たち、教えた人たち、働いた人たちすべてが「同じ立場」であるはずです。卒業し有名になった人を「優秀な卒業生」「卒業生の代表」とする発想を斎藤 秀雄氏は望んでいたのでしょうか?少なくとも私の知る斎藤 秀雄先生は「できの良い子は放っておいてもうまくなる。出来の悪い子を上手にすることこそが教育の本質」と考えていた教育者だと思っています。一期生である小澤征爾氏の世界的な活躍を強く望まれた気持ちは理解できます。そして、日本に世界で通用する演奏家を増やしたいと言う熱意も素晴らしいことだと思います。
 私には●●記念オーケストラや●●フェスティバルに「個人」を崇め奉るのは「尊敬」とは意味が違うように感じます。収益事業として利益を、母校の後進の育成に充てるのであれば「桐朋学園卒業生オーケストラ」として学校法人の管理下に置くべきです。メンバーの人選や基準、報酬も明確にすれば個人名を頭に付ける必要もなく、演奏者が入れ替わっても何も問題はないのです。
 まさかこれから先も、同じメンバーで演奏活動を続けるとは思えませんが、いずれ斎藤 秀雄氏に指導を受けた人は誰もいなくなる日が近くやってきます。「サイトウ」が「オザワ」になっても結果は同じです。
 音楽家は生前に、どんなに素晴らしい業績を残したとしても、いずれ世を去るのです。その後に、音楽家の名前を使った「コンクール」が多くあります。特に作曲家の場合には、残された作品を演奏することが大きな意義になります。
他方で演奏家の死後に「●●記念」や「●●管弦楽団」は世界的に考えても、ほとんど受け入れられていません。演奏家の「業績」は生きて演奏している間に評価されるものです。教育者の業績は多くの場合「学校」として継承されるものです。福沢諭吉の慶應義塾もその例です。桐朋学園もその一つです。斎藤 秀雄氏が自分の名前を学校名にしていたのなら、また話は少し違いますが少なくとも「オーケストラ」に個人…それが故人でも、現役の人でも「人を記念する」こと自体が間違っていると私は感じています。
 卒業生の癖に!母校愛がない!とお叱りを受けても、ひがみ根性だ!と言われても私は自分の考えでこれからも生きていきます。そして卒業した母校から、さらに新しい音楽家が生まれることを切に願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうとございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

うまくなるってどんな意味?

 映像はもう8年も前の演奏動画です。ヴィオラで演奏したシンドラーのリスト。自分の演奏を客観的に観察することは、演奏者にとって必要なことです。
自分以外の人の演奏を聴く時と何が違うのでしょうか。

 自分の演奏が何年練習しても「うまくならない」と感じるのは私だけではないと思います。多くの生徒さんが感じていることのようです。
 生徒さんより長く演奏をしている自分が、なぜ?うまくなっていく実感がないのでしょうか。練習不足もあります。練習方法に問題があることも。意欲が足りないことも。「原因」はいくらでも考えられますが、50年以上ヴァイオリンを演奏しても「この程度」と思ってしまうのが現実なのです。うまくなりたい!と思う自分と、あきらめている自分が葛藤しています。生徒さんには「あきらめないこと!」と言いながら自分が上達していないと感じる矛盾。
 そもそも「うまくなる」ってどんな事を表す言葉なのでしょうか。
「できなかったことができるようになる」うまく弾けなかった小節を、練習して演奏できるようになった…と思っても、本番でうまく弾けていないことを感じる時に感じる挫折感。練習が足りない…ことは事実です。でもね…。
 自分の演奏を昔と今と聴き比べて、どこか?なにか?うまくなったのか、考えることがあります。生徒さんの演奏ならいくらでも見つけられるのに、自分の演奏は「ダメ」なことばかり気になります。昔の演奏の「ダメ」もすぐにわかります。つまり「良くなったこと」が見つからないのです。練習している時には「これか?」「うん、きっとこれだ!」と思っているのに、あとで聴いてみると「違う」気がすることの繰り返しです。一体、自分はなにを目的に練習しているのか…うまくならないなら、練習しても意味がない。練習しないなら人前で演奏することを望んではいけない。音楽に向き合う資格がない。負のスパイラルに飲み込まれます。そんな経験、ありませんか?

 自分の演奏に満足できないから、練習をやめることは誰にでもできることです。一番、簡単に現実から逃避する方法です。
 自分がうまくなったと思える日は、最後まで来ないのが当たり前なのかもしれません。うまくない…のは、他人と比較するからなのです。自分自身の容姿に、100パーセント満足する人はいないと思います。性格にしても、健康にしても同じです。他人と比べるから満足できないのです。
 今日一日、過ごすことができた夜に「満足」することがすべてですね。
「欲」は消せません。生きるために必要なことです。本能でもあります。
欲を認めながら、自分の能力を認めることが生きること。それを、もう一度思い返して練習を繰り返していきたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンとピアノの音量

 映像はデュオリサイタル10代々木上原ムジカーザで演奏した、エンニオ=モリコーネ作曲「ニューシネマパラダイス」です。私がかけているメガネは「網膜色素変性症」という私の持つ病気の症状のひとつ「暗所で見えない」ことを解決するために開発された特殊なメガネです。
 さて、今回のテーマを選んだ理由は?

 練習を含めて、ヴァイオリンとピアノで演奏する時に、それぞれの演奏者に聴こえる「自分の音」「相手の音」のバランスと、客席で聴こえる両者=ヴァイオリンとピアノの音量のバランスの違いについて。以前にも書きましたが、私の場合練習していると自分の音の大きさに不安を感じることが増えた気がしています。聴力の問題ではなく、感覚的な変化です。演奏する曲によって、ピアノもヴァイオリンも音量が変わることは当然です。特に「聴こえやすい音域」さらに「同時になるピアノの音の数」は演奏者が考える以前に、楽譜に書かれていることです。それを音にした時、客席にどう聴こえるか?までを考えて楽譜が書かれているのかどうかは、ケースバイケース。どう演奏してもヴァイオリンの音がピアノの音に「埋没=マスキング」される楽譜の場合もあります。いくら楽譜上にダイナミクス=音の大きさの指示が書いてあったとしても、ピアノが和音を連続して速く弾いた時の「ピアニッシモ」の下限=最小限の音の大きさと、ヴァイオリンが低い音で演奏した「ピアニッシモ」のバランスを取ることは、物理的に不可能です。言ってしまえば「楽譜を書いた人の責任」でもあります。
 演奏すれ側にしてみれば、自分の音と相手の音の「バランス」を常に考えながら演奏することは、思いのほかに大きな負担になります。オーケストラの場合には指揮者がバランスを「聴いて」指示し修正できます。弦楽四重奏の場合、同じ弦楽器での演奏なので、音量のバランスは比較的容易にとれます。
 ピアニストに聴こえる「バランス」とヴァイオリニストに聴こえる「バランス」は当然に違います。経験で自分と相手の音量の「バランス」を考えます。
そもそもピアノとヴァイオリンの「音色」は音の出る仕組みから違いますから、聴く人には「違う種類の音」として聴こえています。ただ同時に聴こえてくるわけで、どちらかの音が大きすぎれば、片方の音は聞き取りにくくなります。
ピアノとヴァイオリンは「音源=弦の長さと筐体の大きさ」が圧倒的に違います。さらにピアノは「和音」を演奏し続けることがほとんどなのに対し、ヴァイオリンは「単音」を長く・短く演奏する楽器です。構造も音色も違う2種類の楽器が「一つの音楽」を演奏することの難しさと同時に「組み合わせの美しさ」が生まれます。それは味覚に似ています。甘さと同時に「しょっぱさ」を加えると、より強く甘みを感じます。コーヒーは苦みと酸味のバランスで味が決まります。ピアノとヴァイオリンの「溶けた音」を楽しんで頂くための「バランス」が問題なのです。

 物理的に音圧の小さいヴァイオリンを担当する(笑)私として、ピアニストの演奏する音の中に溶け込みながら、かつ「消えない」音量と音色を手探りで探します。それはピアニストも同じ事だと思います。お互いが手探りをしながらの「バランス」なのです。ただ、それぞれの楽器が演奏する中での「変化」も必要です。音色の変化、音量の変化。ヴァイオリンは音域が高くなるほど、聴感的に大きく聴こえる楽器です。逆にヴァイオリンの最低音はピアノの音域の中で、ほぼ中央部分の「G」ですから、音域のバランス的にもピアノの和音にマスキングされ聴感的に弱く聴こえてしまいます。
 練習の段階でヴァイオリン「単独」での音色と音量の変化を考えます。
ピアノと一緒に演奏してみて、その変化が効果的な場合もあれば、消えてしまう場合もあります。ピアニストの技術以前に「楽譜」の問題の場合がほとんどです。ピアノの「和音」と「音域」を、ピアノ単独で考えた場合に最善の「楽譜=最も美しく聴こえる楽譜があります。それがヴァイオリンと一緒に演奏したときにも「最善」か?と言えば必ずしもそうではないと思います。
 ヴァイオリニストの我がまま!(笑)と言われることを覚悟のうえで書けば、ヴァイオリンとピアノの「音圧の違い」を踏まえたアレンジ=楽譜を演奏する時の自由度=バランスを考えなくても演奏できる場合と、常に「これ、ヴァイオリン聴こえてるのかな?」と不安に感じ、弓の圧力を限界まで高くし、ヴィブラートをめいっぱい(笑)かけ、弓を頻繁に返す演奏の場合があります。どちらも「楽譜通り」に演奏したとしても、お客様が感じる「音の溶け方=混ざり方」の問題です。演奏者に聴こえるバランスではないのです。
 自分の音と、相手の音のバランスはホールによっても変わりますから、神経質になってもよくないと思います。ある程度の「当てずっぽ=勘」で演奏するしかありません。ただ自分の演奏が「平坦」になってしまわないように気を付けて演奏したいと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

長野県木曽町コンサート終了

 2022年11月23日(祝日)長野県木曽町「木曽福島」でのコンサートを無事に終えました。主宰された木曽福島町生涯学習課の皆様、会場にお越し頂いた多くのお客様に心から感謝を申し上げます。昨年11月に長野県「キッセイ文化ホール」主催で実施された同じ会場でのコンサートを今年は木曽町が引き継いで開催してくださいました。来年もまた、開催していただけることになりました。

 昨年は相模原と木曽福島を「日帰り」と言う強行スケジュールでしたが、今年は前泊することにして11月22日昼間、八王子から特急あずさに乗って塩尻~中央本線特急しなので現地に向かいました。

 木曽町が予約してくださった宿「御宿蔦屋」伝統と風情を感じる中に、新しい設備とおもてなしの心、素晴らしいお料理の旅館でした。駅にお迎えに来てくださった木曽町生涯学習課のかたに、この宿に行く前に是非!見て欲しい施設があるのでご案内したいとのお話で、11月19日にオープンしたばかりの施設「木曽おもちゃ美術館」へ。廃校になった小学校を使った、木曽ヒノキをふんだんに使った「木のおもちゃ」で子供も大人も心から楽しめる素晴らしい美術館。
到着したときにはすでに閉館していましたが、反省会をされているスタッフの皆様に出迎えられ案内された、「元体育館」の天井を取り外し、階段状の木のベンチを客席にしたホール。足を踏み入れた瞬間に感じた「木の残響」は、国内のどのコンサートホールにも勝る、物凄く自然で豊かな響き!あまりの興奮を抑えきれず、持っていたヴィオラとヴァイオリンでステージに置かれていた「小学校で20年前まで使われていた」アップライトピアノを使って数曲、演奏させて頂くことになりました。施設で働くスタッフが全員(笑)をお客様にしてのコンサート。演奏中からあちこちで聴こえるすすり泣きの声。皆さんが開館に向けて日々疲れ聴いておられたらしく、こんなホールだったんだ!という感動もあっての涙。「写真とっても良いですか?」「どーぞ!」「動画とっても良いですか?」「どーぞ!」「SNSにアップしても良いですか?」(笑)「どーぞどーぞ!」という事で、アップされた動画がこちら。

https://www.instagram.com/reel/ClR3P_OBj1a/?utm_source=ig_web_copy_link&fbclid=IwAR2T76JIaUQ-5GmJpRrv-tpzZv5Jo5S6KUZ-zVnOKkWlldO9DlZotnVDJLg

 見学と演奏を終えて旅館で休み、翌日は朝から雨。おいしい朝食を頂き、歩いても2分ほどの演奏会場「文化交流センター」に木曽町の車で(笑)移動。
 ホールには大昔のスタインウエイが私たちを迎えてくれました。このピアノも廃校になった小学校の体育館に眠っていたもの。昨年私たちが気付くまで、木曽町長、教育長も誰もその価値を知らなかったと言う事実(笑)
 リハーサルを終えて、浩子さんが居残りリハの動画。

・パガニーニの主題によるラプソディ
・椰子の実
・彼方の光
・Earth
・明日
・アニーローリー
・瑠璃色の地球
・美しきロスマリン
・アリオーソ
・ハンガリー舞曲第5番
アンコールに応えて
・我が母の教え給いし歌
・ふるさと
12曲を木曽町所有の陳昌鉉さん製作のヴァイオリンと、愛用のヴィオラこれも陳昌鉉さんの2010年製作の楽器…で演奏しました。
 木曽福島では「木曽音楽祭」と言う伝統的なクラシック音楽フェスティヴァルが介されていますが、私たちのコンサートは「身近に感じるコンサート」として、クラシック以外の音楽も町民の方々に「無料」で楽しんで頂くイベントです。
 来年、先述の木曽おもちゃ美術館でもぜひ!コンサートをと言う話も進んでいます。また楽しみが増えました。
 最後にコンサートに来てくださった皆様、木曽町の皆様に心よりお礼を申し上げます。
 お読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

二刀流って二硫か?(笑)

 写真はどちらも陳昌鉉さんの 製作された楽器です。
木曽福島で開催されるコンサートでこのヴァイオリンとヴィオラを使用します。
ヴァイオリンは陳昌鉉さんが名誉町民である木曽福島町に寄贈された楽器です。
縁があって昨年に続き2度目の演奏になります。

 なぜ?わざわざヴィオラの演奏もするの?ヴァイオリンだけじゃダメなの?
そう思われても当たり前ですね。
 ヴァイオリンの音色とヴィオラの音色を、一回のコンサートで楽しめる…これも「あり」だと思うのです。もちろん、違う演奏者が演奏するケースもあります。ただ、同じ演奏者が「持ち替え」て弾き比べ=聴き比べすることで、楽器による「違い」が明確になります。
 私自身から考えれば、同じ曲でもヴァイオリンで演奏した「音楽」とヴィオラで演奏した「音楽」が違う事を感じています。単に音色や音量の違いだけではありません。それほどに違う2種類の楽器であることを、聴いてくださるお客様に体感していただくことで、アンサンブルやオーケストラでなぜ?ヴィオラという楽器が必要なのかも理解されるのでは?とも思っています。
 ヴィオラはヴァイオリンよりも個体差の大きい楽器です。自分の気に入ったヴィオラに出会う確率は、ヴァイオリンよりも低いかも知れません。そもそも製作される本数が違います。ヴィオラの「良さ」を知ってもらうことで、ヴァイオリンの良さも再発見されるかな?と思っています。
 ヴァイオリンとヴィオラの演奏方法が「違う」のは当然です。「似て非なるもの」なのです。ヴィオラは「ヴァイオリンがうまくない人が演奏する楽器」と言う大昔の定説があります。演奏方法が似ていて、弾き手が少ないから…確かにそんな時代もありました。でも本当に美しいヴィオラの音色を聴いてもらえれば、その間違った説が覆せると信じています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽ファンを増やすために

 映像は昨年11月に実施された木曽福島でのコンサートの模様。この時はキッセイ文化ホールの主催によるコンサートでした。今年は同じ会場で、木曽福島町主催によるコンサートとなります。入場無料で100名のお客様が来場されます。
「クラシックコンサート」の明確な基準はありませんが、クラシックの音楽も演奏します。それが「つまらない」と思うかたは元より聴きに来られることは無いかもしれません。私たち夫婦のコンサートは「音楽ファンを増やす」事をコンセプトにしています。「お子様向けコンサート」ではありません。「音楽鑑賞教室」でもありません。ポップスだけのコンサートでもない「聴いて楽しめる」コンサートを目指しています。

 メリーオーケストラの演奏会も、デュオリサイタルも基本的には同じ考え方をもとにしています。メリーオーケストラはアマチュアとプロが「一緒に演奏する」と言う変わった形態の演奏です。私たち夫婦が「プロ」としての能力・技術があるのかないのか…それは私たちが決めることではありません。お客様の「満足度」がすべてだと思っています。コンサートを聴いて「楽しめた」と思える時間だったか?それが私たちへの評価だと思っています。クラシックだけを演奏するコンサートが好きな人にとっての「音楽」と、そうでない人が初めて体験する「音楽」は同じ演奏でもまったく違う価値のものになります。期待するものが違うのです。クラシック音楽のコンサートを楽しみにする人にも「初めて聴くクラシック」があったはずです。また「好きになったきっかけ」もあったはずです。
その出会いがまだ、ないという人が大多数です。まして「クラシック」と言う言葉に「古い」「つまらない」「長い」「マニアの好きな」と言うネガティブなイメージが付きまとう人も多くいます。「懐石料理」と聴くと「高級」「お金持ちの食べるもの」と言うイメージがあるのと似ています。
 コンサートのイメージを身近なものにする「コンサート」ですそ野を広げます。その後は、他のかたにお任せします!(笑)
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

自由な想像力と協調性

 映像は台湾生まれでオーストラリア国籍のヴァイオリニスト、レイ=チェンが演奏するシベリウス作曲のヴァイオリンコンチェルト。何度聴いても素敵な演奏だと思います。他の同世代のヴァイオリニストと比べて「インパクト」が圧倒的に強い!1楽章が終わって拍手をしたくなる観客の気持ちがよくわかります。
 彼の演奏を冷静に聴いていると「自由」と「共生」を感じます。そして自分の演奏に対して他人からの評価を基準にしない「強さ」も感じます。
 20歳の時、エリザベートコンクール優勝したチャイコフスキーのコンチェルトにも感じられる「想像力の豊かさ」は彼特有の世界観を表現しているように思います。
「誰かがこう弾いたから」や「普通はこう弾くから」と言った固定概念よりも、音楽を演奏する自分の「想像力」を最大限に引き出す努力と技術は、本来演奏する人間に追って一番大切なことです。ただ単に「人と違う事をする」のとは違います。自分の想像するものを具現化する力です。これを「自由」と言う言葉に置き換えてみます。

「共生」と表したのは、彼がオーケストラと一緒に音楽を演奏しようとする気持ちです。よく聴くとオーケストラが旋律を演奏している時に、レイ=チェンは完全にオーケストラの演奏したい「テンポ」「リズム」を優先していることがわかります。むしろオーケストラの1パートとして、一体になっています。これは、彼が他人=他の演奏者を思う気持ちの表れだと思います。自由に演奏してもオーケストラが影響を受けない部分、範囲では楽譜に書かれていないリズムで演奏しても、オーケストラと絡み合う部分では決して自分勝手にリズムを崩さない上に、オーケストラ演奏者に拍が聞き取りやすい弾き方で演奏する余裕があります。だからこそ、オーケストラも思い切り、一番良い音で演奏しよう!と感じるのではないでしょうか。ソリストに「合わせにくい」と感じればオーケストラは抑え気味に演奏することになります。ソリストの独りよがりではないことが、音楽全体のエネルギーを増幅させています。

 想像力を具現化する技術は、自分の演奏技術を発展させることに直結します。
楽譜を音に、音を音楽にしていく過程で「想像」することは、演奏家にとってそれまでの経験をすべて使う作業です。体験し記憶している「感情」「風景」「人」「物語」を音楽の中に落とし込むことです。もし、悲しい経験しか、記憶にない人が音楽を演奏すれば、悲しい感情しか想像できないことになります。記憶は「思い出」でもあります。自分だけの思い出を、音楽で表現する。まさに「自由な創作行為」ですよね。多くの思い出こそが、多くの物語を想像できます。10代より20代、30代と年齢を重ねる中で嫌な経験も増えます。子供の頃の楽しかった思い出を忘れてしまいがちです。多感な幼児期に部屋にこもって、音楽だけを練習するよりも、友達と遊び・喧嘩をし・仲直りし…それらの思い出を大切に忘れないで育てることが親の役割だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

レガートの中で子音を作る

https://youtube.com/watch?v=-Fj58b59xy8

 映像はデュオリサイタル13。エンニオ=モリコーネ作曲「ガブリエルのオーボエ」をヴィオラとピアノで演奏したものです。演奏はともかく…素敵な曲ですね。こうした「レガート=滑らかな音のつながり」で演奏する曲の場合に、音の切れ目=発音がはっきりしない(輪郭がぼやける)音になってしまいがちです。レガートだから…と言って「ピンぼけ写真」のような印象になってしまえば、滑らかと言うよりも「もやもやした」音楽に聴こえます。
 演奏するホールの残響時間にも影響を受けますが、まずは演奏自体が「クリアな変わり目」であることが第一です。ポルタメントやグリッサンド、スライドなどで、音の変わり目を意図的に「点」ではなく「曲線」にする演奏技法もありますが、多用しすぎれば「気持ち悪い」「いやらしい」「えげつない」印象に聴こえてしまいます。
 歌の場合、特に日本語の歌詞の場合に「子音」が多く音の変わり目=言葉の切れ目を、聴く側が想像も加えながら聞き取れます。逆に子音が少ない歌の場合や、意図的に子音を弱く歌う歌手の「歌詞」は滑らかですが音の変わり目を、感じにくく、言葉の意味が聞き取れないこともあります。

 移弦を伴うレガートや、1本の弦で大きな跳躍を伴うレガートの場合には、それ以外の場合=同じ弦で2度、3度の進行との「違い」が生じます。
 同じ弦の中でのレガートでも、左手の指で弦を「強く・勢いよく」押さえることでクリアな音の変わり目を出そうとすると、固い音になりがちな上、弦を叩く指の音が大きくなりすぎる場合があります。むしろ、弓の速度・圧力を制御しながら、左手の指の力を抜いて「落とす」ことの方が柔らかくクリアな音の変わり目を作れるように思っています。
 移弦を伴うレガートの場合には、一般的な演奏方法なら「先に二つ目の音を指を押さえて移弦する」のがセオリーです。ただ、この場合に弓の毛が二つ目の弦に「触れる=音が出始める」瞬間に発音しにくくなります。音が裏返ることや、かすれることもあります。だからと言って、弓の「傾斜の変化」を速くすれば、一つ目の音との間に「ギャップ」が生まれます。レガートに聴こえなくなります。
移弦の時、弓の傾斜を変えるスピードは演奏者によって大きく違います。
例えて言えば次の弦に「静かに着地」する移弦の方法と「飛び降りる」ような速度で「着弦」する違いです。どちらにも一長一短があります。
 そこで考えられる方法が移弦する瞬間に、二つ目の音の指を「同時に抑える」方法です。弓の毛が二つ目の音を発音するタイミングと、左手の指が二つ目の音を押さえるタイミングを合わせる特殊な方法です。ずれてしまえば終わり(笑)
左手指で音の変わり目を「作る」ことで、レガートで且つクリアな移弦ができます。とっても微妙なタイミングですが、無意識に移弦するよりも何億倍も(笑)美しく移弦できると思います。お試しあれ!
 最後までお読みいただき、ありがとうとございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンらしい音色と音楽

 映像は、ミルシテインの演奏するショパン作曲ノクターン。
古い録音でレコードのスクラッチノイズ(パチパチという音)の中から聴こえる音色と音楽に、現代のヴァイオリニストの演奏には感じられない「暖かさ」と「柔らかさ」「深み」を感じます。録音技術の発達とともに、より微細な音も録音・再生できるようになった現代ですが、私にはこのレコードに含まれているヴァイオリンの「音色」で十分すぎるほどに、演奏者のこだわりを感じます。
コンサートで聴くヴァイオリンの音色は、演奏者が聴く自分の音とは違います。
ましてや、演奏者から10メートル以上も離れた場所で聴く音と、現代のデジタル録音したものとでは「違う楽器の音」と言えるほどの違いがあります。
 その違いはさておいて、ミルシテインの奏でる「音色」と「音楽」について、演奏する立場から考えてみたいと思います。

 音の柔らかさを表現することは、ヴァイオリンの演奏技術の中で、最も難しい技術だと思っています。「楽器と弦で決まる」と思い込んでいる人も多い現代ですが、何よりもヴァイオリニスト本人が「どんな音色でひきたいか?」と言うこだわりの強さによって変わるものです。柔らかい音色を「弱い音」とか「こもった音」と勘違いする人がいます。私たちの「触感」に置き換えて考えればわかります。
柔らかいもの…例えば羽毛布団やシフォンケーキ。
柔らかい触感と「小さい」や「輪郭のはっきりしない」ものとは違います。
私達は柔らかいものに「包み込まれる」感覚を心地よく感じます。
固いものに強く締め付けられることは、不快に感じます。
そして「暖かい」ものにも似たような交換を持ちます。熱いもの、冷たいものに長く触れていたいとは思いません。
 現実には音に温度はありません。固さもありません。ただ、聴いていてそう感じるのは「心地よさ」の表現が当てはまる音だから「柔らかい」「暖かい」と感じるのだと思います。

 では具体的にどうすれば、柔らかい・暖かい音色が出せるのでしょうか?
・弓の圧力
・弓を置く駒からの距離
・弦押さえるを指の部位
・押さえる力の強さ
・ヴィブラートの「丸さ=角の無い変化」
・ヴィブラートの速さと深さ
・ヴィブラートをかけ始めるタイミング
ざっと考えてもこれ位はあります。
演奏する弦E・A・D・Gによっても、押さえるポジションによっても条件は変わります。当然、楽器の個性もあります。それらをすべて組み合わせることで、初めて「柔らかい」と感じる音が出せると思っています。

 最後に「音楽」としての暖かさと優しさについて考えます。
ミルシテインの演奏を聴くと、一つ一つの音に対して「長さ」「大きさ」「音色」の変化を感じます。言い換えると「同じ弾き方で弾き続けない」とも言えます。これは私たちの会話に例えて考えてみます。
以前にも書きましたが、プロの「朗読」はまさに音楽と似通った「言葉の芸術」だと思います。同じ文字を棒読みしても、意味は通じます。ただ、読み手の「こだわり」と「技術」によって、同じ文字にさらに深い「意味」もしくは「感情」が生まれてきます。朗読には視覚的な要素はありません。動きや表情も使って表現する「俳優」とは別のジャンルの芸術です。
 文字=原稿には、強弱や声の「高さ」「声色」は指定されていません。それを読む人の「感性」が問われます。まさに楽譜を音楽にする演奏家と同じことです。
 一つ一つの音の「相対」つまり前後の音との違いを、音色と長さと音量を組み合わせた「変化」によって表現することで「揺らぎ」が生まれます。
楽譜に書かれてない「ゆらぎ」はともすれば「不安定」に聴こえたり「不自然」に聴こえたりします。そのギリギリの線を見切ることで、初めて個性的な演奏が生まれます。簡単に言ってしまえば「違うリズム・違う音に感じない範囲」で一音ずつを変化させることです。さらに、一つの音の中にも「ゆらぎ」があります。ヴィブラートや弓の速さ・圧力による響きの違いを長い音の中に、自然に組み入れることで、さらに深い音楽が生まれます。
 音楽を創ることが演奏者の技術です。それは演奏者の「感性」を表現することに他なりません。楽譜の通りに演奏するだけなら、機械の方が正確です。
人間が感じる「心地よさ」を追及することが、私たちに求められた役割だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

弦と弓の毛のエイジングと良い音の寿命

 映像は3年前、代々木上原ムジカーザでのデュオリサイタルで演奏したドヴォルザーク作曲「ロマンティックピース」の一曲。
今回のテーマは、ヴァイオリン・ヴィオラの「弦」について。
以前にも弦の種類についてのブログは書きましたが、ちょうど来週、長野県でのコンサートと12月18日、来年1月7日のリサイタルに備えて弦の張替えや弓の毛替えを進めています。
 弓の毛替えは先日、いつもお世話になっている櫻井樹一さんの工房でヴァイオリンの弓2本、ヴィオラの弓1本の毛替えをして頂きました。
 木曽福島で使用する、陳昌鉉さん製作のヴァイオリンには数日前に生前、陳さんが一番好きだった弦の音色に近い弦のセットを張り替えました。こちらは、ナイロンの弦で張った直後は「キンキン」「バリバリ」と言う表現の音がうるさく聴こえます。毎日、時間の経過とともに音色が落ち着いていきます。
 経験上、およそ1週間ぐらい経った状態が、このヴァイオリンに一番合った音色になる「と感じる」ので、少し早め10日前に張り替えました。
 この弦に限らず、ナイロンの弦の「良い音がする寿命」は約2週間。それ以後は、余韻が極端に短くなりこもった音になります。その後は1年経ってもあまり変化しません。さらに言えば、弦が落ち着くまでに1週間から10日間かかるので、実際に「最高の音」が出る状態は約一週間…私の個人的な感想です。
 一方、ヴィオラと私のヴァイオリンに張るのは「ガット弦」です。
こちらの「エイジング=弦が楽器になじむまで」の期間は、弦の太さによって差があります。最も太いD線よりもA線が落ち着くまでの期間が一番長いのは、恐らく構造上の問題です。ヴィオラの場合はまた違います。
 ガット弦は音質が急激に落ちることがありません。むしろ、完全にガットが「伸びきった状態」言い換えると、湿度や温度の変化に、全く反応しなくなった時点でガット弦の寿命が終わったとも言えます。調弦が大変!と言うアマチュアヴァイオリニストのガット弦への不満を聴くことがありますが、ナイロン弦の場合でも「良い音の出る期間」には小まめに調弦が必要であり、むしろその変動幅はガット弦よりも大きい場合がほとんどです。価格の面で考えても、ガット弦の方が、良い音の期間が長く一概に「ガット弦は高い」とは言い切れません。

 
 最後に弓の毛のエイジングと寿命について。
職人の技術と使用する馬のしっぽの毛によって、大きな差があります。
櫻井さんに張り替えてもらった弓の毛は、張り替えて数日で松脂が毛に馴染み、伸びも収まるので演奏会に使用できます。さらに、張り方の技術差は弓のスティックの強さと曲がりによって、職人が針の強さを左右で調整できるか?と言う職人の経験が問われます。「すぐ切れるのは悪い毛」と言う考え方には疑問を感じます。何よりも「演奏の仕方」と「演奏する曲」で弓の毛が切れる頻度は大きく変わります。むしろ演奏する曲によって、主に使う弓の場所が違うため、摩耗する部分が変わります。張り過ぎの状態で演奏すれば、スティックの弾力を最大限に使えません。逆に毛の張りが弱すぎれば、毛を痛める原因にもなります。
 何よりも松脂を塗りすぎる人が多いように感じています。弓の毛と弦が音を出すための「摩擦」は松脂だけで作られているのではありません。毛の表面の「凹凸=おうとつ」で削られた松脂が「こぶ」になり、さらに摩擦の熱で「溶ける」ことで粘度が増えます。毛の表面の凹凸は、次第に減っていきます。さらに、経年劣化で、弾力を失い細くなります。寿命は「●●時間」と書かれているものもありますが、何よりも松脂を普段から「必要最小限」で使っていれば、摩擦が減ってきた…滑りやすくなったことを感じるはずです。その時が「弓の毛の寿命」です。
 どんな弦でも、弓の毛でも「なじむまでの時間」と「良い音の出る期間」と「寿命を迎えた時期」があります。それぞれのタイミングを見極めるのも演奏者の技術です。
 最後までお読みいただき、ありがとうとgざいました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

何気ない曲の何気ない難しさ

 もう15年も前になる初めてのデュオリサイタルで演奏した、チャイコフスキー作曲「懐かしい土地の思い出」よりメロディー。あまりにも多くのヴァイオリニストが演奏されているこの曲、実は自分の中で「何かが難しい」…何が難しいのかが自分でもよくわからないのですが(笑)そんなこともあって、今までにあまり演奏してこなかった曲の一つです。次回のリサイタルでリベンジ!と思い立ち、ユーチューブを聞きまくってみました。皆さん、じょうずに演奏されているのですが、自分の好みに合う演奏が見つからない。明らかに他の演奏者と違う解釈で演奏されている「ヤッシャ様」(笑)の演奏がこちらです。

 ハイフェッツ様だから許される?(笑)大好きな演奏なのですが、個性的過ぎて「猿真似」になりそうで近づけません。いや…近付けるはずもないのですが。
 曲の好みで言えば、大好きな曲の中に入るのに自分で演奏すると「どこが好きなんだよっ!」と自分に突っ込みを入れたくなるほど。
 聴くことが好きな曲と、演奏したい曲が違うのはごく普通の事です。
でも、よく考えると聴くのが好きなら「ひいてみたい」と思うのが自然な流れのはずです。弾けない…という事でもないのですが、自分の演奏が好きになれません。「それ以外の曲は満足してるのか?」と言われれば、冷や汗ものです。
 趣味の領域で「楽しむ」事と、お客様に聴いていただく立場で自分が「楽しむ」ことの違いなのかもしれません。好きだから怖くて弾けない?(笑)
ぶつぶつ言っていないで、なぜ納得できる演奏が出来ないのかを言語化してみます。

 調性はEs dur=変ホ長調。特に苦手とか嫌いとかはありません(笑)
4分の3拍子。問題なし。重音の「嵐」も吹かない。特別に出しにくい音域でもありません。むしろ「普通に弾ける」言い換えれば、弾きやすい曲でもあります。
モチーフも覚えやすく、リズムもシンプル。
 中間部の軽い動きが「苦手」なのは否めない事実です。
気持ちが先走って、冷静に弾けていないことが一番の原因と分かりました。
とにかく、一音ずつ練習しなおし!
好きな曲を、気持ちよく弾けたら最高に気持ちいいですよね!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ファンになりました。

 映像は2年前、かてぃんこと角野隼人さんのラジオ番組にゲスト出演していた、ピアニスト亀井聖矢さん。先日のロンディボー国際コンクールで同率1位。
20歳(今年21歳)で桐朋学大学4年生…って計算が合わないぞ?それもそのはず、17歳で高校から「飛び級制度」で桐朋学園大学に特待生で入学。桐朋学園では「初の飛び級入学」
 正直、かてぃんのチャンネルで共演していたりする動画は見ていましたが、名前を知ったのは今日が初めてです。そして、彼のいくつもの動画を見て、あっさり「ファン」になってしまいました。
 私はピアノの演奏技術の「優劣」がわかる人間ではありません。ただ感じるのは、「純粋に素敵なピアニストだ」という感想なのです。彼の「素顔」も知りません。性格だって知りません(笑)彼の演奏を見て、聴いて感じることを書いてみます。

 何よりも強く感じるのは、深刻さ・悲壮感を感じないという事です。
子供の頃の演奏動画もアップしています。10歳の頃の「ラ・カンパネラ」をご紹介します。

 「愛知の神童」だったかどうかは知りません(笑)が、これが10歳の演奏か…。素直に「この曲がひいてみたい」と言う少年の素直な気持ちがそのまま音楽になっている気がします。演奏活動をコロナで阻まれながらも、国内の主要オーケストラとの共演も既に終わっている(笑)日本音楽コンクールとピティナを同じ年に「一位取り」すると言う経歴にも納得です。
 普段、コンクールで何等賞…と言うニュースにほぼ無関心な私です。そして、話題になった人の演奏動画は一通り見ていますが、正直「感動しない」という感想で今まで過ごしてきました。それは「好み」の問題でしかありません。
 亀井さんの演奏に共感する理由をもう一つ。
「自然なアクションと表現」に感じることです。私はオーバーアクションに見える演奏家が好みではありません。演奏中の表情もそのひとつです。自然に表に出る「感情」や「動き」は理解できるつもりです。それ以上の表情は「作っている」としか思えないのです。もしもその「表情」がパフォーマンス…だとしたら、余計なこと(笑)だと思ってしまいます。
 彼の活動を見ると、「やりたいことを、やりたい時にやっているだけ」に感じます。それが素敵なんです。先を考えて…とか、日本の音楽界のために…とか、作曲家の精神に触れた…とかと言う話を20代の演奏家が話しているのを聞くと「そのセリフは40年後に言いたまへ(笑)」と思うのです。
 純粋に今、やりたいことに没頭する美しさ。評価よりも自分の「価値観」を優先した生き方に、年齢は関係ありません。若いからできること、若いとできないこと。高齢になってできないこと。高齢になって初めてできること。それを素直に受け入れられる「ひと」の演奏が好きです。彼がこの先、どんなピアニストになるのか?とても楽しみですが、何よりも今の彼の演奏が楽しくて好きです。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏に表れる内面=人間性

 映像はNHKの番組。私の目の病気「網膜色素変性症」患者が薄暗い場所で「光しか見えない」症状=夜盲症で不便な生活をしている人の「QOL=人生の質」を向上させるメガネ型のウェラブルを紹介してくれています。

 今回のテーマは演奏する「人」についての考察です。
プロの演奏家に限った話ではなりません。子供が無邪気に歌う歌にもカラオケを楽しむ高齢者の歌にも「演奏者の性格」が自然に現れるものです。それを日常の会話に置き換えてみると理解しやすいかもしれません。
 幼児は話す相手によって言葉使いを変える語彙を持っていませんが、見ず知らずの人に接する時に態度・行動に変化があります。
 成長すると少しずつ相手によって言葉遣いを変え「社会性」を身に付けていきます。同じ年齢の子供でも言葉遣いや行動、特に他者との関わり方には大きな違いがあります。家庭内での環境も関わりますが、兄弟姉妹でも違いがあることを考えると「性格」による差が大きいと考えられます。性格は個人の価値観と思考パターンの違いとも言えます。
感じ方が人によって違うのと同様に、自分の感情を表現する場合にも個人差があります。
 感じたことを言語や態度に表すことを抑制・我慢するタイプの人と、表情や言葉に出てしまう・出せるタイプの人がいます。前者は「内向的」後者は「外交的」と一般には呼ばれます。
 しかし言葉や態度には出せなくても本人の中では感情の起伏がある場合「感じていない」と周囲が間違った見方をする場合があります。
内向的な人を「鈍い」「感情がない」と思い込むのは大きな間違いです。逆に一見して大げさに感情を表に出す人を「表現力が豊か」「感受性が高い」と言うのも間違っています。

 昔から「人を見た目で判断してはいけない」と言われます。共感します。外見や話し方だけで「人間性=性格」を知ることはできません。同じ家で過ごす家族の事でさえ「性格」がよくわからないというケースは珍しくない話です。一見しただけで理解できるはずがありません。
「人に自分の正体・本心を隠す」場合もあります。単純な「嘘」とは違って相手や自分を見ている人に「違う人格」を感じさせるケースです。俳優と言う職業は見ている人に「本当に」感じさせるのが技術です。悪役なら見ていて「ムカつく!嫌な奴!」と思わせるのが演技力です。

 演奏する人「演奏者」が自分の演奏する音楽に対して何も感情を持たず演奏することがあるでしょうか?
少なくとも「きれいな曲だなぁ」「悲しい音楽」「難しい…」などは感じるはずです。

さらに「ここが好き」「この部分はよくわからない」など音楽の細部にも感じることがあるはずです。練習する間に「ここはもう少し大きく弾きたいな」「この音が綺麗に弾けなくて悔しい!」などの感情も起こるのではないでしょうか?
 私はこれが「楽譜との対話」だと思っています。多くの場合、作曲された音楽は楽譜として残され、演奏者に伝えられます。作曲家の頭の中で生まれた音楽を作曲者自身が演奏し「音」にした場合、その場で音楽は消滅してしまうからです。録音や記憶によって記録されたものを「第三者が」楽譜にしたものは作曲者の「思った通り」とは限りませんが。
その楽譜を音にする過程で沸き起こった感情が対話だと感じる理由です。
 その対話を経て「音楽」が演奏されます。演奏者の性格は既にここまでに演奏に含まれています。本人の意識とは無関係に「対話」の段階で性格が演奏に入り込みます。
例えば「難しい」と感じた部分は無意識に「避けたい・速く通過したい」と言う気持ちが生まれます。自然に音が小さくなったり、テンポが速くなったりします。
「ここが好き!」と言う部分は何度も弾いているのでその他の部分より余裕をもって演奏できるはずです。
これらも「感情の表れ」だと言えます。レッスンで「もっと感情を込めて!」と指導者が生徒にアドヴァイスしますが、私には違和感があります。そもそも感情は意図的に作れるものではなく、自然発生的に生まれるものだからです。さらに感情の起伏は人によって全く違うものです。指導者の感情と生徒の感情が同じである確率は極めてゼロに近いものです。
 無理に感情を沸き起こすことは無駄なことです。美味しいと感じない食べ物を無理やり「美味しい」と思えますか?それと同じです。
嫌いだと思っていた「納豆」がある時から大好物に変わった…私はその一人です(笑)そんなこともあります。
若い頃に大好きだった曲を今聞いても「なんで好きだったんだ?」と不思議になることもあります。
感情=好き嫌いは変わるものです。
練習しながら変わることもあります。その「感情」が無意識に演奏に現れるものです。
 演奏しようと練習して音楽を嫌いになっては意味がありません。
楽譜を「人間」に置き換えて考えれば、相手の性格や好きな一面と自分には理解できない一面も見えてきます。楽譜も同じです。何度も演奏するうちに新しい感情が生まれることもあります。

 長くなりましたが演奏者の性格は「出そうとしなくても現れる」事はご理解いただけたかと思います。「演奏を聴くと人柄を感じる」と言われます。それは「音楽性」や「演奏技術」すべてに演奏者の性格・価値観・人間性がにじみ出るからだと思います。演奏する音楽が悲しい曲でも楽しい曲でも演奏する人の性格は変わりません。
役者が役になり切れるのは「台本」を理解しているからです。演奏者が「楽譜」を理解せずに演奏するのは台詞を棒読みするのと同じことです。ぜひ!時間をかけて音楽と対話してください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオラリスト 野村謙介

 

生演奏は消えるのか?

 今回は演奏を聴いて楽しむ立場で「生演奏」と「録音の演奏」それぞれの楽しみ方を考えるものです。
 演奏する立場での違いも含めて考えていきます。
まず「生演奏」つまり演奏者が実際に演奏する音を聴く場合について考えてみます。
 元より演奏は「人間の前で人間が行う」芸術として誕生しました。
演奏する場所に聴く人が居て、演奏する人が、曲を演奏します。
教会での演奏もあれば、コンサートホールや宮殿での演奏もありました。演奏する人が一人の場合も二人の場合もあれば、オーケストラのように大人数での演奏も昔からありました。演奏される音楽は「その場限り」で消滅するのが当然でした。同じ音楽を同じ人の演奏で「もう一度聴きたい」と思っても実際にはとても困難だったはずです。すべての演奏が「一期一会」で始まったのが音楽の演奏でした。
「電波で音を離れた場所で聴く技術」が発明されて「音を録音する技術」が誕生してから、音楽の聴き方も変わりました。「ラジオ放送」で音楽を聴くことが出来るようになり「レコード」を自宅で再生して音楽を好きな時に聴くことが出来る時代になりました。
 それでも「生演奏」は残りました。ある意味で「どうして?」と言う疑問が生まれます。放送やレコードで音楽を聴くことが出来るのに、わざわざ会場に出向いて音楽を聴く‥なぜ?生演奏が残ったのでしょうか?

音楽を聴く事、演奏することが楽しいと感じる人にとって「便利」「簡単」が優先するとは限りいません。人間の「欲求」として、快楽を求める欲求はどこまでも続きます。一方で「便利」になる発明には「ゴール」があります。「身体を動かさなくても生活できる」ことです。音楽を聴きたいと思えば「音楽を聴きたい」と声に出せばAiが応え好きな音楽を選んで自分の好きな音量、音色で再生してくれる生活は目の前にあります。それ以上に便利にしようとすると?考えただけで「思ったこと」をコンピューターとロボットが叶えてくれる「ドラえもん」の世界観です。
 以前のブログでもこの話題は取り上げましたが、どんなに文明が進化しても人間が自分の身体を使って「楽しむ」事は残すのではないかと想像しています。自分の代わりにロボットが演奏してくれても「演奏を楽しんだ」とは感じません。VRで視覚・聴覚・嗅覚・触覚を疑似体験出来て「旅行してグルメを楽しんだ気分」を自宅に座ったままで体感できる日が間もなく現実になります。自分の足で歩いて旅行するより安く・安全に・簡単に体感できる「VR旅行」
 好奇心が勝る「プロセス」があります。VRコンサートが当たり前になる日、次に求めるのは「実際の生演奏を聴きたい」という欲求だと思います。
 CDの売上より30センチLPレコードの売り上げが多くなってきました。「作れるもの」であれば一度消えてしまった文化=アナログレコードを蘇らせることは可能です。「設計図」と「材料」があればできる事ですが「人間の技」はそうはいきません。
 演奏できる人間の「必要性」が下がれば、あっという間に演奏家と言う職業は消滅します。アイドル歌手のように「容姿」「イメージ」だけで人気が出る職業とは違います。「職人芸」を絶やすことは人類の大きな損失です。すでに世界中で多くの貴重な「技」が絶滅しています。需要がないから・売れないから・もっと便利なものがあるから・もっと安価に作れるから…様々な理由で伝統の技が消えていきます。
 演奏を「人間の技」と考えること。演奏する人間を残せるのは聴く人がいて初めて出来ることです。ぜひ、人間が演奏する「コンサート」に足を運んでください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を「創る人」「演奏する人」

 映像は2026年6月6日(土)に八王子の「ロゴス教会」で開催したコンサートの一幕です。「SAKURA」というヴァイオリンとピアノで演奏する作品を作曲された久木山直(Kukiyama Naoshi)氏をお招きし、SAKURAを演奏する前にお話を伺った場面です。

 久木山氏と私たち夫婦は同じ大学(桐朋学園大学)の卒業生です。
久木山氏は「作曲専攻」浩子さんは「ピアノ専攻」私は「ヴァイオリン専攻」なので細かい履修内容は違いますが、小さな校舎でしたので学内で顔を合わせることもしょっちゅう。授業でも一部(体育)で一緒に学んでいた「学友」です。
 久木山氏のプロフィールを私が偉そうに書くことは余りに失礼だと思うのでこちらでは割愛します。関心のある方はネットで検索してみてください。

 今回演奏させてもらった「SAKURA」はFacebookのメッセンジャーに「こういうの書きました。よかったら弾いてみて」と言う言葉とPDFの楽譜データ、さらに久木山氏がDTM(コンピュータで演奏した音楽)も一緒に送られてきました。
私の反応「え?ホントに弾いていいの?」
音源を聴いた第一印象「桜…」の風景でした。音楽的な事より先に「イメージ」で頭が埋まりました。
自分が演奏すると言った手前(笑)次に「どうやって弾こう」と考えます。楽譜を2小節ほど大きなモニター画面に映して覚える作業と並行して「音源」を聴いて覚えます。
動画の中で久木山氏が話している通り「技巧的には」恐らくアマチュアの方でも演奏できる?「譜面=ふづら」です。四分音符と二分音符」だけのヴァイオリンパート。テンポの指示は「モデラート 四分音符=116 4分の6拍子」…ふと疑問。なんで?二分の3拍子にしなかったんだろう?いつか本人に聞いてみようと思いつつ、コンサート当日も聴き忘れました(笑)

さて久木山氏のお話しの中で「気恥ずかしい・シャイ…まぁ多少嘘なんだけど…」と言う部分がありました。演奏する側も作品=楽譜を解釈する時、さらに人前で演奏する時に「照れる」気持ちがどこかにあります。私の場合は自分の解釈や表現、演奏技術に自信が持てないことが一番の原因です。それでも聴いてくださる方の前に出れば「堂々と」「自信たっぷりに」演奏している「ように見える」ように(笑)自分を鼓舞します。鼓舞と言うより暗示をかけます。
 演奏は本来「その場で消滅する芸術」です。演奏を聴いた人の「記憶」だけに残るものですが、作曲家の「楽譜」は違います。時代を超えて延々と演奏され続ける「後に残る芸術」です。絵画や陶芸の作品に似ています。ただ大きく違うのは楽譜の場合には演奏者が介在して「音」になって人に聴かれる=音楽になるという点です。絵画は描いた人と見る人の「間」には空間だけがあります。
 作曲という特殊な音楽活動がなければ「クラシック音楽」は存在しなかったことになります。「楽譜」があったから300年も昔の作曲家の作品を今、演奏できる。これ、すごいことです。
 その楽譜を書く=作曲をする人が「何を思って作曲したのか」と言う想像は演奏者にとってはある意味で「空想の世界」です。作曲者本人が、ある作品についての「思い」や「背景」を文字として残している場合も稀にあります。作曲者自身が演奏したり指揮をした「録音」が残っている近現代の作品もあります。
 SAKURAが久木山氏の頭の中でどうやって?誕生して楽譜になったのか。その一端を動画の中で聞くことが出来ます。
この動画の前に私のMCで「作文」を例えに出して話をしています。子供に「自由に作文してごらん」と言うと子供が困る。「遠足の事を書いてみよう」と言えば子供は書きやすい。そんな話をしました。
久木山氏が「遠足」と言っているのはその事です。
さらに興味を持ったのが「ホットではなく秩序のある中で美しい音楽」と言うお話しでした。言われてみれば「感情を表に出した音楽」は演奏しやすく感じます。悲しみ、喜びを感じる曲の多い中でSAKURAは聴く人の想像力をより一層強く刺激する気がします。
もちろん私は「桜」そのものをタイトルからイメージしましたが、タイトルがなかったとしても「静」な中に感じる「動」「規則性」「微妙な変化」から連想されるイメージがあったと感じます。

こちらの動画は「アルヴォ・ペルト」作曲の「鏡の中の鏡」をヴィオラで演奏した時のMCと演奏映像です。もちろん久木山氏もペルトの事はご存知でした。「規則性」と言う点でこの曲は「対照図形」を連想させる曲です。旋律は全音符だけ。ピアノは常に同じリズム。楽譜を見ると一見「なに?これ」と思うほどシンプルですが聴いていると不思議な空想の世界を感じます。

 音楽の「種類」を無理にカテゴライズすることに違和感を感じる私ですが、どんな音楽であっても「作曲者」が実在するのが当然でした。過去形にしたのは今後、近い将来にAIが作曲する事が当たり前になれば「作曲者」が実在しないことも当たり前になるかも知れないと考えるからです。「バッハの平均律第1番《風》で短調でメロディーはCからCのオクターブ内。重音はなし。臨時記号は1か所」などの条件を言うだけでAIが作曲する…それを「AIが演奏」する。
 確かに人間の学習能力の限界を超えて「記憶」「分析・解析」「処理」を行える人工知能が現実のものになっています。さらに深化・進化すれば人間の感情を分析した結果をもとに「感情の揺れ」も作曲と演奏に取り入れたコンピューター音楽が誰でも使えるようになるでしょう。
 作曲「者」演奏「者」が居なくなる時に「聴く人」だけが人間になるのかもしれません。それは止められない事であり時代の文化として当然のことかも知れません。
「曲を作る」「音楽を奏でる」行為は人間の欲求として消えることはない…とも考えます。

聴く人にとって、機械が作曲した音楽を機械が演奏していても、全く気付かない日が必ずやってきます。人間が人間のために考えて作った音楽を、想像力を働かせ時間と労力をかけて演奏する人間。その一人として今現在も音楽に関われている事に感謝しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

信じること・疑うこと

映像は2026年6月6日(土)に日本基督教団ロゴス教会で開催したコンサートから「追憶~愛しい人へ」と題した曲の演奏動画です。
キリスト教の教会。私も浩子さんも信徒ではないのですが、教会での開催を快く許可して頂くことが出来ました。
東京都八王子市にあるロゴス教会は傾斜地に建てられた立地を生かし、恐らく4階分ほどの高さのある吹き抜けと、一面全体がガラスの開口部で窓の外には牧草地帯と青空が広がる素晴らしい教会です。
来場されたお客様の中には、この教会で結婚式を挙げられた方、お父様のご葬儀を行われた方などもおられました。
「信仰心」はまさに「信じること」が基本です。
対象が神であれ仏様であれ、人間や「物」であっても「信じる」ことは「疑うこと」の裏側にある言葉だと思います。
今回は音楽を演奏する時に、何を信じ何を疑うべきなのか?について考えるものです。

言葉で「自分を信じる」と言うのは簡単です。実際には自分ほど信じられない存在はないように感じるのは私だけでしょうか?(笑)
「他人の言葉は疑ってかかれ」と言われた経験があります。本来なら人を信じる事は「良い事」ですが、中には悪意を持って他人を騙す=嘘をつく人もいます。「振り込め詐欺」がまさに高齢者の「信じる純粋な気持ち」を逆手に取った卑劣な犯罪行為です。
飛行機や船に乗って旅行する時に落ちないかな?沈まないかな?と不安に感じる人←私もその一人…は安全性に疑いを持っている人ですね。実際には飛行機事故は雷に打たれる確率よりも遥かに低いことは知っていても「絶対」ではないことを考えれば、疑う気持ちもご理解いただけるかと(汗)
 演奏中に一緒に演奏する人を信じることが出来なければ音楽にはなりません。偶然「タイミングがあっただけ」の演奏と演奏者同士がお互いを疑わずに、ある時は助け合い、またある時は感動を共にする演奏が音楽だと考えています。
 自分の楽器を信じることも演奏には不可欠です。演奏中、演奏直前に弦が切れないかな?と不安になるのは自分がメンテナンスを怠った結果「楽器を信頼できない」状態に陥っている状態です。
 ホールのスタッフを信じることも大切です。調律師を信じることも。言い換えれば「疑い」を持った心理状態で音楽に集中することは出来ないという事になります。
 逆に「疑うべき」なのは日頃の練習時、自分の演奏に対する疑いです。常に自分の演奏を第三者の耳と目で観察することは自分を信じないことでもあります。「出来ている」「問題ない」と無意識に感じている時には自分の音を聴いていません。他人の演奏を聴く時には些細なミスや微妙なズレに反応する耳がありながら自分の演奏には反応しない。これが「過信」です。
 演奏会の直前に自分に対して疑心暗鬼になるのはマイナスです。
「自己暗示」で自分を信じるトレーニングをすることも演奏者には必要な訓練だと思います。舞台で演奏する自分は「世界で唯一の演奏者」だと考えることも良いイメージにつながります。

「信じるものは救われる」これは間違っていないと思います。
「ただより高いものはない」これもまた間違っていません。
自分が何を信じるか?何に対して疑いを持つか?その判断が正しかったか?間違っていたか?という結果は判断する時には誰にも分からないことです。
疑う事を前提にすれば「騙される」リスクは減りますが、得られるチャンスや巡り合いを逃すリスクが増えます。
逆に信じることをベースにすれば、良い結果に出会う可能性・確率が高くなる半面、騙されたり失敗の原因になった時の後悔が大きくなります。
 その人の性格によって決まることです。日常生活で選択することは常にあります。その都度、自分の価値観で判断しています。
 楽器を選ぶ、弓を選ぶ際に「何を信じるか?」もちろん、自分の目と耳と情報・知識があれば何も迷う事はありません。しかし実際は自分より専門知識を持つ人や信頼できる人の「言葉」を信じて選ぶことになります。「信じられる人」か?否か?の判断も自分の価値観です。楽器店の店員さんを信じるか?疑うか?
「私を信じてください」と言葉にする人ほど疑ってかかるのは私だけ?(笑)過去の経験からなのか「信じて」と言われると「胡散臭い」と感じます。もちろん「嘘だから信じないでね」と言われて信じる人もいませんが。
 演奏する人を信じたくても信じられない…これは悲惨です。
盲目的に良く知らない人を信頼するのは良い事だとは思いません。
音楽を一緒に演奏する「相手」を一人の人として会話したり一緒に行動した時間の中で感じる「信頼感」があります。感じられない人と一緒に演奏するのは…正直「二度と一緒に演奏しない」と心に誓いたくなります(笑)
 コンサート会場に来場されるお客様は「演奏者に期待する」からお金を払い労力と時間をかけて会場に来られた方です。知らない演奏者なら「期待と不安」が半々?ですね。その期待に応えられれば「信頼」が生まれます。期待を裏切る演奏会なら後はありません。
 教会と言う神聖な場所で演奏させて頂いた経験を、これからの演奏に活かしていきたい…

神に誓えませんが本当にそう思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏の環境を考える

映像は五嶋みどりさんのドキュメンタリー番組です。
現在54歳?かな?「天才少女ヴァイオリニスト」と評価を受け世界各地で演奏活動、教育活動に取り組んでいる彼女の生き方に憧れを感じ、心から尊敬するヴァイオリニストの一人です。
 この番組の中で弓の毛を2~3週間に一度張り替えてもらっている事を話しているシーンがありました。いつもそうなのか、現在は?など詳しいことは分かりません。
お寺や学校の音楽室でも「真剣に」演奏する彼女はクラシックヴァイオリニストとして、ましてや世界中から演奏のオファーが来るソリストとして「信じられない悪条件」でも演奏しています。
 今回のテーマは楽器を演奏する際に、どこまで整った=理想的な環境で演奏できるか?を理想と現実の両面から考えるものです。

「演奏する場所」「楽器・弓のメンテナンスと準備」「共演する人との練習時間」など色々な「環境」があります。演奏者が決められない環境もあれば「お金に糸目を付けなければ」叶えられる環境もあります。どの環境も演奏する人の価値観=考え方で本人の満足度も変わります。五嶋みどりさんのように窓もなく雨の吹込みそうな「お寺」で無伴奏の曲を演奏することを「考えられない!絶対に嫌!」と言う人の方が多いはずです。まさに「湿度100%」の環境でも五嶋みどりさんはいつも通りに演奏しています。聴く人に「音」より「五嶋みどりという人間」が感じられるのは彼女の「人間性」だと思います。
 楽器や弓、弦などを「理想の状態」で常に維持し演奏するためには莫大な費用が必要になります。ただ「演奏者の価値観」によってこれも大きな違いがあります。「ストラディバリウス以外は弾かない」と言うソリストもいるでしょう。「弓は〇〇△以外は使い物にならない」と言う価値観の人もいます。弦を演奏会の度にすべて張り替えないと気が済まない人もいます。弓の毛の張替えもその一つです。
 すべてが「演奏者の価値観」で自分にとって納得のできる環境とそうでない=我慢して演奏する・演奏しないことを選ぶ場合があります。
小さなことですがコンサート会場で演奏中に聴衆の「咳」で演奏を中断したソリストもいました。これも「価値観」と言えます。
「妥協」「我慢」と言うネガティブな思考は避けたいものです。
同じ環境でも「これで十分」「これ以上は望まない」と本心から思える思考でありたいと思っています。
 日常生活を送るのにも同じことが言えます。今の環境を「不幸」「不運」「最悪」と考えるか?「生きていてラッキー」「こんな時もある」と受け入れて生きられるか?同じ環境でも「思考」によって幸福にも不幸にもなるのが環境です。「犠牲」とか「我慢」と言う言葉は実はとても贅沢な環境だけを望んでいる時の発想です。
演奏する機会があることは演奏家にとって最大の幸せです。演奏する機会がなければ「頭の中で演奏会」を開くしかありません。
「恵まれた環境」に長く接していると少しでも環境が悪化しただけでも「最悪だ!」と思いがちです。演奏家にとって一番恐れるべき「落とし穴」だと思っています。自分にとって理想の環境で演奏できるとしたら、それは間違いなく最高の幸せかも知れません。しかし「結果」つまり演奏が自分の理想=思っていた演奏が出来るか?出来ないか?は環境とは別の問題です。どんなに理想の環境で演奏しても自分が納得できる演奏が出来るとは限りません。むしろ「環境が悪かったから」と現実から逃避する事になります。もっと良い楽器を!もっと良いホールで!もっと!もっと…まさに「麻薬」のようなものだと思います。
理想の環境には遠く及ばない環境でも「演奏できる」だけでも幸福感を感じられる演奏者は、演奏だけに集中できます。楽器のせい、弓のせい、弦の…弓の毛の…ホールが…など自分の演奏とは無関係な「理想の環境」より現状での精一杯の演奏が出来れば納得できます。

 演奏者にとって理想の環境を常に維持できる生活は「夢」とも言えます。それは音楽を聴く人にも言えることです。毎日のように好きなコンサートに行って最高の席で聴き「タクシー」で会場と自宅を往復し帰りには好きなレストランで食事…それが夢の環境かも知れません。この不景気で「S席」を諦めたり我慢してYouTubeを見て「行ったつもり」を味わう人も多いはずです。
 昔ある生徒さんに「演奏家って夢を見させてくれる職業ですね」と言われたことがあります。なるほど…と思いました。演奏家自身は現実の世界で日々の生活に苦しんでいたとしても、舞台に立って音楽を演奏する時、客席にいる聴衆にとって「夢の時間」であることは事実です。その意味で演奏家の「生活、くるしー!」なんて聞きたくない気持ちもわかります(笑)私から見て「夢のような環境」で演奏をしている知人や友人もいますが、本人たちが幸せなのか?までは知りません。「隣の芝生は…」なのかも知れません。
 自分が今与えられた環境の中で「あるがまま」を受け入れて演奏し、いつか!もう少し!と言う夢を持って生きていたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

梅雨を乗り切るヴァイオリン管理方法

 2026年5月29日。じめじめした季節が始まりました。
「梅雨」綺麗な文字とは裏腹に、人間も木製の楽器も「不快」なシーズンの到来です。

もちろん農作物にとってこの季節が大切なことは間違いありませんが、日本が「亜熱帯気候」の地域なんだと思い知らされます。
 ヴァイオリンなどの弦楽器にとって「湿度」の変化は温度の変化以上にダメージを受ける「大敵」です。
 以前紹介した「ストラディバリウスの謎を解明」などのブログで書いた通り「本来」ヴァイオリン制作に用いられる木材は伐採され、板状に切られた後で自然乾燥させてから加工が始まります。
 元々水の分子=水分を含んでいた木材を数カ月から数年かけて自然の状態で水分量を減らすることで「締まった音」「乾いた音」が出せるようになります。水分の多い木材は「余韻のない音」で余韻も少なくなります。
 正しい工程で作られたヴァイオリン程、空気中の水分を「吸い込みやすい」性質になります。例えて言うなら「タオル」2枚のうち、1枚を水に浸し軽く絞った状態にして、もう1枚のタオルはアイロンなどで水分を蒸発させて、湿度の高い浴室などに放置したら?
濡れたタオルは乾くこともなく、それ以上水分を含むこともなく同じ状態。一方で最初はカラカラに乾いていたタオルは、みるみるうちに水分を吸い取って「湿気た状態」になるはずです。
 今回は梅雨時のヴァイオリンの管理方法について私の経験ももとに考えてみます。

 ヴァイオリンは「演奏するための楽器」です。飾って鑑賞するための美術品ではありません。
1.ヴァイオリンを演奏する時間の対策
自宅で練習する場合やホールなどで演奏する場合にヴァイオリンに「一番近い場所」に演奏者がいます。梅雨時、蒸し暑い場所で演奏すれば「汗」をかきます。手だけではなく首にも顔にも胸部にも汗と言う水分が楽器に吸い込まれます。部屋が蒸し暑いという事はヴァイオリンの周囲の空気にも多くの水分がありますから、演奏しなくても楽器は湿気を吸い込もうとします。楽器を「守ってあげる」気持ちがあるなら扇風機でも冷房でも良いので演奏者が汗をかかずに演奏できる環境を整えることです。楽器も喜んでいます。小まめに汗をふき取ってあげることも大切なことです。ヴァイオリンの表板よりも裏板=背板の方が身体の汗を吸い取りやすい場所にあることを忘れずに。
2.ヴァイオリンをケースに入れて持ち歩く時の管理
まず「ケースは密閉容器ではない」ことを考えてください。
密閉容器なら中に入れたものは外気の湿度に影響されにくくなります。容器によっては蓋を閉めたあとで容器の中の空気をポンプで抜き取るものもあります。ヴァイオリンのケースは?空気どころか「雨水」までケース内部に入ります。「高級なケースだから」と思われますが実際にカーボン製、樹脂製の多くのヴァイオリンケースに水をかけて「水漏れ」をテストした結果を見ています。メーカーは控えますが「最も高額」なケースは蓋の合わせ目から大量に水が入りました。
密閉されていないケースの中で「除湿剤」は効果があると思いますか?除湿剤が吸っている水分は「ケースの外の湿度」です。外出中なら屋外の私たちが吸っているのと同じ空気です。
 少しでもケース内に雨水を侵入させたくなければ「蓋の継ぎ目・合わせ目」に雨がかからないように「レインカバー」をかけてあげることです。カーボンや樹脂製だから大丈夫!ではありません。
3.家の中での管理
ヴァイオリンをケースに入れて「保護する」必要がある場合もあります。室内でペットを飼っていたり、小さな子供がいる場合に楽器をスタンドに立てて置いておけない場合もあります。楽器にケースの内張りに使われているビロードなどの布が密着することは湿度の逃げ場がなく、楽器の周りに空気が流れないこともあり、出来れば楽器の表面を空気が動く=流れる環境が理想です。
部屋全体の湿度が高い場合にケースに入れたからと言って湿度が下がるわけではないことは私たちが蒸し暑い夜に「掛け布団」をかけずに寝ることを思い出せば理解できると思います。

 最後にケースにヴァイオリンを入れて移動や保管する場合の「除湿」について考えます。先述の通りケース内部は外部の湿度と同程度の湿度があり、空気が動きにくい環境で楽器には辛い環境です。私が過去の経験からお薦めするのは以下の方法です。
1.梅雨時、特に外出したり雨の降った日にケース内部のすべての物を取り出し、ケース内部の布部分に低い温度のアイロンを当てるかドライヤーの温風を丹念に当てて布の湿気を乾かし蓋を開けた状態で熱を完全に冷ましてから楽器や弓、小物を収納する方法
2.楽器(ヴァイオリン)を収納した状態に、アイロンがけをして熱を完全に冷ましたスポーツタオル(楽器の全体を覆える大きさ)を楽器の上=楽器と弓の間の空間に乗せる
特に「2」の方法は手軽で簡単ながら楽器全体の「周辺の湿気」をタオルが吸い込むので楽器にとって快適な状態を保てます。当然ケース外部の湿度も吸ってしまうために、カラカラだったタオルが一日二日で「ふにゃふにゃ」な状態=湿度を吸った状態に変わりますので小まめにタオルを取り換えることが大切です。
 木材で作られた楽器、家具など多くの製品すべてに共通することですが湿度の高い季節には膨張し乾燥すれば収縮します。鉄の場合には「熱」で伸縮するので大きく違います。

特に新しい木材は水分を吸収する力が強いのが特徴です。しかし古い楽器でも長期間、乾燥した国や地域で使用され、乾燥した状態で演奏されていた場合には、急激な湿度と温度の変化によって、楽器の接合部の「ニカワ」の接着力が下がることに加えて木材の膨張もあり接合部に空間が出来る状態=「剥がれ」が起こります。剥がれの場所と面積によって「びびり音」(剥がれた板同士が楽器の振動でぶつかり合う雑音)が出る場合もあります。雑音が出ない場合でも板同士が振動を伝えなくなるために健康な時と比べて音色が変わります。表板、裏板を軽く手の指の関節の骨で叩いて剥がれを確認できる場合があります。剥がれた箇所のニカワをへらで取り除き、新しいニカワを塗って両側から圧力をかけ続けることで復活しますが素人が行う作業ではありません。
 新しい楽器の多くはニカワの接着力が強いため簡単に剥がれることは珍しいことですが「剥がれない」とは言えません。
 演奏する時に場所を選べないことも実際にあります。湿度の高い場所で汗をかきながら演奏すれば楽器は多くの湿度を吸い込み膨張し、熱によってニカワの接着力も下がります。だからと言って演奏しないわけにもいきません。演奏後の「管理」こそ大切になります。
「完全密閉型ヴァイオリンケース」は今現在まだ販売されていません。重さと価格の問題です。私自身15年ほど前に楽器ケースの開発に携わりましたが「完全防水」には至りませんでした。アイデアは頭の中にあるのですが開発から製造販売にこぎつけるまでに「千万」を超える資金が必要になることが分かっています。木製のケースも樹脂製、カーボン製のケースも「開口部」が最大のネックです。この問題さえクリアすれば水も空気も侵入しないヴァイオリンケースを作ることが出来ます。「コロンブスの卵」は頭の中の絵に描いた餅で終わるのかな?
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

とうきょうとっきょきょかきょくに憧れる?

映像はサン・サーンス作曲の「序奏とロンド・カプリチオーソ」
今回のテーマは?そうです「速い曲はかっこいい」と言う憧れについて考える内容です。
「速い」と言う基準はないので「速く感じる」と言うのが正しいですね。人によって感じ方は様々ですが「ゆったり」「ゆっくり「のんびり」の対義語とも言えます。音楽に限らず人間が「身体を速く動かす」事への欲求は本能的なことかも知れません。例えば「狩猟」をするとしたら人間より速く走る「獲物」を追う時に速く走れた方が有利です。敵から逃げる場合にも速く走れることは必要な能力になります。「技術」として少しでも速く身体全体、身体の一部を動かすことはそんな「憧れ」の一端かも知れません。
例えば拳銃の早撃ちは映画などでもよく見かけます。早口言葉は子供の頃に競い合った気もします。職業として「釘打ち」の速度や「キャベツ切りの速さ」も見ていて「すごい!」と感じます。

音楽を聴いて「すごい」と感じるのはどんな時でしょう?
歌であれば「声の高さ」「声の大きさ」にも感じます。楽器を使った演奏の場合にはどうでしょう?「音の高さ」に関してピアノの高い音を聴いて「難しそう」と感じる人はいないのに対してトランペットで高い音を演奏すると「すごい」と感じる人もいます。低い音を出すと思い込んでいるチェロやコントラバス、チューバが高い音で演奏するとやはり「おぉ!」と思う人もたくさんいます。
「速い曲」を聴いた時には声楽であれピアノやヴァイオリンの演奏であれ多くの人がすごい!と感じるようです。「どうすれば?あんなに速く指が動くんだろう?」と思うのは自然な事だと思います。先述のキャベツの速切りやパソコンキーボードの早打ちと違い、演奏は速い動きがそのまま聴衆に届くものです。
演奏家を目指す人が通るプロセスの一つに「速く正確に演奏する」技術を修得することも重要な要素です。音階、練習曲を通して速く正確に演奏する技術を修得するために長い時間をかけて練習します。ただ人によってこの「時間」には差があります。同じ人間なので恐らく「構造的な違い」つまり身体能力的な違いはさほど大きくないはずです。それなのに人によって短期間で速く正確に演奏できる人と「そうではない人=私もその一人」に大別されます。
一番の違いは「練習量」だと思っています。もちろん考えながらの練習で単純な「練習時間」ではありません。指導者からのアドヴァイスや「知識=情報」の多さも関係しますが練習と「意欲」が問題だと思います。
速く正確に演奏することへの「憧れ」の強さが人によって違います。
ある程度=レベルの技術は演奏する人にとって必要になりますが「それ以上」を求めるか?は個人の意識の差です。極論すれば「誰よりも早く正確に演奏したい!」と思う気持ちの有無です。

意欲の違いはあってもアマチュア演奏家にとって「どうすれば?」と言う情報は欲しいものです。私の経験で考えると最も大きな「壁」は「音に対する反応の速さと精度」です。
以前にもブログで書いたかもしれませんが「チューナー」を例に考えると理解できます。

音の高さを視覚的に表す便利な道具が「チューナー」です。その反応速度と精度の問題です。反応速度が遅ければ音が聞こえて「正しい・低い・高い」と言う判断までに時間がかかってしまい短い音には反応しません。精度の低い機会だと「大体あっている」程度で表示されることになります。基本的に12種類の音の高さで表示するため「どれかに近い」だけを表示するチューナーもあります。
 運動として指や腕を「速く動かす」と言うトレーニングは比較的短期間で習得できます。

必要な筋力と瞬間的な運動・筋肉の弛緩=脱力なので無駄な力を抜く「技術」を身に付けることになります。
 一方で音に対する反応の速さ精度を高めるために必要な「トレーニング」と必要な時間は日常生活や楽器の演奏だけで身に付けることは困難です。音の高さに対する感覚=音感のトレーニングは、聴音やソルフェージュによって効率的に高めることが期待できます。聴こえた音の「音名」を短時間で判断する技術と、楽譜上の音を楽器を使わずに「声」で音にする技術を修得することで音感を高めることが可能です。
「速く演奏する」とは「短い音を連続して演奏する」と言い換えることが出来ます。ヴァイオリンの場合には「音を出す右手」と「音の高さを変える左手の指」の運動を「独立」させる場合と「分離」する場合があります。ピアノの場合には音の高さは鍵盤によって決まっており、特定の鍵盤を押し下げれば「決まった音が出る」ことがヴァイオリンと大きく違う点です。
 右手と左手の「独立」と「同期」が短い音を連続するためには避けて通れない「壁」になります。多くのアマチュアヴァイオリニストがこの問題で苦労します。原因は様々ですが最も顕著な例は「どちらかの腕・指の運動にもう一方を合わせようとする」ために同期しないケース。逆に分離が出来ない場合には無意識に両腕・両手が同時に動いてしまうために分離が出来ないケースです。
ピアノで両手の指を使って演奏する場合、左右の手の指を「一つのブロック=運動」として独立・分離していると考えられます。10本の指で違う音を出しながら「ひとつの和声」として脳が意識しているのだと思われます。
ヴァイオリンの場合には、左手指だけを動かしても大きな音は出せません。特殊な奏法を除き=左手指のピチカートなど、開放弦も含めた左手指4本を押さえる・離す事で音の高さを変えながら、右手で押さえた弦・押さえていない弦を「擦って」音を出すので、脳からの指令は「2種類」必要になります。つまり4本の弦の「どれを」「どの指で押さえる・離す」と言う右脳からの信号と、右手=弓がどの弦を弾くと言う左脳からの信号を出している事になります。スラーで1本の弦を全弓を使って音を出しながら、左手の指をその弦で押さえたり離したりすれば音の高さが変わります。同じ左手の動きを「弓を返して」演奏する場合は指の動く速度=タイミングと弓を返すタイミングを「一致させる」場合と「意図的にずらす」場合があります。
多くの「速い曲」の場合は指の動きと弓の動きを同時に行えば演奏できますが、左手で2本の弦を違う指で押さえておいて、右手で2本の弦を交互に演奏するパッセージは多くの曲で用いられる技術です。「左手の指は動かさずに音の高さが変わる」ことになります。

 最後に速い曲とゆっくりした曲で「共通」している技術を考えます。それは「音を出す前にすべての運動をイメージする」ことです。
 イメージせずに音を出して「偶然」思った通りの音が出せる事もあります。例えば左手の指を押さえる位置・タイミングと右手で弓を動かす弦と発音のタイミングがすべて合う場合と左手の指の位置=ピッチや発音のタイミング・弦の種類が合わない場合です。私はこれを「サイコロ」や「じゃんけん」に例えます。偶然に当たることを願っても思った数字が出たりじゃんけんに勝つ「確率」でしかありません。確率を挙げるためにと、何十回繰り返しても変化はありません。
演奏の場合にも似たことをしているケースがあります。失敗しないために無意識に音を小さくして逃げる場合、さらに左手の速さに無理やり右手を合わそうとする場合が該当します。
サイコロと違い自分の身体を思ったように動かすことはトレーニングで成功率を高めることが可能です。
 速い曲もゆっくりした曲も「音の連続」であることに変わりありません。今の音から次の音に「移動する」準備が必要です。両手の動きも常に「次の音」への準備が必要です。
要するに「音と音の連結」が肝だという事です。
どんなに速い運動でも次の運動への「準備」をすることです。
 音を出す前の運動を考えることで自分の思った音が出せるようになる事を意識して練習してみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの「子音」と「母音」

 映像はシェリングのロンド。私の世代だと「バッハ無伴奏と言えばシェリング」だったので(私だけ?)試験でバッハの無伴奏ソナタかパルティータを弾く前にシェリングのバッハ全曲集のレコードをカセットに録音してテープが伸びまで(笑)聴いていました。
 今回のテーマはヴァイオリンを演奏する際の一音ごとの「発音」を考えるものです。
日本語は会話の殆どが「母音」か「子音&母音」で出来ています。小さい「っ」や小さい「や行」さらに「長音」の組み合わせで成り立っています。アクセントよりも「音」で意味が伝わる言葉が多いのも特徴です。例外として「あめ」などの場合「雨」と「飴」はアクセントの位置が違います。文字の場合はひらがなで「あめ」と書いてあった場合には、前後の文字から意味を探ります。

 さてヴァイオリンで演奏する場合「スラーの二つ目以降の発音」と「スラーの最初の音や弓を返した時の発音」で子音の作り方が違います。
スラー=レガートで二つの音を演奏する場合、2音目は前の音の「続き」として切れ目なく音の高さを変えることになります。通常であればレガートは「弓を止めないで演奏する」ことを指します。2音目で「移弦」した場合でも2音目の「発音=子音」は弓を返したときの発音と違い「アタックを付けない」事が一般的なレガートになります。
 分かりにくいので「スラーではない場合」つまり一音ずつのアタック=子音を付ける倍を考えてみます。言葉で言うと「ぱぴぷぺぽ」と言う言葉を発音する時に「P」の部分、声を出す前に唇を閉じた状態から開く瞬間の音と母音を使って「ぱ」と発音します。「P」を「B」や「V」にすると「ば」「ヴァ」に変わります。
子音として「K」「G」「S」「Z」「T」「D」「N」「H」「P」「V」「M」「Y」「R」[W」が日本語の発音に使われます。
それぞれに発音の仕方があることを私たちは余り意識せずに会話しています。例ええば「はは」「ぱぱ」「ばば」と言う時に、唇をどうすると…なんて考えずに発音していますよね。
 ヴァイオリンでは?「ドレミ」と言う音名で歌う時には、それぞれの子音と母音を使って歌えます。歌詞が「ア」だけの歌「ヴォカリーズ」を演奏する時に音の変わり目にアタックが付けば「ア」ではなく「タ」とか「パ」になり、強いアタックが付けば「ダ」や「バ」、もっと深く重たいアタックなら「ガ」になります。意図的にアタックを消し「無声音」を含めた発音を意識すれば「ハ」に聞こえる…
 もちろん実際に「ハ」と聞こえるわけはありません。自分の言いたい「子音」の出し方を弓と左手の指を使ってコントロールします。
 話が前後しますがスラーの2音目以降の場合には弓のアタックを付けられません。しかし左手の指の上げ下げ=離す・押さえる時の変化でクリアに音の変わり目を表すことも、わざと曖昧にすることもできます。

 動画のシェリングの音をよく聞いてみると細かい音も少し長い音もフォルテ、ピアノに関わらず全体が「引っ掻けない=アタックの弱い」発音で演奏している事に気が付きます。
 弓への圧力をかけたままで発音すれば「タタタタ」と言う音に聴こえますがシェリングの音は差し詰め「ララララ」か「ヤヤヤヤ」と言った音が多く聴こえます。
 この曲のように短い音が連続する曲をヴァイオリンで演奏する時、一つ一つの音を明瞭に発音させて「角を付けた音」にする場合、弓の毛を弦に乗せた状態で圧力を加え動かす➡圧力を緩めずに次の音も同様に圧力をかけたままで発音することの繰り返しで「タタタタ」と言う言葉に聴こえる演奏することが一般的です。
分かりやすい例の動画です。

バッハ無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番プレリュード パールマンの演奏

同じ曲をもう一つ

バッハ プレリュード グリュミオーの演奏

 二つ目の動画、アルトゥール・グリュミオーはピアノの部分になると圧力を弱めてアタックを付けない発音に変えています。
 言うまでもないことですが二人とも「こだわり」があってこうしている事は間違いありません。偶然…とか、なんとなく…と言う発音が一つも見つかりません。物凄い集中力です。感服します。

 人間の言葉で音楽を表現できるのは「歌」だけです。ピアノもヴァイオリンも管楽器も打楽器も「言葉」を発することはできません。
 私たちが日常生活で耳にする音=聴こえる音は様々ですが、人との会話だけは「意味」を聞き取ろうとしています。それほど「言葉」と言う音は特別なのです。楽器の音が聴こえた時に楽器の種類を考えるのは演奏家なら「当たり前」かも知れませんが、普通の人は「音楽」で終わるのだと思います。
 聴く前から「ヴァイオリンとピアノ」と分かっている場合、例えばコンサート会場で聴く場合であれば、聴こえてくる音の中でピアノとヴァイオリンの「聴き分け」は恐らく多くの人が出来ると思います。しかし弦楽四重奏の場合なら、二人のヴァイオリン奏者の「聴き分け」をすることは非常に困難…むしろ不可能かもしれません。見ていれば分かりますし明らかに二人の音色や音量が違えば聴き分けられますがそれは特殊な場合です。
 ヴァイオリンで発音を変えることで「意味」が生まれるわけではありません。どんな発音が正しいと言う正解もありません。
 演奏する人の「個性」が一音ずつのアタックやアタックの後の「母音」に当たる音の音色を変えることで生まれます。
 アタックのない「はひふへほ」も柔らかい発音の「まみむめも」、少し固いアタックの「た」「か」、破裂音に近い鋭い発音の「ば」「ぱ」など、ヴァイオリンの発音をコントロールすることで音楽に「色付け」をする楽しさがあります。ぜひ、自分のヴァイオリンの音を聴いて「子音」を考えてみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音から指使いを探る

 映像はイツァーク・パールマンが演奏するパラディスのシシリエンヌ。
初めてこの演奏を聴いてどうしても演奏したくなり楽譜を入手。楽譜に記されていた指使いやボウイングもありましたが、どうしてもパールマンの演奏を「真似」したかったので、ヘッドホンで演奏を何十回も聴きながら楽譜に指使いやスラーを書き込みました。
 今回のテーマ「音から探る」と言う内容はただ単に指使いを「真似する」目的ではなく自分の演奏の「土台」になる演奏を作るために他人の演奏を聴くことの重要性を考えるものです。

レッスンで「他の演奏を真似しない」事を先生から言われた経験のある人は多いのではないでしょうか?私自身は師匠から言われていませんが、学生時代に先輩たちから言われた記憶があります。自分より上手だと思う人の演奏を真似できるなら苦労しないわけですが(笑)
「芸は盗め」という言葉があります。伝統芸能で「習う」「教わる」と言う概念は通用しない。先人の芸を限界まで観察して自分で試すことの繰り返しで身に付けるのが本質だと言う考え方だと思います。
演奏の世界でも同じことは言えないでしょうか?師匠からの言葉や文字から得た知識は確かに重要です。自分が気付いていない課題を指摘してくれるのも師匠があってのことです。しかし言葉で習ったことは「言葉」として記憶される情報です。自分の耳と目で得た感覚は言葉とは違う記憶になります。そして何よりも自分の力で「技を盗む」努力が自分の演奏に生きてきます。音を聴いて「どうやって?この音を出しているんだろう?」と何度も聴いて観察・想像することは自分でしか出来ません。誰かに教えてもらうより遥かに時間も労力も必要です。以前のブログで登場したジャズヴァイオリニスト「ステファン・グラッペリ」は独学でヴァイオリンの演奏をスタートしプロになったヴァイオリニストです。もしかすると誰かにアドヴァイスを受けた事もあるかも知れませんが、もしそれが重要な事だったとしたら自身が経歴として書くはずですね。独学ではうまくならないと言うのが間違った定説だと証明しています。

 インターネットの普及で演奏技術に関する情報や演奏している動画を気軽にみられる時代です。「チュートリアル動画」があふれています。素晴らしいヴァイオリニストの演奏動画も無料で視聴できる上に再生速度をゆっくりにしてもピッチは維持されています。さらに画面の一部を拡大することも簡単に出来ます。本当に便利な時代です。
 一方で安直に情報を得られるために忘れられていることも多いのが現実です。「演奏を聴いて学ぶ努力」はその一つです。違う言い方をすれば考える時間が減っていると言えます。マジックの「タネ」をすぐに知ることができるとしたら?きっと楽しみが減りますよね?
自分で考えて自分の演奏を作る時間が「もったいない」でしょうか?
誰かに技術を教えてもらってその人の真似をする人と、自分で考えて迷いながら自分独自の演奏をする人がいます。効率を考えれば「教えてもらう」方が圧倒的に短期間で仕上がります。しかし迷いながら手探りで音楽を作る作業や、誰かの演奏を何度も聴いて観察する時間は決して無駄だとは思いません。
 私の持論ですが演奏家の評価はその演奏家の「最後の演奏」に集約されていると考えています。世界的に高い評価を受けた「今は亡き」演奏者たちすべてに若い頃の演奏があります。公開されていない演奏が殆どですが絶対にあります。当たり前ですが(笑)年齢と共に演奏が成熟し高齢になると「味わい」が感じられます。「枯れた演奏」と評されることもあります。人によっては最晩年は身体の自由が利かなくなる、聴覚も反応が下がった結果として若い時より演奏技術が下がることもあります。それも「歴史」の一つです。その演奏者だけが出来る演奏は「技術だけ」で語るべきものではありません。
 若い人の演奏は「成長の過程」での演奏です。どんなに演奏技術が高くても、10年20年30年と言う年月を経て「人として」経験を重ねる中で変化していく演奏が残せるか?独自の演奏が出来るようになったか?こそが演奏家の評価だと思います。

 レトルト食品のように手軽に短時間で仕上がる演奏が必要な場合もあるかも知れません。自分で味を確かめながら納得のいく味の料理を仕上げるように「音楽」を仕上げる技術は習えるものではありません。まさに自分だけの感覚で1回の演奏に到達するまでのプロセスを大切にしたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介