メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

     

メリーミュージック

   

2004年創業バイオリン教室・ピアノ教室・ビオラ教室・楽器店です
神奈川県相模原市緑区原宿南2-26-1

ヴァイオリンの「子音」と「母音」

 映像はシェリングのロンド。私の世代だと「バッハ無伴奏と言えばシェリング」だったので(私だけ?)試験でバッハの無伴奏ソナタかパルティータを弾く前にシェリングのバッハ全曲集のレコードをカセットに録音してテープが伸びまで(笑)聴いていました。
 今回のテーマはヴァイオリンを演奏する際の一音ごとの「発音」を考えるものです。
日本語は会話の殆どが「母音」か「子音&母音」で出来ています。小さい「っ」や小さい「や行」さらに「長音」の組み合わせで成り立っています。アクセントよりも「音」で意味が伝わる言葉が多いのも特徴です。例外として「あめ」などの場合「雨」と「飴」はアクセントの位置が違います。文字の場合はひらがなで「あめ」と書いてあった場合には、前後の文字から意味を探ります。

 さてヴァイオリンで演奏する場合「スラーの二つ目以降の発音」と「スラーの最初の音や弓を返した時の発音」で子音の作り方が違います。
スラー=レガートで二つの音を演奏する場合、2音目は前の音の「続き」として切れ目なく音の高さを変えることになります。通常であればレガートは「弓を止めないで演奏する」ことを指します。2音目で「移弦」した場合でも2音目の「発音=子音」は弓を返したときの発音と違い「アタックを付けない」事が一般的なレガートになります。
 分かりにくいので「スラーではない場合」つまり一音ずつのアタック=子音を付ける倍を考えてみます。言葉で言うと「ぱぴぷぺぽ」と言う言葉を発音する時に「P」の部分、声を出す前に唇を閉じた状態から開く瞬間の音と母音を使って「ぱ」と発音します。「P」を「B」や「V」にすると「ば」「ヴァ」に変わります。
子音として「K」「G」「S」「Z」「T」「D」「N」「H」「P」「V」「M」「Y」「R」[W」が日本語の発音に使われます。
それぞれに発音の仕方があることを私たちは余り意識せずに会話しています。例ええば「はは」「ぱぱ」「ばば」と言う時に、唇をどうすると…なんて考えずに発音していますよね。
 ヴァイオリンでは?「ドレミ」と言う音名で歌う時には、それぞれの子音と母音を使って歌えます。歌詞が「ア」だけの歌「ヴォカリーズ」を演奏する時に音の変わり目にアタックが付けば「ア」ではなく「タ」とか「パ」になり、強いアタックが付けば「ダ」や「バ」、もっと深く重たいアタックなら「ガ」になります。意図的にアタックを消し「無声音」を含めた発音を意識すれば「ハ」に聞こえる…
 もちろん実際に「ハ」と聞こえるわけはありません。自分の言いたい「子音」の出し方を弓と左手の指を使ってコントロールします。
 話が前後しますがスラーの2音目以降の場合には弓のアタックを付けられません。しかし左手の指の上げ下げ=離す・押さえる時の変化でクリアに音の変わり目を表すことも、わざと曖昧にすることもできます。

 動画のシェリングの音をよく聞いてみると細かい音も少し長い音もフォルテ、ピアノに関わらず全体が「引っ掻けない=アタックの弱い」発音で演奏している事に気が付きます。
 弓への圧力をかけたままで発音すれば「タタタタ」と言う音に聴こえますがシェリングの音は差し詰め「ララララ」か「ヤヤヤヤ」と言った音が多く聴こえます。
 この曲のように短い音が連続する曲をヴァイオリンで演奏する時、一つ一つの音を明瞭に発音させて「角を付けた音」にする場合、弓の毛を弦に乗せた状態で圧力を加え動かす➡圧力を緩めずに次の音も同様に圧力をかけたままで発音することの繰り返しで「タタタタ」と言う言葉に聴こえる演奏することが一般的です。
分かりやすい例の動画です。

バッハ無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番プレリュード パールマンの演奏

同じ曲をもう一つ

バッハ プレリュード グリュミオーの演奏

 二つ目の動画、アルトゥール・グリュミオーはピアノの部分になると圧力を弱めてアタックを付けない発音に変えています。
 言うまでもないことですが二人とも「こだわり」があってこうしている事は間違いありません。偶然…とか、なんとなく…と言う発音が一つも見つかりません。物凄い集中力です。感服します。

 人間の言葉で音楽を表現できるのは「歌」だけです。ピアノもヴァイオリンも管楽器も打楽器も「言葉」を発することはできません。
 私たちが日常生活で耳にする音=聴こえる音は様々ですが、人との会話だけは「意味」を聞き取ろうとしています。それほど「言葉」と言う音は特別なのです。楽器の音が聴こえた時に楽器の種類を考えるのは演奏家なら「当たり前」かも知れませんが、普通の人は「音楽」で終わるのだと思います。
 聴く前から「ヴァイオリンとピアノ」と分かっている場合、例えばコンサート会場で聴く場合であれば、聴こえてくる音の中でピアノとヴァイオリンの「聴き分け」は恐らく多くの人が出来ると思います。しかし弦楽四重奏の場合なら、二人のヴァイオリン奏者の「聴き分け」をすることは非常に困難…むしろ不可能かもしれません。見ていれば分かりますし明らかに二人の音色や音量が違えば聴き分けられますがそれは特殊な場合です。
 ヴァイオリンで発音を変えることで「意味」が生まれるわけではありません。どんな発音が正しいと言う正解もありません。
 演奏する人の「個性」が一音ずつのアタックやアタックの後の「母音」に当たる音の音色を変えることで生まれます。
 アタックのない「はひふへほ」も柔らかい発音の「まみむめも」、少し固いアタックの「た」「か」、破裂音に近い鋭い発音の「ば」「ぱ」など、ヴァイオリンの発音をコントロールすることで音楽に「色付け」をする楽しさがあります。ぜひ、自分のヴァイオリンの音を聴いて「子音」を考えてみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音から指使いを探る

 映像はイツァーク・パールマンが演奏するパラディスのシシリエンヌ。
初めてこの演奏を聴いてどうしても演奏したくなり楽譜を入手。楽譜に記されていた指使いやボウイングもありましたが、どうしてもパールマンの演奏を「真似」したかったので、ヘッドホンで演奏を何十回も聴きながら楽譜に指使いやスラーを書き込みました。
 今回のテーマ「音から探る」と言う内容はただ単に指使いを「真似する」目的ではなく自分の演奏の「土台」になる演奏を作るために他人の演奏を聴くことの重要性を考えるものです。

レッスンで「他の演奏を真似しない」事を先生から言われた経験のある人は多いのではないでしょうか?私自身は師匠から言われていませんが、学生時代に先輩たちから言われた記憶があります。自分より上手だと思う人の演奏を真似できるなら苦労しないわけですが(笑)
「芸は盗め」という言葉があります。伝統芸能で「習う」「教わる」と言う概念は通用しない。先人の芸を限界まで観察して自分で試すことの繰り返しで身に付けるのが本質だと言う考え方だと思います。
演奏の世界でも同じことは言えないでしょうか?師匠からの言葉や文字から得た知識は確かに重要です。自分が気付いていない課題を指摘してくれるのも師匠があってのことです。しかし言葉で習ったことは「言葉」として記憶される情報です。自分の耳と目で得た感覚は言葉とは違う記憶になります。そして何よりも自分の力で「技を盗む」努力が自分の演奏に生きてきます。音を聴いて「どうやって?この音を出しているんだろう?」と何度も聴いて観察・想像することは自分でしか出来ません。誰かに教えてもらうより遥かに時間も労力も必要です。以前のブログで登場したジャズヴァイオリニスト「ステファン・グラッペリ」は独学でヴァイオリンの演奏をスタートしプロになったヴァイオリニストです。もしかすると誰かにアドヴァイスを受けた事もあるかも知れませんが、もしそれが重要な事だったとしたら自身が経歴として書くはずですね。独学ではうまくならないと言うのが間違った定説だと証明しています。

 インターネットの普及で演奏技術に関する情報や演奏している動画を気軽にみられる時代です。「チュートリアル動画」があふれています。素晴らしいヴァイオリニストの演奏動画も無料で視聴できる上に再生速度をゆっくりにしてもピッチは維持されています。さらに画面の一部を拡大することも簡単に出来ます。本当に便利な時代です。
 一方で安直に情報を得られるために忘れられていることも多いのが現実です。「演奏を聴いて学ぶ努力」はその一つです。違う言い方をすれば考える時間が減っていると言えます。マジックの「タネ」をすぐに知ることができるとしたら?きっと楽しみが減りますよね?
自分で考えて自分の演奏を作る時間が「もったいない」でしょうか?
誰かに技術を教えてもらってその人の真似をする人と、自分で考えて迷いながら自分独自の演奏をする人がいます。効率を考えれば「教えてもらう」方が圧倒的に短期間で仕上がります。しかし迷いながら手探りで音楽を作る作業や、誰かの演奏を何度も聴いて観察する時間は決して無駄だとは思いません。
 私の持論ですが演奏家の評価はその演奏家の「最後の演奏」に集約されていると考えています。世界的に高い評価を受けた「今は亡き」演奏者たちすべてに若い頃の演奏があります。公開されていない演奏が殆どですが絶対にあります。当たり前ですが(笑)年齢と共に演奏が成熟し高齢になると「味わい」が感じられます。「枯れた演奏」と評されることもあります。人によっては最晩年は身体の自由が利かなくなる、聴覚も反応が下がった結果として若い時より演奏技術が下がることもあります。それも「歴史」の一つです。その演奏者だけが出来る演奏は「技術だけ」で語るべきものではありません。
 若い人の演奏は「成長の過程」での演奏です。どんなに演奏技術が高くても、10年20年30年と言う年月を経て「人として」経験を重ねる中で変化していく演奏が残せるか?独自の演奏が出来るようになったか?こそが演奏家の評価だと思います。

 レトルト食品のように手軽に短時間で仕上がる演奏が必要な場合もあるかも知れません。自分で味を確かめながら納得のいく味の料理を仕上げるように「音楽」を仕上げる技術は習えるものではありません。まさに自分だけの感覚で1回の演奏に到達するまでのプロセスを大切にしたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

いくらのヴァイオリンを購入する?

 今回のテーマは特にこれからヴァイオリンを購入する予定の方や、買い替えを検討している方の参考になればと思う内容です。あくまでも私個人の考えであって「これが正しい」と言うものではないことをご理解の上でお読みください。
 ヴァイオリンは当たり前ですが「楽器」です。楽器は演奏する人にとって「音を出すための道具」です。美術品や骨董品ではありません。演奏する人が自分で選び、自分の好きな音を出せるように練習することで楽器の価値が生まれます。
 まず楽器には「妥当な取引価格」があることを考えてみます。
同じ種類の楽器でも大量生産できる楽器は安く作れます。作られた楽器はいくつもの中間取引を経て最終的に販売されます。それぞれの段階で「卸値」があることも理解できると思います。
 さらに通常の楽器であれば「新品未使用」のものが一番高額で「中古品」は新品よりも安価で取引されます。通常購入できる殆どの楽器はこの原理で取引されます。ヴァイオリンも例外ではありません。
「ヴァイオリンは古い方が高くて良い」と言うのは間違いです。いや『嘘」と言っても過言ではありません。これは一部のヴァイオリン…例えばストラディバリやグヮルネリ、ヴィヨームなどの製作者が製作した「鑑定書」が付いている楽器だけが「例外」だという事です。しかも困ったことにストラディバリウスの「原価」は今や無意味なものになってしまったことです。長年の取引を重ねる間に価格が爆発的に高くなっているのですが、実際には購入した人・団体が「転売」して利益をあげているのは事実です。投資目的で楽器をオークションで落札し、さらに高額で売却する事は「当たり前」になっています。
 こうした特殊な取引に関わらないなら「新品未使用」が最も安心して購入できることになります。
何故なら製作者・工房が今現在も製作を続けているなら「妥当な取引価格」をすぐに調べられるからです。ネット全盛の現代、製作者本人に直接メールなどで連絡することも可能です。また世界中の取引価格もすぐに調べられます。一部の「有名な」製作者のヴァイオリンは異常に高い金額で取引される場合がありますが、この話は後ほど。

 さてヴァイオリンを購入するとしたら「どこで」「どうやって」楽器を選びますか?
前提条件として「自分で弦を張り替えられる=調弦が出来るか?」ことが分岐点になります。
何故ならこの段階を超えないと自分で楽器を演奏して「音色」を確認できないからです。
いわゆる「初めてのヴァイオリン」レベルです。このレベルなら最初だけでもレッスンに通う事をお勧めします。それが難しいのであれば弦を張替えられるレベルの人を探して楽器を選ぶことです。
いずれの場合にでも正しい扱い方は最低限知識として持っていないと、せっかく購入したヴァイオリンを二度と使えないゴミにしてしまうリスクがあります。持ってはいけない場所や絶対に守らなければいけないことだけは覚えましょう。
 ネットで購入できる「激安ヴァイオリンセット」の中には駒も弦も張られていない状態で販売されているものがあります。本来は「あり得ない」ことです。何故なら「魂柱」がヴァイオリン本体の中で自立していられないはずだからです。輸送中に魂柱が倒れないために弦を張り駒を立てた状態にすることを知らない販売者は「ヴァイオリンを知らない」人です。明らかに危険です。
 既にすぐに演奏できる状態のヴァイオリンセットを探すにもネットは不安です。「ヴァイオリン専門店」やヴァイオリン工房がネットで販売する場合にはある程度の状態にして販売しているようですが、使う側=購入者の知識によっては「相場以上に高い楽器」や「店頭では売れない楽器」にあたる場合もあります。
 少なくともヴァイオリンを演奏できる人=調弦の出来る人と一緒に楽器店で選ぶことを強くお勧めします。もちろんレッスンで習う先生の斡旋も「信頼関係」があれば問題ありません。指導者がコロコロ変わる教室の場合には要注意です。
 前段で書きましたが通常の楽器は「使えば価値が下がる」ものです。仮に未使用の状態であっても購入した金額で楽器を買い取ってくれる楽器店はまず「ない」のが現実です。「そんなバカな!」と思うかもしれませんが社会人なら理解できるはずです。売価には販売店の利益が含まれていますから、その金額で楽器店がヴァイオリンを買い取れるはずがありません。当然です。
 楽器を購入したお店での「販売時と同じ金額で下取りします」という言葉には裏があります。
「当店でもっと高い楽器に買い替える場合に限って」と言う条件がついています。つまり新しい楽器の販売価格に下取り楽器の「損益分」を加算して売るのです。例えば新品で15万円のセットを購入。未使用か未使用に近い状態で購入した楽器店で30万円の楽器に買い替えるとします。
それぞれの販売価格には楽器店の利益が乗っています。15万円で販売した楽器の「粗利」が仮に5万円だとすれば同じ金額で買い取った場合、楽器店は5万円分の損が発生します。「また売ればいいじゃないか」と思われるかも知れませんが、「新品未使用」でない楽器を「新品」ととして売れば「詐欺行為」になります。さらに厳密に言えば「古物商」の免許も必要で当然ですが新品の価格で買い取ることはできません。
 30万円の楽器に10万円の粗利が含まれいるなら、先ほどの損「5万円」を差し引いた5万円だけが利益になります。と簡単そうですがヴァイオリンを1セット販売するための「コスト」を考えると楽器店は極力下取りをしたくないのです。
 結論。購入したヴァイオリンを買い取ってもらうことは計算に入れないことです。
個人的に知り合いや友人にいくらかで譲渡した場合、無料であればまず問題はないと思いますがいくらかでも「お金」を貰うのは絶対に避けるべきです。トラブルの原因になるリスクが高く人間関係を壊すことにもなりかねません。購入した楽器は自分の手元に最後まで残る・残すものだと言う覚悟で楽器を購入すべきです。

 最後に「妥当な価格」について書きます。ヴァイオリンの価格には実は2種類あります。
1.製作したメーカーが定価か希望販売価格を示している場合。
2.上記1以外の「自由設定価格」
ちなみにストラディバリウスが「2」の代表です。ヴァイオリン製造メーカーは世界中に数多くあります。日本にも「SUZUKI」と言う老舗のヴァイオリンメーカーがありますが、昔のような勢いは感じられません。ブルガリアやルーマニア、ドイツ、フランスにもメーカーがが存在しますが残念なことに実際には最後の組み立て・仕上げ過程だけをその国で行っているケースも多いのが現実です。どの国に「下請け作業」を依頼しているか?多くはベトナムや中国です。ちなみに中国にも高い技術を持ったメーカーがいくつもあります。偏見さえ持たなければ楽器のクォリティーはイタリアの新作と比べても劣らないものも安く手に入ります。ただ昨今の円安で中国制のヴァイオリンも日本に入って来なくなりました。
 20年ほど前までは「ヴァイオリン本体・弓・ケース・肩当て・松脂」セットで30万円と言う価格が最も多く売れる価格でした。さらに遡って私が中学・高校部活オーケストラの指導をしていた30~40年前までは同じようなセットで15万円の物を生徒の家庭にお勧めしていました。私が選定したヴァイオリンだけで恐らく200丁以上のヴァイオリンセットが生徒たちの手元に行きました。
今でもその楽器を愛用して演奏している「元生徒=現在は…(笑)」も珍しくありません。

 長いブログを最後までお読みいただきありがとうございます。
楽器を選ぶための「動画」がYouTube上に溢れています。
気を付けるのは「音」に注目しないことです。実際に本人が演奏して聞こえる音とは無関係だと考えて間違いありません。プロが「素晴らしい」と言ってもそれは「個人の感想」です。

実際に自分の耳で確かめることが何よりも大切です。動画の「弾き比べ」も正直に言って何がしたいのか?理解できません。本人には感じられてもマイク・スピーカーを通して伝わる音は「別物」なのです。
 ヴァイオリン、楽しみましょう!

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

同じヴァイオリンでも

 映像はフランスのヴァイオリニスト「ステファン・グラッペリ」の演奏。
1997年に89歳で他界。数多くのレコードを残しています。メニューインやヨーヨー・マとの共演は「クラシックとのフュージョン」として話題になりました。
 あえて「ジャズヴァイオリニスト」としませんでした。演奏する曲、ジャンルで肩書きを付けることに抵抗を感じます。ピアニストのばあい「ジャズピアノにスト」と「ピアニスト」とあった場合に後者は「クラシック音楽のピアニスト」を指す事が一般的かも知れません。
 ヴァイオリンの「技法=テクニック」で見たグラッペリの特徴を考えるより「演奏の自由度」がクラシック音楽の楽譜を演奏するヴァイオリニストと明らかに…完全に違います。
 グラッペリが楽譜に従ってクラシック音楽を演奏していたか?出来たか?好きだったのか?それは本人にしか分からないことかも知れません。

上の動画はメニューインとグラッペリの演奏。右のスピーカー(ヘッドホン)から聞こえるのがグラッペリ、中央に定位=両方のスピーカーから聞こえるのがメニューインの音だと思われます。
 グラッペリはメニューインに気を使いながら「ある程度」旋律を崩さないことに主眼を置きながら、それでも自由に即興(と思われる)的な音を加えながら演奏しています。一方メニューインは「予め決めた通りに」きちんと(笑)演奏している気がします。当たり前ですが「どちらが良い」と言うものでもなく、私は二人の音=どちらも大好きです。違いはあります。楽器の個性などよりも「根本の違い」だと思います。

 とても乱暴な表現ですが「なんちゃってジャスヴァイオリン」言い方を変えれば「ジャズ風に演奏するクラシックヴァイオリン奏者」がいます。私自身、過去に「枯れ葉」や日本のPOPSをヴァイオリンやヴィオラでピアノと演奏した際に「なんちゃって」に挑戦して自爆しました。黒歴史の一つです。
 私自身、ジャズの勉強をしていないし経験もほぼ「ゼロ」なので間違っているかもしれませんが、ジャズの演奏に際して独特の「約束」と「セオリー」「理論」があると感じています。もっと言えば演奏者自身が作曲家の知識・技術を併せ持ち、演奏しながら即興で音楽を作る能力を持っている「と思います」(笑)本当に自信がないので保険をかけました。すみません。
 ジャズを専門的に演奏している方の「クラシック音楽演奏」の中に、どこか違和感を感じる事があります。先入観もあるのは否めませんが楽譜の通り「ではある」のですが正直に言って不自然でクラシックの「負のイメージ=楽譜通りに弾かないといけない」事に縛られて窮屈そうに演奏している印象を受けました。何よりも「慣れていない」ことが原因なのか音も美しくなく感じました。

 グラッペリの演奏を「自己流」と言う人がいますがクラシックのヴァイオリニストも最終的には自己流の演奏方法になるので同じことです。ピッチの正確さはメニューインと何ら変わりません。クラシックでヴァイオリンコンチェルトの独奏をする「演奏技法」と違うのは、無理に大きな音量を出そうとしないことです。音色の変化と「より弱い音」への変化量と変化速度の速さでオーケストラに「負けない音量」を無理に出そうとするヴァイオリンより遥かに自然な弾き方に感じます。
 グリッサンド、ポルタメント、ハーモニクス=フラジオレット、それらの演奏技術はクラシックと変わりませんが、ごく自然に混在させるため、特別な事をしているように感じません。実はとんでもなく難しかったりしますが(涙)

 ヴァイオリンに求める音の違いがあります。それはジャズだから・クラシックだからと言う違いではなく「演奏者が求める音」の違いです。「派手な音」「目立つ音」「大きく感じる音」を出したい人がいれば、「音量よりも音色の多彩さ」「柔らかさ」「太さ」を求めるヴァイオリン奏者もいます。
 以前にも書きましたが「生演奏」であっても会場によっては電気的に音を大きくして会場に音を届ける場合もあります。「それはクラシックではない!」とは言えません。事実レコードもCDも「電気的な処理」をしないと録音さえ出来ないのですから。「ソリストは派手な音」が正しいと思っている人が多いように思いますが、私には理解が出来ません。そもそも「ヴァイオリンコンチェルト」で作曲家が独奏ヴァイオリンとトロンボーンや打楽器を「同時に」演奏するように楽譜を書けば独奏者の音が会場で聞き取れるはずがありません。物理的に音圧が違いすぎます。「音が派手なら」それも程度問題です。むしろオーケストラの中で演奏しているヴァイオリン奏者より「派手」な音をだす必然性がありません。
 ヴァイオリンと言う楽器の「特性」があります。演奏者の「こだわり」があります。結果として演奏する会場の大きさ、一緒に演奏する楽器の編成、必要な処理が生まれるのが「ライブ」です。録音は別物です。音色も自由に後から変更できます。もちろん音量も。
 自然に楽器を奏でられたら…そう願っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介


 

演奏会を外食に例えると

 映像はヴィオラとピアノで演奏した「ふるさと」編曲はジャズピアニスト小曽根真さん。
YouTubeで偶然に見かけた動画から耳コピさせて頂きました。
今回のテーマは演奏会を「外食」もちろん様々な食事が出来る現代ですから、気軽に食事ができるお店も格式の高い(料金も高い)お店も外食に変わりありません。
 同様に演奏会と一言で言っても内容も金額も会場・開始時刻なども幅広いので外食と見ている一面があります。
 多くの演奏会、さらに多くの飲食店がある中で「期待」を持ちながら一つを選ぶのも楽しいものです。その期待は時に裏切られることもあり、逆に予想を超える満足感で思わず笑顔になったり「リピーター」になって同じ人の演奏会やお店に足を運ぶこともあります。
ファストフードや吉野家に新しい期待はあまり持たないものですが、普段行かないような懐石料理やフレンチのコース料理などには食べる前から楽しみがあります。
チェーン店で同じ味を同じ価格で「食事」として考えることもありますが、演奏がレトルト食品や冷凍食品のような「どこでも同じ」印象の演奏会には行きたくないですね。

 まず「費用と満足度」について。
食事の場合「料金」は店内の内装や食器と素材、手間が最も大きな要素になります。
演奏会の場合には会場の規模と立地条件で大きく変わる会場費、座席の場所(S席など)と出演者への報酬額で費用が決まります。その費用と満足度は提供される側=客・聴衆のお財布事情(笑)によりますが、少なくとも「相場」が関係することも事実です。
 次に「内容」の違いです。料理の内容や曲目を予め知った上で選ぶことが一般的です。
料理で言えば和食・中華・フレンチ・イタリアンなどの選択があります。クラシック音楽ならオーケストラ・独奏・室内楽などから選びます。
 さらに実際に出てくる料理・演奏曲ごとの「変化」も楽しみの一つです。
前菜やスープ、メインディッシュ、デザートと食べ進めながら味や食感、香り、口触りなどの変化もコース料理の楽しみです。クラシックコンサートでは?オーケストラの演奏会では多くの場合「前プロ・中プロ・メインプロ・アンコール」で構成されます。室内楽の場合にもプログラムの最後に「メイン」があり、アンコールで「締める」事が多いようです。

 演奏のプログラムとコース料理をまったく同じ観点で比較するのは無意味ですが終わった後の「満足感」と言う意味では非常によく似ていると思います。
 高級レストランと「おふくろの味」とを単純に比較するのも的外れですが、お金を払ってまで料理を食べる事とコンサートに足を運ぶ事もよく似ています。自宅や移動中に好きな音楽を選んで聴くことは、コンサートとは違った意味で楽しいものです。
 クラシックコンサートがすべて「高級レストラン」である必要はないと思います。ファストフードにも「大衆居酒屋」にも存在する意味があります。クラシックの演奏会にも「普段着で聴ける」ものがもっと増えることも大切だと思っています。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

なんで?うまくなりたいのか?

 動画はリサイタルのリハーサル風景。一種の「練習」でもありますが演奏会直前のリハーサルは演奏する場所=ヴァイオリンの立ち位置の確認や、会場の響きと舞台上での聴こえ方の確認と言う意味もあり「通常の練習」とはだいぶ目的が違います。
 今回のテーマはまた哲学っぽい(笑)話ですが、私も含めて「演奏者」プロでもアマチュアでも「うまくなりたい」から練習する事に違いはないと思うのですが「なんで?なんのために?」うまくなりたいと思うのかと言う素朴な疑問を考えるものです。お付き合いください。

「楽器を弾くのが好き」「歌う事が好き」と言う理由だけで演奏や歌を楽しむ人もたくさんいます。素敵な事です。理想的な姿だと思います。練習してうまくなることよりも「好き」「楽しい」事を大事にしている方に「練習したら?」と言うのは「愚問」だと思います。
じょうずに弾けなくても本人が楽しいと感じることで誰か困るでしょうか?まぁ家族なら「うるさいなぁ」ぐらいは言うかもしれませんが、それさえ乗り越えれば問題なしです。
 練習してもっと「うまくなりたい」と思うのに似ているのがスポーツで「もっと強くなりたい」と感じる気持ちかも知れません。競技種目の場合に勝敗・順位が明確にあります。ボクシングで「プロになりたい」から「世界チャンピオンになりたい」果ては「4団体統一タイトルを取りたい」まで。そしてそのタイトルを何回も防衛する「強さ」に憧れる人もいます。
 音楽の世界でも「プロになりたい」と言う夢を叶えるために小さい頃から遊びも我慢してテレビもゲームも漫画も我慢=親に禁止されるケースも…ひたすら練習して音楽学校に進み、留学して…と言う人もいます。その人たちの努力は「お金と名誉」として形になります。
もちろん「お金の為じゃない!」と言う声もありますが「プロの演奏家」と言う言葉には「職業音楽家」と言う意味が含まれます。職業である以上「対価」で生計を立てることも当然のことです。極論すれば「うまくなってお金が稼げるようになりたい」と言う「夢」でもあります。
 プロとして演奏する人はごく一部の人です。これもスポーツと同じです。テニスやスキー、サッカー、野球、スケートなどで「アマチュア・プロ」の違いで、ルールが違う場合もあります。ボクシングなら頭部を保護する「ヘッドギア」の装着義務があったり、フィギアスケートなら「バク転の禁止」など。競技スポーツの場合にはアマチュアでも「序列・順位」が明確に付けられます。
 アマチュア演奏家の場合に「序列」はスポーツと比べて明らかに合理性・客観性がありません。「日本〇〇連盟」なる団体が主催するコンクールで「金賞」を目指して日曜も祝日も犠牲にして練習する姿に恐怖しか感じません。「青少年の思い出」そんな薄っぺらい綺麗な言葉で子供の貴重な時間を奪う権利は誰にもないはずです。「ダメ金」と言われる金賞があります。「金賞だけど次のステップ=予選に進めたい金賞」がダメ金。そもそも演奏に「ダメ」が付く時点で音楽を根本的に理解していないコンクールだと感じます。
 さて通常の「健全なアマチュア演奏家」にとって目標は何でしょうか?
うまくなったと言う自覚を持てるようになる人は残念ながらほとんどいないものです。
プロでもアマチュアでも自分の演奏に対する評価が一番厳しいことは以前のブログでも書いています。「うまくなりたい」と思いながら「うまくならない」日々が延々と続けば?
「何のために練習しているのだろう?」と言う疑問に突き当たるのが自然です。無理もありません。プロのようにお金の為でもない。コンクールに出たいとも思わない。人に聴いてもらうなんてとんでもない!(笑)と考えるアマチュア演奏家が99%以上では?
 結局、うまくなりたいと思う気持ちより「好きだから」だと思うのです。
練習すれば少しでも出来なかったことが出来るようになった「気がする」だけでも楽しいものです。それで十分だと思います。実際に練習すればうまくなります。内容=考えながら練習する事の方が時間より大切なことは多くのソリストたちが言葉を残しています。
 アマチュアの演奏家を「うまい・へた」で他人と比較する事は無意味です。そもそも基準がないのですから。自分の中=自分の演奏を聴いた自分の評価がすべてで良いのです。レッスンで信頼できる先生からの指摘やアドヴァイスは有意義です。自分の気付かない課題やコツを教えてもらえれば「出来るようになる」ことが増えるのですから楽しいに違いありません。
 うまくなるよりも好きになる努力。簡単そうで一番難しいことです。
社会人が自分の職業に誇りと喜び、充実感を感じることが難しいことに似ています。働く目的が「生活のため」と割り切れているから「耐えられる」人が多いのは事実です。
趣味の演奏にまで義務感やノルマを感じたくはないのでは?だからと言って「すぐやめる」のも自分自身がちょっと情けない気がするのは私だけでしょうか?好きで始めた趣味をいつまでも好きでいるための秘訣があるとしたら「練習をやめない」「小さな上達を見つける」ことだと思います。それしかないかも知れません。
 子供は親や大人=先生の言葉を信じて練習を続けます。従順な子供ほど上達が早いので大人の期待はさらに高くなり…と言う循環もあれば「子供に才能がない」と大人が子供の可能性を一つ奪い取るケースもあります。
 大人は自分の意志で趣味を楽しみます。限られた時間、体力、予算の中で好きな事を楽しむ中に「演奏」を加えて頂ければと願っています。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「偉大な演奏家」の安売りに一言

映像はミルシュテインのヴァイオリン。1935年の録音だそうです。
「偉大な演奏家」と言う言葉を耳にする度に「偉大って何?」と感じます。
ちなみにAIに聴いてみました。
「「偉大(いだい)」とは、並外れて優れており、功績や魅力、存在感が非常に大きいことを意味します。単に大きいだけでなく、多くの人から感心されるほど素晴らしく、尊敬を集める対象に対して使われます。」だそうです。
「凡人」の真逆と考えれば当たらずとも遠からず?(笑)
 今の時代「多くの人」が何を指すのか?昔とは基準になることが違います。
ネットのなかった時代に多くの人が「知る」ためにはテレビ、ラジオ、新聞、書籍が情報のすべてでした。演奏家の評価はレコードの販売数、コンサートの場所・回数・観客数が最も大きな判断材料でした。
 演奏者が「尊敬」に値する人なのか?これは実際に本人を知る人だけが感じられることです。「噂」や「伝説」が真実とは限らない事は今も昔も変わりません。尊敬されるのは「演奏」ではなく「人格」です。大人が子供を「尊敬する」という言葉には無理があります。もちろん大人の中には子供より貧しい考え方の人もいます。ただ「尊敬」は長い時間をかけて築きあげて業績や行動を「敬う」事です。子供の技術が大人より高っかったとしても「尊敬」と言う言葉は相応しい言葉だとは思いません。

 演奏家の「業績」は演奏です。指導者、教育者としての活動は演奏の評価とは別のものです。演奏の評価については以前のブログで書いていますが聴く人によって全く違って当たり前です。演奏技術の「レベル」を云々出来るのは同じ楽器の演奏家だけです。一般の人が聴いた「感想」と「技術」とは違うという事を考える必要があります。
 普通の人=一般の聴衆が「素晴らしい」と感じる演奏をする演奏者で、他の人の演奏を知らなくても「引き込まれる」「感動する」演奏があります。他人の「情報」ではなく自分の耳で聴いた感想が本来の「評価」です。
 音楽以外の世界で「偽マスター」「自称達人」と呼ばれる人がいます。
「格闘技」「伝統武術」などの場合、実際に本物のボクサーや格闘家と対戦すれば結果は誰の眼にも明白になります。
「日本を代表する」とか「世界的な」と言う枕詞も結構怪しい(笑)ケースがあります。
音楽のコンクールにも「ピンからキリ」までレベルや伝統の違いがあります。
高い演奏技術を持っている人でも「偉大」と呼ぶに相応し人もいれば「え?そう?」と多くの人が首をかしげる人もいます。むしろ自分にとって偉大な師匠=尊敬する先生を他の人も「偉大」と感じるかは別の話です。「多くの人」と言う定義もありません。
 ヴァイオリニストで考えれば「ハイフェッツ」「オイストラフ」の名前を知らないヴァイオリニストはいなくても、実際に演奏を生で聴いたことのある人や本人を「知っている」人はほとんどいない時代です。動画のミルシュテインやシゲティ、メニューインなど「有名な」ヴァイオリニストを挙げれば恐らく10人では終わらないと思います。「20世紀を代表する」と言う表現もあります。誰が決めたの?(笑)とも思いますが今現在も演奏活動をしている人に「偉大な」と言う称号を付けて呼ぶのは如何なものかと思います。むしろ後世の人が振り返って「あの人は偉大な演奏家だった」と言うのが本人への敬意を示す言葉だと私は思っています。
「偉大な音楽家に育てたい」と言う言葉にも違和感があります。指導者が優れていて弟子が指導者への敬意を持つ人であれば弟子の技術も高くなります。
「偉大」な演奏家は目指してなるものではないと思っています。自分の評価を高める事を「目的」にする演奏に私は心をひかれません。常に謙虚であり自分の演奏を聴いてくれる人への感謝を忘れない演奏家にこそ「偉大な演奏家」と言う称号が付くべきだと考えています。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器の音「心理」と「科学的分析結果」

動画のリンクをクリックして映像をご覧ください。
https://youtu.be/zrt3lx05dlw?si=oWwAAiUrRPDj5UDc

 まず最初に書いておきたいこと。音の好みに絶対値は存在しないことです。100人のうち99人が「おいしい」と感じた時でも「おいしくない」と感じた一人の人の感覚が間違っているとは誰にも言えません。
一方で比較する対象を同じ基準で分析した結果=数値については明らかに客観的な事実です。「良い音」「弾きやすい」と言う表現はまさに「主観=感覚」を表すものです。その判断には聴く人の心理が大きく影響します。「心理的バイアス」と言う言葉があります。AIによると「心理学における「バイアス(認知バイアス)」とは、過去の経験や先入観、固定観念により、情報の解釈や意思決定が非合理的に偏る心理現象です。脳が速く処理しようとする「思考のクセ」で、無意識のうちに思い込みや偏見が生じ、判断ミスを誘発します。」とあります。
山での遭難事故の多くもこの「認知バイアス」が原因で起きています。楽器の音や歌声を聴いて先入観や固定観念で「判断の間違い」をしてもケガもしないし命にも関わりません(笑)気楽に考えても大丈夫ですね。
「世界的に高い評価の古いイタリア製の楽器」と言う言葉や、過去にその楽器を使って演奏していた著名なヴァイオリニストの名前からさらに「固定観念」が増強されることもあります。それらの情報が「認知バイアス」になります。実際に「何が?どう?他の楽器と違うのか?」と問われた使用者が「全く違う」とか「まるで生き物のように」とかすでに使用者自身も認知バイアスで正当な判断が出来なくなっているように感じます。
例えばアマティ・ストラディバリ・グヮルネリと言った職人が作ったヴァイオリンと他の職人の楽器の「違い」を事実をもとに比較すると
「それまでの製作者が作ったヴァイオリンと形や木の厚み、木材の科学的な加工に独自の方法を取り入れた」という事が言えます。
当時詳細な「レシピ」に当たる制作方法は残されていないことも共通しています。「秘伝のスープ・レシピ」と同じです。
その「新しい制作方法」によってそれまでに作られていたヴァイオリンとは音色・音量・弾き心地、さらに耐久性も大きく変わったと思われます。それも推測です。そしてその後に彼らの作ったヴァイオリンの「形・厚み」を正確に計測して作られた多くの「コピーヴァイオリン」が誕生したのは事実です。しかし肝心の「レシピ」が残っていないため木材の加工、ニスなどの「処理方法」が不明だったために「秘密」「謎」と言う枕詞が付くようになり、ますますバイアスが高まTる結果になりました。
 現代の分析技術、特に分子レベルの解析と放射線を使った解析によって「謎」だった部分が明らかになってきました。今後もさらに解析が進むことになるでしょう。
 現在、既に木材の薬品や熱、紫外線による加工・処理の跡が解析されています。得られた木材の「構造」に近くなる処理を施して現代のヴァイオリン製作者が作成したヴァイオリンの「音」がストラディバリの製作したヴァイオリンと比較した結果が動画の内容です。
「どの音が良いと思うか」と言うブラインドテストで半数以上の人が「コピー」を選びました。その結果にも大きな意味はないと思います。「良い」は「好き」と同意語であって主観=感覚だからです。
つまり「認知バイアス」の入り込めない状況で比較した結果、ストラディバリの楽器の音が「良い」と多くの人が感じられなかったと言うのは事実です。す。

一言で「謎」を説明すると今まではヴァイオリンを製作する「木材」への薬品を使った処理は想定されておらず、ましてや分析技術に限界がありました。そのため現代のヴァイオリン製作には「自然乾燥させた木材」を使用するのが一般的でした。「まさか」と思われる結果とも言えます。ストラディバリとグヮルネリでは使用した薬剤が違う事も明らかになり、ストラディバリでも製作した年代のよって異なっている事まで解析されています。「ミョウバン」「石灰」「塩」などは300年前から身近にあったものでした。「弱アルカリ性」に木材を処理することは中国の楽器に関する書物にさらに昔からの残されていたことですが、ストラディバリ、グヮルネリも同じように木材を加工し耐久性を高めていました。さらに高熱と恐らく日光に当たる=紫外線を当てる事もしていたことが分析結果から推測されています。
今回の動画では「木材腐朽菌」による処理を木材に施した楽器を使っていますがこれも「科学的根拠」に基づいた製作方法です。
「ストラディバリの楽器は神聖なものだ!」とお怒りになる方もいるでしょう。しかし既にストラディバリウスは目に見えない修復、虫食い後などによって製作当時とは「違う楽器」になっています。もちろん良い意味での経年変化と一流演奏家に演奏され続けた事による「鳴りやすい楽器」に変化し維持されている事も承知しています。
しかしいずれストラディバリウスもグヮルネリウスも使用できない状況に劣化することは避けられない事実です。その時になって「ヴァイオリンがない」と騒ぐのはあまりにもお粗末です。むしろストラディバリウスが良い変化をしたように現代のヴァイオリンを育てる努力と、少しでもストラディバリウスに近いヴァイオリンを製作しさらに変化を観察する事の方が遥かに重要だと考えます。
「新しい楽器は良い音がしない」と言う先入観・固定観念が間違った判断を引き起こしています。現代の製作者を否定してしまえば近い将来に健康なヴァイオリンが消滅することになります。
「一流の演奏家」が認知バイアスで誤った判断をすれば、その音楽を聴く人も同様に先入観を持ってしまいます。テレビ番組でストラディバリウスの音を当てるコーナーを毎年見ていますが、あれで正解するのは単なる2分の1の確率=偶然です。もしもA・Bではなく5つ選択肢があれば結果ははっきりします。五分の一に分かれるはずです。つまり5人に4人は「はずれ」になるのが正常です。なぜならテレビを見ている人はスピーカーかイヤホンで音を聴いているので「電気的に加工された音」でしか判断できないこと・さらにストラディバリウスの楽器の音を解析できる耳を持っている人は誰もいないことです。
予め演奏前に2種類の音を聴いて「正解」を知らされていて、今度はカーテンの向こうで見えないように演奏したら?恐らく7~9割の人が正解するでしょう。

 最後に「心理学的に」ヴァイオリンの音についてまとめます。
人間の耳は限られた振動数の「音」を聴いています。さらに人によって聴こえ方には違いがあります。同じ音を聴いた人でもそれぞれに「聴こえ方」が違います。それが人間の「感覚」です。
「良い」「好き」や「嫌い」と感じるのは耳の問題ではなく「脳」による判断です。主な判断基準は「記憶」によるものです。
生まれて初めて、目の前で演奏するヴァイオリンの生の音を聴いた人が「好き」とか「嫌い」とか判断するとしたら「直感」です。自分にとって心地よいか?耳障りな音か?の違いです。演奏者の技術で変わります。初めて食べたラーメンや納豆が「美味しくない」と感じれば、次に食べる前に「美味しくない」と先入観が働くのと同じことが楽器の音でも起こります。
 良いヴァイオリンとは!と言う間違った先入観を持ってしまった人が、他の人にまでその「間違い」を広めることに危機感を感じています。少なくとも高いヴァイオリンが良いヴァイオリンと言う固定観念から抜けることが必要だと思っています。
 最後までお読みいただきありがとうございます。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

「強さ」より「優しさ」に憧れる年齢

 映像はラフマニノフ作曲「祈り」と訳される曲を3年前にに演奏した動画です。
以前のブログで才能ある若い演奏家を破壊する大人のエゴイズムをテーマにしました。
また前回のブログでは演奏の評価に関する私の考えを書きましたが、今回は自分自身が年齢を重ねて自分の演奏や他の人の演奏に対する「感じ方・好み」の変化について考えるものです。

 自分と同世代の音楽仲間に囲まれて音楽を学んでいた時期(15~23歳頃)に自分の演奏や友人や後輩、先輩の演奏に何を感じながら練習していたかは正直に言ってあまり覚えていません。ただ周囲の「自分よりじょうずな人」への憧れや追いつきたいと言う思いはあったと思います。同学年の友人とアンサンブルを楽しみながら学ぶときも心のどこかで「負けたくない」と言う気持ちがあったのかも知れません。「能力主義」の学校でしたから高校1年生も大学4年生も学年に関係なく一緒に演奏し、演奏技術によって学内のオーケストラも毎年学年当初に発表された能力別の3つのオーケストラに振り分けられていました。
周りにいるすべての学生が友人でもありライバルでもありました。
 その高校大学での生活で得た多くの技術・知識・経験が卒業後にすぐ役立つ…とは限りません。多くの卒業生は「プロ」としてオーケストラに入団=就職しました。ただピアノ専攻の人や作曲専攻の卒業生は「就職」と言うよりもさらに勉強の日々が待っています。
私は卒業後、親の不安をよそに(笑)好きな事をしながら演奏のアルバイトで遊ぶお金を稼いでは日々を楽しく暮らしていました。卒業した年の5月頃?に新設される中・高校の音楽教諭公募の張り紙を学生課の事務職員に紹介されたこをが「運命の分かれ道」でした。
 翌年4月から20年間の教員生活が始まることは想像外でした。その間はヴァイオリンを真剣に練習する時間も気力もなく過ごしました。友人たちの音楽活動を「見て見ぬ振り」をする日々でした。中学生・高校生の部活オーケストラを作り指導し大きくすることに没頭していたのは、そんな「挫折感」を紛らわしたかったからかも知れません。

 2~3年で辞めるつもりだった教員生活が20年間になり退職したときには44歳という「中年のおじさん」の年齢でした。その後両親の介護や自分の家庭の問題を抱えながら自分で経営する音楽教室・楽器店とNPO法人メリーオーケストラの活動に追われながら日々を過ごしました。レッスンや楽器の販売をしながら自分の練習に打ち込む「意欲」は芽生えませんでした。
 そして大学時代にアンサンブルを一緒に学んだ浩子さんと再会し、二人でリサイタルを開く相談が決まったのが2007年です。大学を卒業して23年ぶりにリハビリをスタートしました。
 自分の演奏を学校の生徒以外の前ですること自体が嬉しくて毎日が新鮮でした。
学生の頃から好きだった曲…特に小品ばかりを20曲以上!演奏したのが1回目のリサイタル。今二人で振り返ると「頭がおかしいよね」と笑うような曲数ですが当時は「これも弾きたい・あれも弾きたい」と言うのが本心で何曲あるのか?お客様がどれだけ大変か(笑)?考えていませんでした。

 自分たちの演奏を動画や音声で記録していたのは生徒さんの参考にする目的の他に、自分の演奏を客観的に聴いて問題を見つけるためです。未だに自分の演奏に「合格」は出せません。
それでも次の演奏の機会を自分で作るのは何故なんでしょう?演奏することが「目標」になり練習する事が「日課=ライフワーク」になることの嬉しさはそれまでの人生では感じたことのないものです。
そうは言いつつも年齢を重ねると身体の自由が少しずつ削られていくことを感じます。
集中力・瞬発力・持久力が下がり筋肉が日常的に痛いなんて…若いときには想像すら出来ませんでした。毎日学校で8時間でも10時間でも個人の練習や合わせ、オーケストラ授業で楽器を弾いても一日5食食べて翌日には元通りでした。
 生まれつきの病気が進行し、楽譜を読むことが出来なくなってからも新しい曲に挑戦しています。「たかが」1ページの楽譜を覚えるのに何日、何週間かかったとしても覚えるしか演奏する方法がないので若いとき以上に「暗譜脳」だけは使っています。

 「強い」より「優しい」演奏が好きになり、自分も目指す気持ちは恐らく若いときから無意識に持っていた感覚なのだと思います。ただ若い頃には「楽譜を見てすぐに間違えずに正確に速く弾けること」が第一に求められていました。プロの演奏家としての「大前提」だったので当たり前かも知れません。ソロにしても難易度の高い曲を短期間で仕上げることが「じょうず」と言われる条件でした。むしろその基準で他人のことも評価していた気がします。
 聴く人が安らぎを感じる演奏。音楽を初めて聴いた人が「心地よい」と感じ笑顔になれる演奏。クラシックマニアが「すごい」と評価するよりも普通の人が「良かった」と言う言葉に演奏の意義を感じています。.
 速く・強く・正確に演奏するための技術のレベルはプロとしての必要条件かも知れません。
もしそうならば私はアマチュアと呼ばれても気にしません。「優しい」「美しい」「心地よい」演奏をするための技術を求めたいと思っています。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏の評価ってなんだろう?

 映像はシューベルトのアヴェ・マリアをヴィオラとピアノで演奏したライブ映像。自分では課題だらけの演奏です。当たり前ですが。
 さてクラシック音楽の演奏者に対する評価には「マスコミ・評論家の評価」と「実際に聴いた人の評価」があります。YouTubeでのナレーションも影響力の大きさを考えればマスコミの評価に準ずるものだと思います。
 一般に「良い評価」が多く伝えられます。そこには「感動」「衝撃的」「涙」「絶賛」「鳴りやまない拍手」などの文字がおどります。
実際にそうだったのか?(笑)と感じるのも正直な気持ちです。
そもそも演奏のどこに?なにに?対しての評価なのでしょうか。

 コンクールは審査員が評価をして参加した演奏者の序列を決めるものです。複数の審査員がいれば評価も分かれます。それぞれのコンクールで最終的な序列の決定方法が違います。最高点と最低点を切り捨てる方法や平均値で順位を決める方法など様々あり、審査委員の人選や人数もすべて違います。「観客による投票」も順位とは別に発表されるコンクールもあります。
 一方で「普通の聴衆」=専門的な技術や知識のない人が演奏を聴いて感じる「感想・印象」があります。これも一種の「評価」であることは間違いありません。むしろ演奏会の客席に座る殆どの人は「普通の人」のはずです。
 「曲が好き」だから演奏が良かったと言う人もいます。自然なことです。作曲者を知らなくても初めて聴いた曲でも「好き」と感じることがあります。先入観を持たずに音楽を耳にした時に感じるものこそが「評価」だと私は思っています。
「この人は〇〇コンクールで」とか過去の演奏会で「感動の声が」とか言う他人の評価が先入観になります。ビジネスとして考えればこれこそが「販売促進=営業」の技術です。口コミが最大の広告であることは企業に務めた人なら誰でも知っている事です。大げさでも「大盛りに盛った話」が多少の嘘を含んでいても人が集まればビジネスが成立します。

「音楽産業」の一つにクラシック音楽に関わる人たちの「経済活動」があります。演奏会を開くためのお金も「誰かが誰かに支払う」のです。そして演奏する人の得るお金は?演奏者自身が主催者の場合ならチケットの売り上げから経費を引いて残った金額が「売上」になるわけです。
「クラシックを金勘定で考えるな!」と思われるかも知れませんが、演奏する人間が霞を食べたり段ボールを食べて暮らせるわけもなく、生活できることが前提条件です。
 話を「評価」に戻します。
「演奏する人間=演奏した音楽以外」の評価がクローズアップされているケースがあります。「年齢」「身体的な障碍」「生い立ちなどのバックボーン」「国籍」などは本来演奏とはまったく無関係です。
上記の例えから「7歳と言う幼さで視覚障碍を持ち、両親が事故で亡くなった音楽家の子供で日本人」なんて(笑)書かれていたら人の眼を弾きますよね。もちろんフィクションですが。

これは極端な例えですが「近い話」ってあるような気がします。

 純粋に演奏を評価する場合、演奏のどこに感動したのか?という捉え方ができます。
 ヴァイオリンを演奏する人が感じるヴァイオリン演奏を聴いた時の感動と、ピアノの演奏を聴いた時の感動は実はまったく違うものです。
演奏技術の評価はその楽器を演奏できる人の中でも「演奏者より高い技術のある人」が聴いた場合とそうでない場合で評価が分かれます。
 普通の聴衆=演奏家でない場合には「何がすごいのわからない」はずです。速い曲を弾いている姿を見れば「すごい」と感じます。さらに他の情報「年齢」や「容姿」など演奏とは別の要素も印象に加わります。
「簡単そうに聞こえる曲」ゆっくりしたテンポの音楽や聴いたことのある「歌」などの場合に「すごい」と言う印象は残らないものです。
もちろん専門的な技術を持った人が聴けば音色、表現の技術の高さもわかります。

 結論。「情報(他人の評価)よりも演奏を聴いた自分の印象・感想を大切にする」ことです。今はネットでのクチコミ情報や「評価・ポイント」も疑わしい時代です。大手のネット通販でも詐欺まがい、中には本当に詐欺で被害にあう人が後を絶たないのが現実です。
どんなにネットで高い評価があったとしても、実際に自分が「良い」と感じるかどうかは別の問題です。飲食店の情報と似ています。
自分が「素人だから」「よくわからないから」と言う気持ちで他人の評価を鵜呑みにするのは決して正しい事ではないと思います。
専門家や有名な演奏家が高い評価をした…と言う情報が真実かどうかは疑ってかかるのが正解だと思います。「〇〇フィルハーモニーの演奏者が絶賛し涙を流した」と言う情報のファクトチェックは誰もしていないことが殆どです。
自分の耳と感覚で好きな演奏を楽しめたならそれが一番だと思っています。私はそんな演奏を目指してこれからも精進します。
 最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介