メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

     

メリーミュージック

   

2004年創業バイオリン教室・ピアノ教室・ビオラ教室・楽器店です
神奈川県相模原市緑区原宿南2-26-1

演奏者が聴く自分の音と他の楽器の音

映像は長野県木曽町で演奏したバッハ作曲「アリオーソ」。ヴァイオリンは木曽町が所有する陳昌鉉氏が製作した楽器。ピアノはかなり古い時代のスタインウェイです。
今回のテーマはヴァイオリンを弾きながら聞こえる自分の楽器の音と一緒に演奏している「他の楽器の音」について聴こえ方・聴き方・演奏方法を考えるものです。
 楽器によって自分の演奏する音の聴こえ方に大きな違いがあります。
極端な例で言えばパイプオルガンの演奏者は設置された数多くのパイプに送り込まれる空気によって建物=演奏会場に響く音を鍵盤の前で聴きます。
ヴァイオリンの場合は音源が耳元から10センチ程の場所にあり、顎の骨や鎖骨を通しての「骨伝導=楽器の振動を直接感じるもの」もあります。
同じ弦楽器でもチェロの場合には筐体=ボディがヴァイオリンよりはるかに大きく弦も太く長く張力も強いので音量=物理的な音圧も大きくなります。耳元と言うより座っている自分の前方に音源がある事になります。
声楽の場合は音源が声帯で口の中、頭蓋骨、胸部を振動させたものすべてを耳と身体で感じることになります。
 こうした楽器ごとの聴こえ方の違いがある中で、さらにピアノやオルガンのような他声部楽器=一度に多くの音を演奏できる楽器と、管楽器や基本的な弦楽器の演奏方法で出される「短声部=旋律だけを演奏する」楽器に分類できます。
 ピアノやオルガンも他の楽器や声楽と一緒に演奏することもありますが作品の多くは1台のピアノ・オルガンで旋律も和声も演奏できる楽器です。
 管楽器や弦楽器、声楽の場合は逆に一人だけで演奏する曲は非常に少なく多くの曲は他の楽器、他の演奏者と一緒に演奏して音楽が完成されます。

 一緒に演奏する人がある曲でも「一人での練習」が必要になります。いわゆる「譜読み」の段階から始まり、指使いやボウイングを考えながら(ヴァイオリンの場合ですが)音量や音色を考えながら練習する時間です。この時に一緒に演奏する「音・音楽」を想像しながら練習することは経験と楽譜を見る技術があれば可能です。アマチュアの演奏者の場合に「自分の事で精一杯」になるためにこの練習が不足しがちです。
 実際に一緒に練習することを「あわせ」などと言いますが、二人の場合でもオーケストラの場合でも最終的な楽器の編成で練習することを指します。オーケストラの場合には指揮者がすべての楽器の音を聴くことが出来る唯一の場所=指揮台から聴きバランスなどを演奏者に指示します。演奏する位置によっては自分の楽器の音より他の楽器の音の方が大きく聴こえる場合もあります。逆にオーケストラの一番「後ろ=奥」で演奏する金管楽器がフォルテで演奏すればヴァイオリンの音はまったく聞こえないのでは?とも感じます。
 こうした「あわせ」の時に自分の楽器の音と他の楽器の音を「聴き分ける」技術が必要になります。ただ分離するなら音量も音色も違うので誰にでも出来ますが「統合=一つの音として聴く」技術が必要になります。時に二人で演奏する場合にはお互いが相手の音と自分の音を「自分の音」として考える思考が必要です。
 一人で練習して居る時には自分に聞こえる小さな音…例えば弦に指を載せた瞬間の音がピアノと一緒だと聞こえなくなることもあります。弓の速度や圧力を「ほんの少し」変えて自分に聴こえる音色の変化がピアノの音にマスクされて聞こえなくなることもあります。
音量の変化も一人で練習している時には感じていたクレッシェンドが感じられなくなることもあります。考えれば当然のことです。ピアノは同時にいくつもの鍵盤=音を演奏しています。さらに音量の変化幅もヴァイオリンよりはるかに大きな楽器です。

 ピアノの音を聴きながら自分の音を聴く。
一種の「マルチタスク」です。頭の中で同時に聞こえる2種類の楽器の音を冷静に考えながら自分の音に集中して演奏する…これ、かなり難しいことだと思います。あれ・もしかして私だけ?(笑)
 録音された自分たちの演奏を聴くとき、マイクの位置によって二人の音量のバランスがまったく違って聴こえます。それぞれの楽器に近付けたマイクで別々のトラック=チャンネルに録音しバランスを整えるのが「スタジオレコーディング」です。ライブでの録音は通常「記録」として録音することが主目的なので、お客様からの見た目で邪魔にならないことも大切な条件になります。
 と言うよりも(笑)ライブ=コンサートの場合には客席での聴こえ方が一番大切なので録音は本来の目的ではありません。演奏しながら客席で二人の音のバランスは自分では確認できません。私たちの場合には調律師の名取さんに少しでも聴いてもらいアドヴァイスをもらっています。名取さんが居ない時、さらに誰も知り合いがいない地方の会場ではお互いの音を客席で順番に聴いて「想像」するしか方法がありません。あとは経験と勘が頼りです。

 曲によってお互いの音が聞こえにくい曲もあります。ヴァイオリンの音域も関係しピアノの音の数・音域も関わります。ヴァイオリンの立ち位置でも聴こえ方が変わります。ピアノの「蓋=屋根」の開け方でも変わります。ピアニストからの「視界の中」にヴァイオリンがあるか?も関わります。
 私たちは最終的に「ホール全体に二つの楽器の音が届く」事を考えている「つもり」です。
練習の時にホールの響きを想像することは不可能です。色々な位置でヴァイオリンを弾くこともあります。ピアノの近くだったり少し離れた距離で演奏してみたり。聴こえ方がお互いに変わります。ピアノは動けませんから(笑)ヴァイオリンが動きます。
 曲によって調性=キーを変えることも多くあります。バランスよく聞こえる調、オクターブを考えて「リアレンジ」します。以前のブログでもヴァイオリンとヴィオラで同じ曲を演奏した比較、違う調性で演奏した比較もしていますのでご興味あればお読み頂ければと思います。

 一人一人の演奏者は自分の音に最大限の集中をします。当然です。
客席で演奏を楽しむ方の殆どは「ひとつの音=音楽」として聴いています。
例えるな「2種類の素材の料理」です。どちらかの主張が強すぎればどちらの素材とも美味しくなくなります。別々に食べても口内調味…口の中で一つになっても「惜しい」と感じる料理は単品よりも難しいと思います。
 別々の音色・楽器の音が違う種類の新しい音になります。曲の中で一つの音のように溶ける場面もあればどちらかの音が鮮明に浮かびあがる場面もあります。
それを確かめるのが「あわせ」だと思います。学生時代は本番の前に数回合わせればとりあえず?納得していた気がします。それで「完成」させることが出来るプロもいらっしゃいます。
私たちの場合は常に試行錯誤の繰り返しです。「これ!」と言う正解がない道を迷いながら歩くのも音楽なら楽しいものです。間違ったからと言って誰も傷つきませんから(笑)
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの成長と寿命

  今回のテーマは理論的な面と主観的な感覚の両面からヴァイオリンの「成長=良い音に変わる変化」と「寿命=良い音が出せなくなる」状態について考えるものです。理論について私の知識では判断できないので論文を解説している動画を使います。感覚的な面は自分が使用してきたヴァイオリン・ヴィオラを元に書いていきます。

 冒頭の動画は理論的なヴァイオリン=木材の経年変化をまとめた部分から再生されるようにリンクを張ってあります。詳細を見たい方は動画の最初から見直すことをお勧めします。
 結論を一言でまとめてしまえば木材を伐採してから200年頃が「固さ」「音の響き」のピークだという事です。それまでの間は特に振動を音に変える効率が上がり続ける「過渡期」であり、一方で木材の「固さ=強度」は150年から徐々に劣化してくことが科学的に証明された事実です。当然、伐採後の防腐処理や使用環境によってこの数値は変わりますし木材の個体差も関係しますが「理論上」とは多くのデータを基に導き出されるものです。演奏家の「感覚」とは別の次元で「正しい」と言えます。
 ストラディバリウスは良い音を出すヴァイオリン。それを否定する意味ではありません。

ただ現実問題として「劣化」は避けられない事実です。修復をすれば元の楽器から徐々に遠ざかっていきます。最終的には表板も裏板も違う部材に変えたとしても「ストラディバリウスです!」と言えば言えます(笑)

 この動画では触れていませんが「名器」と呼ばれるヴァイオリンに使われている木材を分子レベルで解析し「前処理」つまり楽器を作る前に木材にどんな処理をしたか?と言う事を分析する論文もあります。演奏する私たちが知る由もないことですが、ストラディバリもグヮルネリもそれぞれに「薬品」に木材を漬け込んでいた(笑)のは間違いないようです。細胞や分子レベルまでの分析が出来るようになり、楽器を破壊することなく調べた結果なので疑いの余地はありません。
 300年前に今の科学技術があった訳でもなく、さらにその300年前には色々な大きさ形のヴァイオリンがあった事を考えれば、アマティやストラディバリがどれほど優れた楽器製作者だったかを示しています。

 二本目の動画でシューベルト作曲「アヴェ・マリア」の演奏に使用しているヴィオラは陳昌鉉さんが2010年に製作された楽器です。
演奏しているのは2012年12月。5月に陳昌鉉さんがご逝去され、追悼と感謝の気持ちを込めて演奏したものです。
 陳昌鉉さんは常々「ストラディバリのような楽器を作りたい」とお話しされていました。

このヴィオラの顎当てを私好みに削って頂くために工房に伺った際に私が「生まれたばかりの楽器なのに《おじいちゃん》のような深い音」と表現すると陳昌鉉さんは嬉しそうに笑いながら「ありがとうございます!何よりも嬉しい言葉です」と仰っていました。
「ヴァイオリンのメッカ」と呼ばれるクレモナで少し前に「イタリアの楽器は100年経ってからいい音になるんだ!」と自分の楽器について謎の自慢をしていた有名な製作者がいましたが(笑)100年後に製作者も演奏者も間違いなく「お星さま」になっていますから証明できる人はいません。ある意味「言ったもの勝ち」ですが。
ストラディバリの楽器は出来た当時から「素晴らしい楽器だ」と評価され多くの演奏家、楽器商が彼の楽器を買い求めた結果、信じられないほどの数の楽器を生涯にわたって作り続けました。つまり「100年後に!」なんてストラディバリは言っていないし、当時「新作」だった彼の楽器が本当に素晴らしかったことは事実なのです。

 ここまで書いて「ちゃぶ台返し」をします(笑)
ヴァイオリンを作る製作者=職人は何故?自分の作ったヴァイオリンが「良い音」だったり「演奏しやすい」と分かるのでしょうか?製作者の中には自分でもヴァイオリンの演奏ができる人もいます。しかしどう考えてもヴァイオリンとチェロを同等に弾きこなす人だとは考えられませんし、そんな技術も時間もなかったはずです。「演奏者からの意見=評価」に素直に耳を傾ける謙虚さのない製作者が良いヴァイオリンを作れるとは思いません。先ほどの「100年後」を豪語した製作者は、自分の作ったヴァイオリンの「評価」が自分の予想以下だったから「ふっかけた」としか思えません。本当に演奏者が弾いて「素晴らしい」と評価をしていたなら「100年後」と言う言葉は出てこなかったはずです。今現在の音が固すぎたりキンキンしていたり楽器が鳴らなかったりという不満や評価を素直に受け入れていれば、きっといつか本当に良い楽器製作者になれたかもしれません。
 楽器は演奏者が演奏して初めて「楽器」になるものです。どんな楽器でも演奏の技術が優れた人が演奏すれば「楽器の価値」も高くなります。粗雑に扱われ演奏技術の不足した演奏家に乱暴に使われたヴァイオリンに「楽器が良くない」と暴言を吐く人を私は軽蔑します。

 製作されて300年経過した楽器を「最高の楽器」と決めつけ崇める事には違和感しか感じません。既に修復を重ね木材は往年の響きや強さを失っている楽器が最高だとしたら出来たばかりのヴァイオリンを誰が?育てるのでしょうか?あまりにも身勝手な考え方だと思います。

 人間と似ていると思います。子供の頃に親や周囲の人に愛されて、正しいマナーやモラルを身に付けた人と、甘やかされわがまま放題に育った人の違いです。さらに言えば、どんな子供=ヴァイオリンでも大切に愛情を持って育てれば、人=ヴァイオリンとして成熟した大人になります。人もヴァイオリンも「生まれ」が大事なのではなく、育つ過程が一番大切だと思います。

 新作ヴァイオリンは良い音がしない…これははっきり言って「嘘」です。すべての新作楽器を否定するような考え方は間違っています。

 しかしヴァイオリンは冒頭に書いたように作られてから200年ほど経過したときが「全盛期」だと言えます。それまでの200年間、何人ものヴァイオリニストに大切に演奏・管理されればという条件があります。300年経った楽器を大切にするのは「伝統を継承する」意味しかありません。むしろ今後は演奏に使用するのではなく「貴重な歴史的資料」として管理すべきだと思います。若いヴァイオリニストにストラディバリウスを貸し出すよりも「これから成長する」ヴァイオリンを大切に演奏させるべきだと考えています。

 最後までお読みいただきありがとうございますした。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏家の「肩書き」は何のため?

 今回のテーマは「肩書き」についてのお話です。
様々な職種で担当や役職などの「肩書き」と呼ばれるものがあります。
「〇〇部△△課 課長」だとか部長だとかの肩書きもあれば、政治の世界なら「〇〇知事」や「△△大臣」やらも肩書きです。
 その他に「経歴」の中に過去に得た資格や授与された「名誉」を書くことも一つの肩書きと言えます。「〇〇コンクールで入賞」とか「△△音楽大学を優秀な成績で卒業」などの曖昧な物も肩書きに見られる場合もあります。
 演奏家にとってそれらの肩書きは一体どんな意味を持つのでしょうか?
プロの演奏家として「演奏の仕事」を得るため、多くのお客様を集めるために肩書きが使われる場合が殆どです。例えばコンクールでも歴史や権威によって肩書きとしての「レベル」が変わります。ピアノで言えばショパンコンクールやチャイコフスキーコンクールでの「入賞」は他のコンクールとは別格の「権威」があります。ヴァイオリンでも似たような違いがあります。コンサートを企画する音楽事務所や企画会社にとって演奏者の肩書きは第一に優先される基準になります。マスコミの取り上げるニュースとして扱われるコンクールで「優勝」「入賞」すれば事務所同士の取り合いがあるほどです。コンサートのチケットも1年先まで売り切れ!と言う人も肩書きがあってのことです。

 一昔前…今から50年前なら「ヨーロッパに留学」だけでも立派な肩書きになりました。
また国際コンクールで日本人が優勝したり入賞することも、以前は大きな話題になりましたが、今や「それで?」程度に扱われることも珍しくありません。どれも「マスコミ」が取り上げる話題としての違いであって、演奏者の力量や音楽的な個性とは別の話です。
音楽に限らず「学歴社会」と言う言葉があります。昔なら「東京大学卒業」と言えば「天才」か「神童」と呼ばれていた時代もありました。イメージとして「すごく頭のいい人」と誰もが疑わなかった時代がありました。今は?(笑)昔なら「大蔵官僚」にキャリアとして入省できるのは「まず東大卒」次に「旧帝大」でした。その官僚が本当に賢い人なのか?に疑問がで始め
世界的な「学力基準」で日本の東大のレベルが異常に低い事も今や常識になっています。
 演奏家の「技術と音楽性・個性」をコンクールの肩書きで測れるか?と言う疑問があります。以前にも書きましたがコンクールの序列結果は「審査員の好み」で決まります。世界中のどんなコンクールも基本的には審査員「次第」で順位が決まります。
 審査委員はコンクール参加者より優れた技術を持った人…のはずです(笑)から、1位に鳴った人は2位の人より「優秀」な演奏家のはずです。しかし聴く人によって評価が分かれるのも事実です。同じ演奏でも審査員が変われば順位が変わって当然です。だからと言って審査員を100人、500人並べたから正しい序列が出ると言うものでもありません。実際には非現実的なことです。

 演奏する人間にとって自分の演奏を聴いてもらう「機会」がなければ誰にも聴いてもらえません。評価さえ受けられません。それは一番つらく、悲しいことです。
 演奏家を夢見て毎日休まず何時間も練習し、高い楽器を親に買ってもらい、レッスン代を払ってもらい、高い授業料の音楽高校、音楽大学に通う学費も親に頼ったり「借金」である奨学金を受けたり…ある意味では人生の一番楽しい時期を「音楽」にすべてつぎ込んだ結果が
「誰にも聴いてもらえない」これが殆どの「音大卒業生」の実態です。こんな事を書くと「夢を壊すな」と叱られそうですが事実なので仕方ありません。
 音楽学校に入学して精一杯努力して身につけた知識、演奏技術、経験は本人にとって「かけがえのない宝物」です。それが例え肩書きにならなくても問題にはなりません。
同じようにコンクールでの結果=肩書きは本人の技術とは無関係です。何故なら「コンクールを受けた人の中での序列」なのです。コンクールを受けない演奏者の方が圧倒的に多いのです。「うまい人だけがコンクールにチャレンジする」とは限りません。現実に世界中のソリストと呼ばれる「一流演奏家」の中でコンクールの肩書きのない人はいくらでもいます。音楽大学を卒業していない人も数えきれないほど存在します。
 肩書があれば演奏家になれる…とも限りませんし、逆に肩書きが何もなくても素晴らしい演奏者として多くの人を感動させることも当たり前にあります。
 肩書きは「評価」ではなく演奏の仕事を「もらいやすくする」「とりあえず聴いてもらえる人を集められる」ための道具だと言えます。肩書き「だけ」で演奏を評価するのは根本的に間違っています。自分の耳で聴き、素直に評価するのが正しい姿です。
 演奏者の「努力の結果」として肩書きを得ることも事実です。肩書きの為に努力するのも「手段」として否定はしません。ただ、肩書きがないことにコンプレックスを持つ必要な全然ないのです。自分の演奏を聴いてもらう場を自分で作ることも、かけがえのない経験になります。大手の音楽事務所のように集客できなくても決して悲観しないことです。
「下積み経験」のない役者、芸人はすぐに飽きられることは芸能の世界では常識です。
世襲制度のある伝統芸能でも「皇族・王族」の社会でも「人として」学びのない人は、人間の「底の浅さ」がすぐに見破られます。
 肩書より大切な事が絶対にあります。誇りと謙虚な気持ちを忘れなければ努力の結果を評価してくれる人が必ず増えることを確信して頑張りましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

コンチェルトもソナタも弾き方って同じ?

映像は私の高校3年生当時の演奏。ハチャトゥリアン作曲ヴァイオリンコンチェルト第1楽章。
今回のテーマは演奏する「曲=楽器編成」の違いで演奏方法は違うのか?同じなのか?というお話です。
 ヴァイオリンをレッスンで習う時「音階」「練習曲」「曲」の3種類を師匠に見て頂くことが多いのでは?私は中学・高校・大学と一人の師匠についていましたので他を知らないのですが…。もちろん、指導者によっても生徒のレベルによっても内容は違って当然です。
「教本」と呼ばれるものには少しずつ音階や練習のための短い曲、さらにコンチェルトや小品がばらばらと載せてあります。最初は「1巻」から始めて段々難しい曲が増えてくる。そんな教本が多いように思います。
 そもそも「コンチェルト=協奏曲」の独奏を一体、どれだけのヴァイオリニストが生涯で一度でも演奏するチャンスがあるでしょうか?ちなみに本来コンチェルトは「オーケストラ」と独奏者が一緒に演奏する楽器編成の音楽です。
 ピアノを習っていて小学生や中学生で「コンチェルト」のソロをレッスンで習うことは、ほとんどないと思います。例外的にコンクールで優勝するような子供がプロのオーケストラと共演する話は聴きますが全体の中で「1000人に一人」より少ないケースだと思います。
 音楽高校の入試、学内での実技試験でもピアノ科の課題に「コンチェルト」がないことを昔から「なんで?」と感じていました。逆にヴァイオリンの場合には入試でも学内での試験でも必ず「コンチェルト」の一部が指定され、カデンツァも含まれることが殆どです。
 その違いの最大の原因は?「ピアノには独奏曲がたくさんある」のに対しヴァイオリンは「ほぼすべての曲がピアノかオーケストラ、他の弦楽器などと演奏する」ことだと思います。
ヴァイオリンの無伴奏曲が少ないことは以前にも書きました。
 だから?ヴァイオリンの試験曲はコンチェルトって言うのも「なんだかなぁ」と感じるのは私だけでしょうか?
 コンチェルトの独奏以外にも「小品」と呼ばれるヴァイオリン独奏曲はたくさんあります。有名な作曲家で言えばフリッツ・クライスラーの作品。「ピアノとヴァイオリンの為のソナタ」以外にも多くの小品(演奏時間の長さも様々)がありますが、入試や学内の試験でそれらの曲を演奏することはほとんどありませんでした。「ソナタ」のレッスンは「実技」レッスンとは別に「室内楽レッスン」を受講してレッスンを受けました。
 生徒に何を求めているのか?は学校や指導者によって違う事は当然です。ヴァイオリンコンチェルトのソロが演奏できれば、大体の小品は演奏できますし「ソナタ」にしても技術的な面だけでを考えれば「演奏可能」です。

 本題になります。コンチェルトの独奏を演奏する場合とソナタや小品、室内楽を演奏する時の演奏は「何が?どう?違う」のでしょうか。
 これはピアノでも同じことが言えますが、コンチェルトの場合には「オーケストラ」が一緒に演奏するわけですからたくさんの弦楽器奏者、多くの種類の管楽器と打楽器が独奏者と同時に音を出すことになります。ポピュラー音楽なら歌手はマイクを通してアンプで増幅=大きくした音をスピーカーを通して客席に届けるので「音量のバランス」を歌手もバックバンドや演奏者が気にする必要はありません。どんな小さな声の歌手でもエレキギターやドラムの音、時にはオーケストラの音よりも大きな音で客席に響かせることが出来ます。
 クラシック音楽で「マイク・アンプ・スピーカー」を使うのは特殊な場合に限られます。

 上の映像はベルリンフィルが野外でのコンサートで大観衆に音楽を聴いてもらっている動画です。「生の音」はいかにベルリンフィルでも屋根もない・環境版もない場所で何千人もの人に聞こえる音にはなりません。当然マイクとアンプ・スピーカーが必要になります。

 マイクやスピーカーを使わずにオーケストラを「バック」にして演奏する場合、ピアノコンチェルトなら「フルコンサートグランドピアノ」と呼ばれるピアノを使用するのが一般的です。グランドピアノの中で最も大きく、当然響きも音量も豊かです。オーケストラが全員で演奏しても客席に十分な音量バランスで聞こえる音量があります。
 ヴァイオリンは?いくら「ストラディバリウスは音が大きい」「いやグヮルネリのヴァイオリンの方が…」とは言え(笑)物理的に音圧=デシベル面でも音色の面でもピアノのようには行きません。何故ならオーケストラにはコンチェルトでも20名以上のヴァイオリン奏者が同時に演奏しています。もしかするとその中にストラディバリウスやグヮルネリを使っている人も居て不思議ではありません。しかもオーケストラメンバーも「プロ」です。ソリストが演奏するヴァイオリン独奏を「ちゃらちゃら」っと演奏できるメンバーもたくさんいるはずです。
 そのオーケストラメンバーがいくら「遠慮」して弾いてもヴァイオリンソリストの音の方が「大きい」可能性は極めて低いはずです。放送や録音でソリストの音がオーケストラより大きく聴こえるのは以前にも書いた「電気的な処理」の結果です。
 音量でも音色でもオーケストラの音より「浮き上がって前面に聴こえる」演奏方法・演奏技術が必要になります。一言で言えば「オーケストラより目立つ音」です。

 小学生がレッスンや発表会でモーツァルトやブルッフ、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトを「バリバリ」弾く姿は今時、珍しくありません。中にはシベリウス、ブラームス、チャイコフスキーのコンチェルトソロを演奏する「子供」もいます。
 では「ピアノとの二重奏」でコンチェルト独奏と同じ弾き方をする必要があるか?必然性があるか?と言うテーマになります。
 ピアノはヴァイオリンよりも大きな音量を出せる楽器です。発音の原理が全く違うので二人での演奏を聴いて「どちらの楽器の音か分からない」という事は心配する必要がありません。明らかに音色が違います。
 ヴァイオリンが「ピアノに負けないぞ!」とコンチェルトソロのように演奏する「意味」があるでしょうか?私はまったくないと考えています。
 もちろんピアニストがヴァイオリンの音に配慮して、音量と音色をコントロールしてくれたら!と言う前提条件があります。さらにヴァイオリニストもピアノの音の多さ、音域を考えた「音量と音色」を考えて演奏する技術が必要です。

 上の映像は今年1月に演奏したラフマニノフ作曲「ここは素晴らしい場所」ヴァイオリンとピアノで演奏した動画です。
 私の弾き方も浩子さんのピアノも決して「大きな音量」ではありません。かと言って「物足りない」音量だとも感じません。
 会場で「音」を聴く方にとって「ちょうどいいバランス」を考えた演奏が理想だと思っています。演奏する会場の広さ・残響の長さがすべて違います。聴く場所=座席の場所でも変わります。すべての人が「ちょうどいい」とは思えないのが現実です。好みもあります。
 少なくとも若い頃…音楽高校・音楽大学時代に実技のレッスンで私が師匠に教えて頂いた=レッスンを受けた曲で「小品」は1曲だけでした。大学5年(笑)の最後に「何か弾きなさい」と仰られて「え?え?」戸惑う私に微笑みながら「なんの曲でもいいよ」と優しくおっしゃった師匠に甘え、ヴィタリのシャコンヌを弾かせて頂いた事。
 あ!もう1曲ありました!先生!ごめんなさい!(笑)
大学2年?3年?の時にカルメンファンタジーをレッスンで教えて頂きました。
全然!弾けなかったので記憶から抹消していました。

 最後に。
曲によって演奏の仕方を変える「技術」はあります。ただ自分の理想の音を出す技術は変わりません。「コア」になる音色と・音量があり、そこからのバリエーションを作ることが「技術」です。少なくとも「ヴァイオリンコンチェルト」がヴァイオリン独奏で一番「過酷な条件」になることは事実です。だからと言ってヴァイオリンコンチェルトがヴァイオリンの魅力を最大限に表現できるものとは言えないはずです。無伴奏も、ピアノとのデュオも弦楽四重奏もそれぞれに「弾き方」を考えることがヴァイオリニストに必要な技術だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

唯一無二の演奏

 映像はカウンターテナーのアンドレアス・ショルが歌うヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」私が好きな演奏を「ひとつ」と言われたらこの演奏を選びます。
 演奏は演奏者によってすべて異なるものです。仮に同じ曲を演奏しても完全に同じ演奏をすることは他人はもちろん、本人であっても不可能なことです。演奏者がその瞬間に生きていることの証だとも言えます。録音されたもの=機械で音を鳴らしたものと違い、自然界がそうであるように「ある一瞬」は二度と存在しないのが「摂理」です。
 ショルの歌うこの演奏は私が音楽を聴いてきた中で、他のどの演奏とも違うインパクトがあります。ただ「うまい」とか「すごい」とか技術が…曲が…と言う理屈を抜きにして忘れられない音楽になっています。
 どうしたら?こんな演奏が出来るんだろう?と理屈っぽく(笑)無駄に考えてみます。

 過去のブログで「好み」と言う言葉を使ってそれぞれの演奏者が目指す音楽があり、聴く人にも好みがあることは書いています。
 自分自身がどんな演奏を理想として辿り着けない道を進んでいるのか?考えた時に、自分以外の誰かが演奏する音楽に導かれている事に気付きます。ヴァイオリンでなくてもクラシックでなくても自分の感情を激しく揺さぶる音楽。無意識のうちに自分「も」そんな演奏をしてみたい!と思っているのだと思います。
 自分の好きな演奏との出会いは偶然が重なった結果です。好きな音楽に出会おう!と探して巡り合える可能性もありますが、誰かが演奏した演奏に偶然に出会わなければ「理想」は自然に生まれないことになります。
 人との出逢いにも同じことが言えます。「運命的な出逢い」と呼ばれる出逢いもあれば、本人が気付かないだけで本当は出会っている・出会っていたという事もあり得ます。
 自分の理想を目標にして演奏する。文字にすればそれだけの事ですが実際には自分の演奏は「現実的」に課題や問題ばかりが気になって修正と試行錯誤の繰り返しです。いつの間にか理想…どころか自分が音楽を演奏しているのではなく「音を出す練習をしている」ことに気が付かないのが現実です。
 陶芸作家が自分の作った作品の中で「ダメだ」と感じた作品をその場で地面に叩きつける話はよく耳にします。自分の本意ではない作品が間違って世に出ることを何よりも「恥」と感じるからでしょう。
 音楽の場合、人前で演奏して気に入らないから「今の演奏はなかったことで。忘れてください」って言えません(笑)どんなに演奏者が不満足でも聴いてくださる人の心に残ってしまうのが音楽です。「その場限りの芸術」でもあります。
 自分の理想が聴く人にも理想の演奏だとは限りません。そもそも理想の演奏が出来るようになった!と言う演奏者が存在するのか?と言う疑問があります。私からみてショルの演奏は「神がかった演奏」に感じますが、本人がどう感じているかまったく知りません。
 では演奏は「妥協の産物」なのでしょうか?演奏者の理想には届いていない演奏を、演奏者以外が「理想」と感じる可能性もあることを考えれば「妥協」という言葉は適切ではないと思います。強いて言うなら「演奏者の本質」言い換えれば隠しようのない「人間としての資質」をさらけ出しているような気がします。
 私はアンドレアス・ショルと言う人を「何も知らない」人間です。
生まれ、生い立ち、学歴、経歴、性格などについて一切の「真実」を知りません。それで良いと思っています。評論家はまるで政治家の身体検査(笑)のように演奏家や作曲家の「履歴書」を詳細に知りたがります。演奏する上で役に立つ…と言う考え方も否定はしません。私は「人から聞いた情報」を素直に信じない天邪鬼(笑)です。ベートーヴェンが、ショパンが「どんな人だった」のかを想像するのは個人の自由です。人から聞いたり本人が残した言葉、文章が仮に本物だったとしても心の中まで知ることは不可能です。むしろ本人にとっては「やめて!」と思いたくなることかも知れません。
 例えば私が、あるいは今このブログを読んでくださっている方が誰かに「あの人は〇〇な人らしいよ」「誰かが〇〇な性格だと言っていた」と言う話を聞いて嬉しく感じますか?私は嫌です。中には血を分けた家族にさえ知られたくない「真実」があるかも知れません。
自分の演奏を聴いて「きっと野村謙介は…」と想像して頂くことは光栄なことです。しかしそれは「真実ではない」と言う事を忘れないことです。
 演奏を聴いて感動するのは、もしかしたら?演奏者を知らないからかもしれません。逆のケースもあり得ますが、先述の通りそれは想像でしかありません。つまり演奏を聴く立場の人にとっては「演奏=演奏者」なので、演奏に感動するという事は「理想の演奏者」を偶像として感じていることになります。あくまでも「聴く人にとって」の演奏者の姿です。力強い演奏を聴けば「きっとこの人は」と想像し、優しい印象の演奏をする演奏者は「きっと…」と思うのが人間です。演奏は聴く人に自分を「さらす」ことになるのです。
 演奏者のこだわり・思い・エネルギーは演奏に表れます。聴く人がそれに共感することもあれば「なにか違う」と思われることも「嫌い」と思わえることもあり得ます。それを恐れて隠そうとすれば聴く人には何も伝わらない無機質な「機械的な演奏」になります。
 自分がショルの演奏の真似をしても、誰も感動しないことは分かっています。しかし「分析」することは有意義です。
少しでも理想に近つける演奏を出来るようになりたいと練習しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器を替えて変わること・変わらないこと

映像は昨年(2025年1月)に演奏したサン・サーンス作曲「死の舞踏」このリサイタルで初めてヴァイオリンを新しい楽器に持ち替えました。
 それまで使っていたヴァイオリンは私が中学2年生の時に両親が私に買ってくれた楽器でした。1800年代のはじめにイタリアの職人「サンタ・ジュリアーナ」が製作したヴァイオリンで当時、フィラデルフィアの楽器商「メニック」から輸入されたばかりの楽器でした。
 初めての日本だったらしく購入した翌年の梅雨で表板も裏板も湿度と暑さに耐えられず毎週のように膠が剥がれ、その度に購入した職人さんの工房に通っては直し、また剥がれては直し…泣きたくなる思いでした。
 音楽高校の受験、大学を卒業するまでの間、常に私の「相棒」でもあり「身体の一部」でもありました。そんな楽器との別れは一昨年2024年5月。諸々の事情で弓と共に手放しました。
買い取ってもらった楽器商で手続きを終えた時、次の楽器を手にすることは全く考えていませんでした。『うそ~」と思われるかも知れませんが本当の事です。「他のヴァイオリンは持ってるんですよね?」と楽器商=職人の方に問われて「いえ。弓だけ持ってます」
「ダメです!」と一喝されました(笑)
「なにか特別に気になる楽器はありますか?」と尋ねられたので正直に「新作は難しい=不安だけどオールドはいらない」と言う事と以前に出会ったモダン楽器で印象に残っている製作者の名前を伝えました。「贋作も多くて実際本人も色々な人の名前で楽器を作っていたり危ないことは知っています」と正直にお話ししました。
「そこまでご存知なら」と「実は今、あります」と持ってきてくださったのが映像で演奏しているヴァイオリン=今現在、私が愛用しているヴァイオリンです。製作者や年代については書きません。お許しください。私がそれまで愛用していた楽器の製作年も敢えて書きません。楽器は時代を超え色々な人の手に渡ります。私が使っていたヴァイオリンも誰かの手に渡ります。そして新しく手にしたヴァイオリンも今まで少なくとも一人は誰かが演奏していた楽器です。
使う人の愛着が楽器にあります。手放せば「その先」が気になります。
また以前に使っていた人についても同様に気になるものです。
そのすべてを知ることが演奏者にとって「良い事」ばかりではないことを改めて学びました。前に使っていた人の弾き方や管理が「悪かった」と考えてしまうのは演奏者として恥ずべきことです。どんな楽器でも誰かが最初に使います。そして次の人、さらに次の人に「愛され続け」100年以上の年月、誰かの相棒として活躍するのがヴァイオリンです。楽器の調整は「楽器を壊すこと」と言う言葉もこの楽器を手にするときに職人さんが言われた言葉です。その通りだと思います。
楽器は人間の身体と違って「再生」しません。1ミリでも削れば二度と元には戻りません。作った人の楽器とは別の楽器になります。それが悪いとは言いません。楽器を調整・修理することは大切な事です。人間で言えば「健康診断」に近いものです。検査で病気や骨折が見つかって治療しますが人間には「自然治癒能力」があります。骨折は固定すればある期間で再生し完治します。ではヴァイオリンは?
 以前の楽器のように「膠がはがれる」状態では健康な音は出せません。ヴァイオリンを作る時と同じ手法で表板・裏板と横板を弱い接着力の膠=ニカワで貼り付けて決まった圧力で数日、固定して固着させて元に戻せます。ニカワの接着力が弱いのは「木材が割れるのを防ぐため」なのです。強すぎる接着剤で貼り付けると、湿度で膨張した場合と乾燥で縮んだ時の「差」を逃がす=剥がれることが出来ず、板が割れる結果になります。ここにもヴァイオリンを考えた先人たちの「知恵と技」があります。
 剥がれなら直せますが「割れ」は復元できません。木材の組織が分断してしまったものを、いくら見た目でわからない様に修理しても振動はそれまでと違う伝わり方になります。
 ましてや演奏者の好み、職人のこだわりで楽器を削ることは楽器にとって「二度と元に戻れない」状態にされることです。
「お金を払ったから自分の自由」確かに。「弾きやすいように・良い音が出るようにしただけ」なるほど。
 そのヴァイオリンを自分だけが演奏して終わらせる=燃やす・壊す覚悟があるなら、それでも構わないかも知れません。
 実際にあのストラディバリウスを大量に乾燥室に入れて、すべての楽器の表・裏の板を割ったコレクターが過去に実在しました。本人からすれば「買った自分の自由」です。
 ヴァイオリンを演奏すれば「良い影響」と「劣化」が同時に常に進行します。良い影響は木材が振動しやすくなること。特に正確なピッチで適正な圧力の弦で演奏すればなお一層、楽器はピッチが合った時に大きな振動をするようになります。ストラディバリウスがどれも良い音で演奏できるのは「常に一流の演奏者が演奏しているから」でもあります。
 一方で「劣化」は演奏するために温度と湿度の変化にさらされ、演奏者の汗・呼気で湿度をさらに吸い込み、移動のたびに振動で楽器に負担をかけ続けます。ヴァイオリンは楽器であり「演奏するために作られた」ものです。飾って鑑賞する目的で作られていません。

 ヴァイオリンを持ち替えてもうすぐ2年になります。以前の楽器と50年間お付き合いした事と比べると「序の口」です。
 この間にいくつもの演奏会場で色々な曲を演奏する事ができました。ちなみに一度も調整・修理を必要とするような事はありませんでした。日常の手入れだけで、ニカワの剥がれもなく健康な状態を維持しています。楽器自体が製作されてからまだ100年経っていない「若い楽器」であることも健康な理由の一つです。かと言って新作楽器のような「バラツキ・イレギュラーな変化」もありません。新作楽器の場合にはこれが最も不安な要因です。
 2年間演奏して感じたこと。
・自分の演奏方法を再確認できた
・楽器固有の「聴こえ方の違い」に少しずつ慣れてきた
・楽器の成長=良い影響を感じられる
一方で変わらないのは
・自分の好きな音色
・苦手な奏法(😿)
これは一生かけて試行錯誤することだと覚悟しています。
 楽器を替えれば「音が変わる」のは当たり前です。しかし、自分の求める音・理想の音は変わりません。つまり、しばらく違う楽器を弾けばその楽器で自分の好きな音を出そう!と無意識に演奏方法を変えて行きます。結果、どんな楽器を持っても「自分の好きな音」に向かって変わっていくので楽器の個体差よりも演奏する人の「好み」の音が聴く人に届くことになります。
 私は技術が足りないからか2年経っても、今のヴァイオリンで自分の理想の音を出せません。それは「楽器のせい」ではなく、自分の技術が足りないことが原因です。楽器を変えて「目先の変化」から学ぶこともたくさんあります。今まで生徒さんに本当に多くの「入門用ヴァイオリン」と呼ばれる楽器を選んできました。学校での部活オーケストラに入部して初めてヴァイオリンを購入した数だけ考えても、20年間で200本以上…もっとかな?選定しました。教室を開いてからは、手工品の楽器、新作楽器も含めてやはり200本以上の選定をしました。
 その自分が選んだ楽器は?「ちょうど今ありますよ」と提示された楽器と言う笑い話のような実話です。「本当に?他の楽器は弾かなくても?」という職人さんに「いえ結構です。とても気に入りましたから。と言うより嫌な音ではないし、他の楽器を弾いても迷うだけですから」とお答えしてその日から私の身体の一部になりました。
 楽器は「道具」です。そして必ず「寿命」があります。人間と同じように年を重ねると変化します。使い方、扱い方で楽器の音も寿命の長さも変わります。ヴァイオリンの寿命が人間より長いのは事実です。
ヴァイオリンの「生涯」の中で一時に関わるのが演奏者です。
人間のパートナーとは違います。そのことを考えて、楽器をいたわりながら自分の好きな音を出させてもらおうと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

なぜ?音楽で感情が揺さぶられるのか?

映像はオルガンの独奏によるモーツァルト作曲の「レクイエム」の一部分です。
私たちはなぜ?音楽を聴いた時に悲しみを感じたり喜びを感じるのでしょうか?
人によっては何も感じない人も居て当然かもしれません。聴いたことのない音楽で歌詞もない音楽なのに…。
音楽理論で「長音階・短音階」「長調・短調」「長三和音・短三和音」と言う言葉を学びます。難しい話をしません(笑)要するに「明るい・暗い」の違いだと言えます。もう少し正確に言うならば「明るく=楽しく感じる」か「暗く=悲しく感じる」かの違いです。
音楽に照度=物理的な光の多さ・ルーメンなどの単位で表される数値が表現できるはずはありません。感情の話です。人間の感じる喜怒哀楽です。
人は生まれた時から自分の意志を伝える能力を持っています。言語=言葉を話せなくても乳児が泣くのは「息をする」と言う本能と共に「感情を伝える」本能です。生きるために母親からの母乳を求めるのも本能です。母乳を飲み込む行為、空腹が満たされて満足して安心して眠るのも生きるための本能です。五感の中でも「聴覚=音に対する感覚」が母親の体内で最初に感じる感覚だとも言われています。だからと言ってすべての人間が音を感じるわけではありません。生まれつき聴力のない人もいますし、後天的に聴力を失う人もいます。
 どんな音楽も「音=空気の振動」を使って演奏されます。楽譜は音ではなく文字と同じ「記号」です。音を聴いてすべてを「音楽」には感じません。詩的な比喩で「風のそよぐ音楽」とか「小鳥の歌」などと言われることも文学の世界ではありますが実際に「音楽」と定義されるものではありません。現代音楽と呼ばれるジャンルの中には例えば掃除機の音や、ガラスを引っ掻く不快な音を使って「音楽」を作った…「と」作曲家が定義する「音」もあります。
 人によって喜怒哀楽を感じる「対象」も「強さ」も違います。感受性の違い・経験の違い・性格の違いなど色々な要因が考えられます。
 音楽を生徒に教えるレッスンで「感情を込めて!」って強く言う指導者を見ると「誰の感情だよ!」っと突っ込みたくなります(笑)指導者=先生が感じているものを生徒も感じるとは限りません。「ほら、この旋律、悲しいでしょ?」とか「ここは楽しく感じるよね?」とか。おいおい…それは感情の押し売りでしょ?(笑)同じラーメンを食べて「ね!おいしいでしょ?」って一緒に居る人に同意を求める人の「センスの悪さ」ですね。

 話を音楽を聴いた時に感じる感情に戻します。
音楽の理論を例えると「文法」に似ています。文法を知らなくても会話することが出来ます。音楽の文法に「形容詞」や「現在進行形」はありません。クラシックだけに理論があるわけではありません。ロックにもジャズにも演歌にも共通の「文法」があります。それが音楽理論です。
 難しい話はここまで(笑)
中学校1年生の音楽授業を20年担当しましたが「普通の子供たち」に音楽を聴いてもらい「明るい・暗い」と言う印象を尋ねることがあります。結論を言うと音楽によって回答が大きく変わるのです。
・静かでゆっくりした曲が暗いと思い込んでいる場合
・フォルテでテンポの速い曲は明るいと思い込んでいる場合
本来「長音階・長調・最初と最後が長三和音」の音楽が明るく、逆に「短音階・短調・最初と最後が短三和音」だと暗く感じる「ことになっている」と言うのが定説です。曲全体の音量やテンポは本来は無関係なのですが、演奏を聴いて長調・短調を判別できるのは「学習の結果」です。もちろん理論を学ばなくてもたくさんの音楽を聴くことも「学習」の一部です。

 音楽を学んだ人でも「謎」に感じるのは…
なぜ短調の音楽が悲しく感じ、長調は明るく感じるのか?と言うことです。分析する技術に感覚は不要です。理論とは違うことです。
 恐らく論文などを調べれば「推論」は見つかりますが普通に考えてみれば「謎」ですね。文章=言葉の場合、読む人の経験や記憶の中にある「悲しい体験」と結びついたり連想させる言葉が多ければ悲しく感じます。一方で歌詞のない音楽で具体的な「物」「動き」「状態」を伝えることは不可能です。
 音楽を聴いて想像・連想する「物」「人」「経験」は人によって違います。一つの「曲」に長調と短調が混在する音楽が殆どです。
同じメロディーを和声を付けて長調にしたり短調にすることも可能です。
 味覚に似ていますね。「辛みの中に酸味がある」「甘味の中に塩未が加わると甘味を強く感じる」など良く耳にします。ちなみに「辛み」は「痛み」の一種で本来は味とは言わないそうですが。
 自分の感覚と「理論」でこの曲・この旋律は明るく感じるから、他人も明るく感じるとは限らないという事です。
 音楽は最終的に「人間の感覚」に頼るものです。作曲、演奏、鑑賞。すべて自由に感じ、自由に想像するものです。どんな理論があってもそれは分析の手段・結果です。文法を間違っている文章でも奥ゆかしさや新鮮さを感じる時もあります。「ゆがみ」「ひずみ」「ゆれ」が心地よく感じる場合もあります。人間の感性自体が常に変動するものです。音楽の解釈を他人に押し付ける「偉い人」にはなりたくないと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者の努力と聴く人の期待

映像はサン・サーンス作曲「死の舞踏」昨年1月の演奏です。
今回のテーマは演奏者が聴衆の前で演奏するまでに練習と準備に時間と労力、お金も使って、演奏会でその演奏を聴いた人が持っていた期待に応えることの難しさを考えるものです。趣味の演奏とプロの演奏で異なる面もありますが共通する一面もあります。
「演奏する側」「聴く側」の立場で深堀りしてみたいと思います。

演奏する立場で考えるとお客様に演奏を楽しんで頂くために「おもてなし」の心、謙虚な気持ちが第一に必要です。その上で自分(自分たち)も歓びと達成感、満足感を得られます。
準備する側に「完璧」はありません。「これで良い」と言う妥協点を下げてしまうのは簡単なことです。言い訳を並べれば「仕方ない」の一言で自分を納得させられます。
演奏技術を高めたいと言う「欲望」は演奏者が誰でも持つものです。
しかし「どこまで?」と言う線を引くことは不可能です。自分が納得できるまで人前で演奏しない!と心に決めたとすれば、私なら死ぬまで人前で演奏することはないだろうと思います。最終的に到達したレベル・満足度で人前に立ち、演奏することになるのはプロもアマチュアも同じです。だからこそ少しでも努力して「良い演奏」を目指すことになります。

「聴く側の立場」で考えてみます。
演奏会に足を運びコンサートによっては「入場料・チケット代金」を支払って演奏が始まるのを待ちます。
偶然に会場の前を通りかかってコンサートを聴く…そんな確率はゼロに近いものです。多くの人は予めコンサートの日時や場所、演奏者、曲目などを知った上でコンサート会場に行きます。
良く知っている知人・友人が演奏するコンサートもあれば、情報を見て演奏する人の経歴や容姿だけで決める場合もあります。曲目に魅力があって「行こう!」と思う時もあればまったく知らない曲でも聴いてみようかな?という興味と演奏者の魅力が組み合わされてコンサートに行く場合もあります。
 つまり殆どの場合は演奏者か曲目への関心や興味が決め手になり、その先に「演奏への期待」が続くものです。もちろん演奏にまったく期待しないでわざわざ演奏会に行く場合は「お付き合い」の場合で、自分で交通費とチケット代金を払ってまで期待しないコンサートには行かないものです。
 演奏が始まって自分の予想していたよりも演奏が「気に入る」場合と「面白くない・楽しめない」場合があります。期待する内容によりますが例えば自分の好きな演奏に感じたり、初めて聴く曲に感動したり「期待を超える楽しさ・歓び・感動」があれば交通費もチケット代金も無駄になったという気持ちは感じないでしょう。
反対に「期待を下回る・裏切る」内容の演奏や曲=音楽だった場合、後味の悪い時間を終えて帰ることになります。ショックが大きければ「二度と〇〇のコンサートなんかに行くものか!」と言う怒りに似た気持ちさえ持っても不思議ではありません。

 演奏する側は「準備」が必要です。聴く側にはまったく必要のないことです。むしろ聴く人が演奏者を知らなくても、演奏する曲を聴いたことがなくても、聴いて感動したり楽しめれば良いのです。
 演奏会に期待する内容は聴く人によって違います。中には「生の演奏者を見ること」が目的で会場に行く人もいるでしょう。また「好きな曲」だからと期待してコンサートに行く人もいます。漠然と「ヴァイオリンの音が好き」だとか「クラシックが好き」と言う人もいます。
すべての聴衆の期待に完全に応えることは不可能です。「好み」が人によって違うのですから当然です。同じ演奏でも感動する人もいれば途中で寝落ちする人もいます。「早く終わって!」と思う人もいるかも知れません。それが現実です。
 演奏技術のレベルが高いのか?普通なのか?ヘタなのか?分からなくて当然です。「分かった振り」で語るオタク様にとって「分からない人」は恰好の餌食です(笑)御託を聴かされる側には迷惑でしかないことに本人は気付きませんが(笑)
 技術の有無が分からなくても、作曲者の歴史や名前を知らなくても、演奏者を知らなくても「楽しめれば価値がある」ことなのです。
コンサートはコンクールではありません。演奏者のファン・知り合いだけの「内輪のイベント」なら一般の人に公開するべきではありません。同様に演奏する曲を初めて聴く人やクラシック音楽を普段聞かない人が萎縮するコンサート=マニアのためのコンサートなら「マニア向けです。曲を知らない人は入場できません」と告知すべきです。
 誰にも何事もに「初めて」があります。初めてのクラシック音楽のコンサートで「嫌な思い」をした人がまたコンサートに行くと思いますか?「そんな人は放置すればいい」と思いあがる人に言って差し上げたい。「生まれつき音楽が好きな人間なんて地球上には誰もいませんが?」と言う事実を。すべては「偶然」の積み重ねでしかありません。
 演奏する側も、聴く側も「偶然の出逢い」なのです。聴く側の「期待」と演奏する側の「不安」が終演後に全員が「満足」「喜び」に変わるコンサートが理想です。現実にはなかなか(笑)それでも「次に期待」したり「次に向けて努力」する事が続くのは、少なからず期待に応えてくれた満足感と、それを感じられた演奏者の嬉しさがあるからだと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

アンサンブル=合わせる技術と練習

映像はピアソラの作曲したアヴェ・マリア。今年の1月の演奏です。
今回のテーマは誰かと一緒に演奏する=アンサンブルで必要になる技術とその練習方法・時間についての内容です。
 ピアノは1台の楽器を一人で演奏しても音楽を完成させられる「楽譜」が多く、他の人と一緒に演奏しなくても成立する楽器とも言えます。
 一方ヴァイオリンの場合にはほとんどの楽譜=作曲された曲が誰かと一緒に演奏して音楽が完成します。例外的に特殊な曲として「無伴奏ヴァイオリンソナタ」「無伴奏ヴァイオリンパルティータ」をJ.S.バッハが作曲し、他にも数名の作曲家が作品を書き残しています。
 ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロ・コントラバスは4本(コントラバスは一部5本)の弦で単音または二つの音を同時に演奏できます。瞬間的なら3本の弦を鳴らすことも可能ではありますがあまり美しいとは言えない音です。
 フルートやトランペットなどの管楽器の殆どは単音で演奏することが基本で特殊な演奏技法で重音を演奏できますがこれも「特殊な音」になります。
 打楽器の場合、音の高さを設定できる楽器=ドレミを設定できる楽器とシンバルや大太鼓のように「ピッチ」の変更に時間がかかる・あるいは楽器を持ち替える必要がある楽器に分類できます。
 声楽は管楽器と同じで「単音」で歌う事が原則です。
上記のような楽器の特性を踏まえて「アンサンブル」を考えます。

 アンサンブルで重要な四つの要素「音の高さ」「音の長さとタイミング」「音の大きさ」「音色」もちろん一人で演奏する場合でも同じように重要ですが一人の場合には他人とのピッチの「ずれ」を気にする必要はありません。また一人なら好きなように音を長くしたり=遅くしたり、短くしたり=速くしたりしても誰も困りません。音の大きさのバランスも考える必要はなく、音色も自分の音だけを考えれば良いことになります。
 1.音の高さ=ピッチを自由に変えられない楽器の代表として「ピアノ」があります。調律師の方が合わせたピッチに他の演奏者が「合わせる」必要があります。
弦楽器や管楽器だけでアンサンブルを行う場合にはお互いのピッチにお互いが合わせる技術を「全員が持っている」ことが必要になります。誰か一人でも技術が足りなければ全員のピッチが揃う事はあり得ません。50人のオーケストラで一人だけが「微妙にピッチが悪い」状態の演奏は聴いていて「何か?おかしい」と感じますが誰が?と言う特定は非常に困難です。
 2.音の長さとタイミング。これはリズムだけではなく「音を同時に出す・止める」事は一緒に演奏するすべての人に必要な技術です。人数が増えるほど困難になるため「指揮者」が重要な役割を果たします。演奏者全員が指揮者に合わせる技術を持っていなければ無意味ですが。
 音を同時に出す・止める=切るために必要な技術「も」あります。身体の動きや楽器の動きを使う場合もあります。「息」を吸う音を使う場合もあります。「も」と書いたのは技術とも言えない「気配」をお互いに感じる場合です。正確に言えば「相手=一緒に演奏する人が音を出す・止めるタイミングをその前に予想=想像する」ことです。
「第六感」と言えるかも知れません。相手が次に「いつ」音を出すか?止めるか?を予測できるのは「相手を信頼している」ことと「相手の音楽の特徴(時には癖と言われるものも)を知っている」事が前提になります。家族や友人の中で本当に親しい関係の人同士は、言葉にしなくても相手の気持ちを察することが出来る場合があります。他の人と違う「相手への思い」がある関係です。恋愛感情とは限りません。友情や師弟関係の中でもあり得ます。

「慣れの問題=練習時間・回数の問題」も無関係ではありません。
プロの場合には演奏する音楽のジャンルや曲の長さや難易度によっても異なりますが「数回の合わせ」で仕上げることが殆どです。一つには「コスト」の問題です。人数が多くなれば日程を合わせるための困難さだけでなく、それぞれの「時給」が発生することになります。
少ない回数・時間で音楽を仕上げるための「個人技術のレベル」によって仕上がりが変わります。演奏者全員が「同じレベルの技術」を持っている事も前提条件だと思います。
アマチュアの場合には何よりも「コスト」は度外視できます。もちろんプロの演奏者や指揮者を呼び「謝金=ギャランティ」を支払う場合には限度があります。アマチュア同士の練習にかかるコストはお互いに公平に負担するのが通常です。会場費なども「割り勘」です。アマチュアの演奏者が納得‥あるいは「妥協」(笑)出来るレベルで合わせる練習は終了します。これがプロとアマチュアの一番の違いです。

 私と浩子さんの場合もアンサンブル演奏をしていると言う意味では他の演奏家の方々と変わりません。二人とも音楽高校と音楽大学で共に学び卒業後に「職業音楽家」としてそれぞれが活動していました。
偶然の巡り合わせで数十年ぶりに再会。学生時代にアンサンブル(ピアノトリオ)でレッスンを受けていましたがそれ以来のアンサンブルでした。二人でデュオリサイタルを初めて開催したのが2008年でした。2026年の今年、18回目(18年目)のコンサートを開きましたが、たくさんの曲を色々な場所・環境で演奏して来ました。
「夫婦」と言う間柄でもお互いが演奏をする夫婦は多くはありませんが、私たちの仲間にも何組かの「演奏家・音楽家夫妻」がおられます。素敵な演奏を聴かせて頂いたこともあります。
 同じ屋根の下で二人と「ぷりん=女の子にゃんこ」と暮らし、好きな時に好きなだけ練習する事が出来る恵まれた環境です。
「プロだから・アマチュアだから」と言う固定観念は持っていません。自分たちの演奏を自分たちが楽しみ、それを聴いてくださる方にも楽しんで頂ける音楽活動。それが私たちの日常です。
 これからも「アンサンブル」の楽しさを一人でも多くの方にお伝えできればと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

生き方は弾き方

 映像はケーブルテレビ局「武蔵野三鷹テレビ」の取材を受けた際(2020年)の映像です。
1960年=昭和35年9月生まれの私が60歳(当時)でした。高齢者施設で演奏したときに利用者の素敵なおばあちゃまに「お二人はご夫婦ですって?まぁ!年の差婚ね!」にこやかに言われましたが(笑)敢えて突っ込みません。
 今回のテーマは音楽を「創る・演奏する」事と人間が日々「生きる・体験する・感じる」事の関りを考える内容です。お付き合いください。

作曲家が亡くなった後には「楽譜」が残されます。その作品は作曲家が残した音楽です。
一方で演奏家が没後に残せるものは「録音物」です。実際に人前で演奏する行為だけが演奏だとは言い切れません。演奏する「姿」が映像として残せる時代になってから多くの先人演奏家の演奏する映像を見られるのは科学・文明の進歩のおかげです。
指導者・教育者が後の世に残すのは「人材」です。どんなに優れた楽譜が残されていても、演奏する人を育てる人がいなければ「独学」ですべての知識や技術を身に付けるしかありません。現代ならインターネトや録音・録画の記録、書籍などから知識や情報を得られますが「人間から学ぶ」事とは次元が違うものです。
 すべての音楽家にとって「生きた証」がその人の音楽だと言えます。

 人間は全員が「人と違う生き方」をします。似たような生き方をする人がいたとしても必ずどこかが違います。自然なことです。
 生まれた環境が同じ場合=例えば双子など‥でも、育つ間に異なった環境に出会います。
音楽に出逢い、関りを持ち始める「きっかけ」も人によって全く違います。冒頭の動画の中でもその話題から始まっています。
 きっかけがはっきりしなくても、生きているどこかの時期からそれまでと違う「音楽との関り」が始まっています。
「音楽を生活の糧にする」つまり職業として音楽と関わりを持つ年齢も様々です。一般的には社会に出て独立した生計を立てる年齢で「職業音楽家」になりますが、子供の頃からプロとして活動する人も世界的に見ても珍しい事ではありません。例えば7歳でプロオーケストラと共演したり有名なホールでコンサートを開催する「子供」もいます。当然そこには大人が絡んでいますし「お金」も大人が管理することになります。
 音楽を専門的に学ぶ学校を卒業してプロの音楽を目指す人もいれば一般の4年制大学で音楽以外の学問を学んでからプロになる人も意外なほど多いのが現実です。
 音楽を学ぶだけの生活‥毎日8時間練習する人の場合、起きてから寝るまでの時間で3回の食事以外の殆どの時間を練習に使っていることになります。友達と遊んだり本を読んだり、テレビを見たり時には家族で旅行したり‥そんなごく普通の生活をしながら子供は多くの事を体験し学びます。「勉強」だけではない学びです。他人とのコミュニケーションを学び社会のルールを学び「常識」と言われる事も身に付けていく生活の中で人は成長します。
 子供の頃、特に多感な時期に経験し学んだことは年齢を重ねてから表に現れることが多く感じます。学校であっても会社や企業などの組織でも徐々に自分より若い人と共同で作業することが増えます。
そんな時に無意識に「人との接し方・言葉遣いの違い」が出てきます。他人への配慮が欠けていたり年下の人や「部下」と言われる立場の人に対して高圧的な態度を取る人は、幼い頃からどこか?間違った価値観を植え付けられた人だと思います。
「年功序列」「能力主義」色々な場面で他人とかかわりを持ちます。
音楽を他人と演奏する時に相手をパートナーとして考えられるのはお互いにとって素晴らしいことです。相手を知らず、お互いに他人行儀な関係や「無意味な上下関係」で演奏する場合も多いのが現実です。
動画内で話している通り、私自身はどんな人と演奏する時も「相手を敬う気持ち」を持つことが何よりも大切だと思っています。もちろん「教える側と習う側」の関係性の場合には少し違う意識を持ちます。
しかしアンサンブル‥オーケストラであっても二重奏であっても「対等な関係」の中でこそお互いの音楽に同期し同じ音楽を創ることが出来ると信じています。高圧的な人「カリスマ」と呼ばれる人を中心にした演奏を聴くと「支配する人される人」に感じます。
 どんなに優れた技術を持っている演奏者・音楽家でも同じ人間です。癖もあれば短所もあります。完全無欠な人間は地球上に一人もいません。お互いに欠点を持ち、個性を持っています。認め合って初めて「共感」出来るはずです。

音楽は創造的な活動です。たとえ趣味でも変わりません。
人間の想像力があって初めて成立するのが音楽だと思います。
聴く人が楽しめる音楽を創造し提供することは決して特別な事ではありません。コンビニに並ぶ商品を作る人・運ぶ人・並べる人・売る人すべてが他人の歓びのために生きています。身の回りにあるすべての物や「事」は自分以外の誰かが作ってくれたものです。誰がどこでどうやって作ったものか?誰が運んでくれたものか?それを想像する力があれば「差別的思想」「排他主義」「愛国主義」がいかに愚かな事か理解できるはずです。自分・自分たちだけで生きていくとこは不可能な現代に音楽も同様に「他人があっての音楽」なのです。
 生きること、そのものが音楽なのかもしれません。どんな音楽にも人間が関わっています。演奏者、作曲者が生きていたから生まれた音楽です。聴いてくれる人が喜んでくれるから演奏して嬉しいのです。
 これからも「命」を大切にしながら音楽と共に生きていきたいと願っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介