メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

     

メリーミュージック

   

2004年創業バイオリン教室・ピアノ教室・ビオラ教室・楽器店です
神奈川県相模原市緑区原宿南2-26-1

演奏の技術

演奏会場を選ぶポイント

映像は代々木上原ムジカーザで2010年から2026年まで毎年デュオリサイタルを開いてきた私たちの「最初と最後」の演奏をまとめたものです。17年間にたくさんの曲を演奏し本当にたくさんのお客様と出会いました。同じホールで同じピアノを同じ調律師(名取さん)にお願いして、ほぼ同じ時期(1月初旬の土曜日)に開催し続けました。
今回のテーマは「演奏する場所」について考察するものです。

演奏には「聴衆の前で演奏する」場合と「録音や撮影のために聴衆のいない状態」の場合
があります。聴衆がいるコンサートを録画・録音した「ライブ」もありますが聴衆の有無は大きな違いになります。
スタジオで演奏し録音する場合は響きのない室内での演奏になります。
ピアノとヴァイオリンの録音を別々の時間・場所で録音する場合もあります。昔の言い方をすれば「「重ね録り」と呼ばれるものですが、多くはポピュラー音楽の録音に使われてた録音方法です。録音のための演奏なのでノイズ=周囲の雑音を極力減らし、後の編集作業のために残響時間も少ない事が求められます。演奏する人はヘッドホンを装着しメトロノームの音や先に演奏を録音した音を聴きながら演奏=録音します。慣れないと非常に演奏が難しいものです。
 聴衆を前に演奏する「コンサート」の場所は広さ=客席数、音響(残響時間など)が最も大きな違いになります。ホールや演奏場所の立地環境=交通アクセスも聴衆にとっては大きな問題になります。
 あまり大きく取り上げられませんがホールのスタッフと設備・備品は演奏者にも聴衆にも影響します。スタッフが演奏者の立場と聴衆の立場で最善の環境を作る技術と感覚を有していないと演奏が素晴らしくても良いコンサートにはならないものです。また施設や設備が演奏に不向きな場合もあります。エアコンの動作音が大きく演奏の小さい音にノイズが混在するホールもあります。客席の椅子が折り畳みのパイプ椅子で聴衆が長時間座るのが苦痛になる場合もあります。椅子のきしみ音も演奏の妨げになります。

演奏者がホールを選べる場合と、演奏を依頼され場所も予め指定されている場合があります。
後者の場合どんな会場でもその場にあった演奏を限られたリハーサル時間の中で探す技術・経験が求められます。
自分で会場を決める時に最終的に資金的な問題を優先することになります。もちろんこの費用を気にしなくても開催できる演奏者もいます。うらやましい限りですが多くの場合は会場使用料やピアノなどの使用料金、スタッフの費用などを含めたトータル費用とチケット収入の予想をシミュレーションして会場を決めることになります。
 演奏者の好みも分かれます。残響時間、客席の場所による聴こえ方の違い、演奏している音の演奏者自身の聴こえ方などです。資金的な条件の中で自分が最も演奏しやすく聴衆にも自分の理想に近い音で聴いて頂けるホールを選びます。

私たちが二人で演奏させて頂いた色々な会場の中で印象に強く残った会場「杜のホールはしもと」と「代々木上原ムジカーザ」は演奏した回数の多さもありますが残響時間、ピアノとヴァイオリン・ヴィオラのバランス、演奏者に戻ってくる音など大好きな会場です。杜のホールは525席のホールですがどこで聴いても気持ち良く楽しめる音響です。私たちの最初のリサイタルは長野県松本にある「音文」と呼ばれているホールの小ホールでした。初めて二人で演奏した緊張感もあって音響の事までは記憶に残っていませんが、その年に杜のホールで同じプログラムで演奏した時の感動は鮮明に残っています。
 野木にあるエニスホールも適度な残響とぬくもりのある響きの素敵なホールです。コンサート会場ではないのですが長野県木曽町にある「おもちゃ美術館」に併設されている体育館(実際に昔小学校の体育館だった建物を減築・改築した会場)の響きが忘れられません。

最後になりますが、演奏者にとって演奏会場は自分の演奏を聴衆に届けるための空間であることを書いておきます。自分が演奏者としての立場だけではなく、聴衆としての立場にたってホールを選ぶことです。主催者が自分でない場合、言いにくい一面はありますが演奏する以上「聴いてくださる方」への思いを第一に考えるべきです。
 演奏会場は公共の場です。多くの人が違う価値観を持って集まり共に音楽を楽しむ場です。主役は演奏者だけではありません。聴衆もスタッフも同じ目的=音楽を楽しむ時間と空間を共有する目的を達成するために必要な人です。誰が欠けても目的は達成できません。演奏者・スタッフ・聴衆が等しい関係性でなければ良い結果は得られないことを、まず演奏者自身が理解することが大切だと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クラシック演奏の個性ってなんだろう?

映像は昨年1月に演奏したサン・サーンス「死の舞踏」
原曲は管弦楽で演奏する曲ですがピアノとヴァイオリンで演奏するためにアレンジされたものです。

さて、今回のテーマ「クラシック演奏の個性」ですが、個性的と言う言葉には一般的ではないというイメージがあります。個性が感じられないと言えば、逆に多くの人が認めている事や珍しくないと言う意味を含んでいます。
本来すべての人はそれぞれ違った個性を持って生まれます。どんな演奏であってもすべてに個性があります。歌であれば声・歌い方に個性があります。楽器の演奏でも音色やテンポ、部分的な音量などに個性があるものです。クラシック音楽の場合「楽譜通りに演奏する」と言う特色があり、ジャズやロックのように「楽譜も違う」音楽との違いがあります。
 落語に古典と創作があるように、料理にも創作料理があります。古典落語であっても「ラーメン」でも演じる人・作る人が変われば「個性」があります。この微妙な違いこそ演奏の個性に繋がるものです。
 楽譜に書かれている音符やテンポの指示、強弱の指示に従って演奏しても他人と同じ演奏にはなりません。微妙な違いを聴き分けられる人と気付かない人がいます。単に聴いた演奏の数と時間だけの問題だと思います。違いに気付かないから鈍いとかクラシック音楽を理解していないと考えるのは間違っています。ラーメンを一度だけ=1種類だけを食べた人と、多くの店を食べ歩き様々なラーメンを食べ比べた人の違いと変わりません。
 個性が強すぎると「癖がある」「一線を越えている」と酷評されがちですが「強い個性」の基準もないはずです。元より「初演」される音楽の演奏は比較される演奏がないのですから、次に誰かが演奏するまでは「唯一無二の演奏」になります。

 楽譜を初見で演奏したものと、時間をかけて考え試行錯誤を繰り返し練習した演奏があったとします。初見の技術・能力が高い人の演奏なら多くの人は「違い」を感じないかも知れません。むしろ「え?初めて楽譜を見ただけなのに?すごい!」と初見の演奏に喝采を送るかも知れません。
「間違えないために練習する」必要のない人も現実にいます。ではその人の個性は?
初見能力は演奏の個性とは別のものです。
 演奏する人の「音楽への思い」が個性になります。思いのない演奏がどんなに正確でも聴く人には感情が伝わらないものです。音楽を聴いて感動するのは「音」「音楽」にではなく、演奏する人への共感だと思います。私は演奏する人に「座学」を進めます。楽譜を記号として音にするための読譜ではなく音楽を「感じる」ための時間を取ることです。考えることで初めて自分だけの音楽=個性が生まれると考えています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

緊張を味方に付ける考え方

映像はオリンピックのフィギアスケート女子シングルで金メダルを取ったアリサ・リュウ選手のインタビュー映像です。
彼女の経歴や国籍、誕生にまつわる話にも興味があり調べましたが、ここでは敢えてそこには触れません。このアスリートが大舞台で見せたメンタルの強さをテーマに考えてみます。
多くの選手たちがプレッシャーに押しつぶされ、恐らく普段の練習や通常の大会では考えられないような大きなミスをしてしまいます。
中には「国家」「国民」からの過剰な期待が原因になる選手もいます。そんな中で彼女の今回の演技は「本人が楽しんでいる」ように感じ見ている私たちも自然に楽しめたように思います。「勝つこと」を何より優先していれば人間の真理として「頑張って」しまいます。
どこにその違いがあり、彼女の意識は何を求めていたのか?

インタビューの中で「対策より経験が第一」と言う言葉が印象的でした。勝つための準備や練習に主眼を置いても経験がなければ勝てない。事実、北京オリンピックで苦しんだ彼女は一度スケートから遠ざかり「普通の生活」を取り戻しました。幼い時からトップの成績で注目を集めた彼女でさえ「苦しんだ」と言う表現をした過去があります。
そして心理学を学んだ彼女の「脳の成長」が新しい人生観をつかむきっかけになったのかも知れません。「人とのつながり」当たり前のようで勝負の世界では必要性の低そうな他人との絆を大事にする考えに感動します。2位3位になった日本人選手について問われると「3人とも人生の違う段階にいます」と答えています。なんと素晴らしい答えでしょう。単に技術を語るのではなく「人生の段階」と言う言葉。まさに経験こそが大切と言う言葉の証明です。

緊張することは自然な生理現象です。不安な気持ちになった時に心拍が速くなったり手に汗をかいたり、膝ががくがくしたりすることは避けることのできない現象です。犬や猫でも不安になった時に普段と違う行動をします。防御本能の表れだと思います。
不安が少なければ緊張の度合いも少なくなります。いつもと違う環境に出ることが予め分かっている場合、例えば演奏会や試合がの前に「本番のイメージ」を頭の中で作って練習・準備することも出来ます。
不安のない普段の練習で本番での自分を想像しながら練習するのが「イメージトレーニング」です。
過去に経験した失敗の記憶も失敗の原因を理解すればイメージトレーニングの材料になります。
不安を完全に消し去ることは不可能です。本番の日、時間が近づくにつれて不安がふくらんでいきます。
極端な場合、本番の直前に楽譜を思い出そうとして「あれ?」とパニックになることもあります。
直前に練習した部分でさえ思い出せない気がする場合もあります。
人間の記憶は「脳」と「身体」の両方で再生されます。主に脳の記憶は冷静な時に「思い出す」事ができる記憶です。一方で身体が覚えている(実は脳の記憶ですが)運動は考えていない時に再生されます。
不安になる時=緊張する時に脳の記憶を無理やり呼び起こそうとするのは逆効果です。かえって不安が増えます。
1曲の演奏時間が5分間だとします。それを本番直前に一瞬で思い出そうとしても無理なのです。練習で演奏している時を考えれば分かります。1小節目を弾きながら最後の小節を考えません。2小節目を弾いている時に1小節目の事を思い出していません。つまり脳は演奏する順序=時間経過で記憶しているのです。常に次の音を考えています。その連続で時間が過ぎていきます。もちろん、練習で曲の途中だけを練習することはあります。この場合に記憶しているのは曲全体の記憶とは違う記憶をしていることになります。むしろ身体が覚えるための練習です。
音楽もフィギアスケートも「時間と運動」が一つ塊になっています。自分だけが記憶している「次の運動」を再生し続けるのが演奏であり演技です。どんなに難しいパッセージでも必ずつながりがあります。突然15小節目から演奏したり、4回転ジャンプをするわけではないのです。
話を戻します。
不安が緊張の原因なので「安心」を感じられる準備をすることです。
人によって安心する環境は違います。信頼できる人と一緒にいるのが良い人。
一人になって集中するのが好きな人。自分が一番穏やかでいられる心理状態を探すことです。
アスリートの中には試合直前に決まったルーティンをする人が多くいます。
陸上短距離のウサイン・ボルト。野球のイチローなどは有名ですね。自己暗示の一種です。
掌に「人」と書いて飲み込む真似をする「おまじない」で本当に安心する=自己暗示が出来るトレーニングをした人なら効果があります。普段から自己暗示のトレーニングをしていない人が同じことをしても効果は期待できません。
練習で「どうすれば成功する=思ったようにできる」かを考えながら身体を使う事も暗示につながります。無意識に繰り返して練習するのは一時的に身体=筋肉・関節が運動を記憶しているだけなので再現性が低くなります。「考えながら繰り返す」ことが重要です。

 緊張を楽しむ発想も有効です。
そもそも普段と違う環境を「非日常」と考えることです。普段の生活で体験できない環境を不安に思うより「期待」することで直前の過緊張から解放されます。どんな演奏でも演技でも同じことは絶対に出来ません。聴く人・見る人も違います。同じ曲を弾いたたとしても演奏は以前とは違うものです。

不安を楽しみに置き換えることは特別な事ではありません。
初めて食べる料理、初めて訪れる観光地などは不安より期待の方が大きいものです。
うまく弾こうとか間違えずに終わることを優先するより、一度しかない演奏の機会を心から楽しむ気持ちを持つ習慣をつけ「経験」を積むことで緊張を活用できるはずです。
 最後に「緊張は生理現象」だという事をもう一度書いておきます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

クラシック演奏家の人気って

映像は1985年のショパンコンクール。私はこの年に教員になって音楽の授業で生徒と一緒にドキュメンタリー番組を見た記憶があります。
話題をさらった「ブーニン」は当時のクラシック演奏家の中で最も人気のあるピアニストでした。今回のテーマはクラシック音楽の演奏家の「人気」について考える内容です。

人気…まさに人間が気にするから「人気」ですね。
コンサートに多くのお客様を集める「集客力」も人気のバロメーターです。コンサートの頻度=回数、地域や国、共演者、演奏会場などでも演奏家の人気が見て取れます。
一人の演奏家を中心に考えると人気がある「期間」と「人気度」が変化する人と、一定の人気で演奏活動を続ける人に分かれます。
一方で一人の聴衆から考えると自分の好きな演奏家が変わることもありますし、一人の演奏家の成長=変化を楽しみ続ける聴衆もいます。
 演奏をする人の数より聴く人の数の方が圧倒的に多いのは当然ですが、時代の変化と共に徐々に演奏家が増えすぎ、クラシックを聴く人が減少し続けている気がします。もちろん「演奏家」とひとくくりに出来ないようなレベルの違う演奏家たちが昔も今も存在します。強いて分類するなら「一流演奏家」と一流でない演奏家?(笑)ヴァイオリンの世界で言えば本人の意思=選択がありますが一般には「ソリスト」が頂点で「プロオーケストラメンバー」がその下の位置付けで「音楽教室やエキストラ」で生計を立てる人が底辺かも知れません。音楽大学で教える人の場合は教授、准教授、常勤講師、非常勤講師、合奏指導員と言う序列があります。
 これらは人気とは別の話になりますが、いずれの場合にも演奏家としての評価が基準になります。教員の場合は本来「指導力」が基準のはずですが必ずしも指導力で学校内地位が決まるものでもないようです。
人気のある演奏家とは?人気のない演奏家とどこが違うのでしょか?

演奏者の技術は人気にどれほど関係があるでしょうか?一般の人にとって専門技術の優劣は判断できません。難しそうな曲を速く演奏していれば「じょうずな人」に感じるものです。
技術以外に何が?基準なのでしょうか?
演奏者の容姿=ビジュアルの「好み」はどうでしょうか?衣装、容姿、話し方、声なども音楽とは無関係ですが人気の基準になります。「演奏家は音楽で!」と言う考えは正論ですが
見た目の印象で人気が出ることも事実です。
 演奏家が増え続ける今、演奏家として生き残るために何が出来るでしょうか?

「アイドル」をデビューさせるためには数億から時には10億円以上のお金が使われていました。1980年前後のおアイドル全盛期の話です。
毎月のように新人がデビューし、テレビや雑誌に顔を出してもらう為に、事務所は莫大な広報費用を使いました。名前と顔を一致させてもらう事が第一。歌のうまさは問題外。歌わせてもらえる番組ならどんな深夜番組でも出演。人気が出初めたら「売り抜ける」のがプロダクションの役目でした。アイドルは「使い捨て」とも言われていた時代です。
現代でも大手の音楽事務所は存在します。スポンサー企業を募り有望と認められたアーティストの宣伝にだけ広報費用を使います。
どんな演奏家=アーティストが有望なのか?
1.話題性がある=マスコミがあおってくれるネタがある
2.演奏以外の特徴がある=年齢・経歴・ルックスなど
3.事務所の意向に服従する=自由な発信や発言はさせない
4.どんな選曲でも無難に演奏する
恐らく他にもたくさんありそうですが、何より演奏家の個性や演奏技術よりも話題性が大切です。売れなくなったら違うアーティストを売り出します。

職業=音楽家に憧れる若者の夢を叶えられる割合は全国で100人に一人=1%より遥かに少ない数です。私が音楽高校、音楽大学に通っていた時代=今から40~50年前でも毎年たくさんの音大卒業生が生まれていました。音楽大学の数自体は今と大差ありません。卒業生の人数も変わりません。むしろ少子化と不景気が原因で音大の定員割れが深刻な問題になっています。
 学生の技術レベルはどう変わったでしょう?昔も今も変わらないのは「個人差が恐ろしく大きい」事です。入学できるレベルは昔より下がったと言われています。卒業に必要な知識・技術のレベルも下がったと言う声がほとんどです。「誰でも入学できて誰でも卒業できる」時代かも知れません。
 うまい人=技術の優れた学生を昔と比較すると恐らく現代の方がレベルが高いと思います。違う言い方をすると音大を首席で出る人の技術は今の方が高いと言う事にもなります。音大卒業生の「平均レベル」は表しにくい面があります。各音大を卒業した「ある年」の卒業生の中で何人が?どのコンクールに?入賞したか?と言うデータは取れますが、それが平均値だとは言えません。進学塾は「何々中学合格何名」で生徒を集めますが、その数字も実際には信頼に値しません。進学塾が優秀と思われる子供と保護者に対し授業料を免除するなどして囲い込み、有名な学校を受験してもらいます。それが実状です。

先述したように「少子高齢化」「景気の低迷」「先行きの不安感」が長い期間続いています。改善される見通しがありません。企業で働く「サラリーマン」は給料が上がらない!事が大問題ですが演奏家は?
給料をくれる人=就職できる企業がない!のが実状です。
以前のブログで書いたようにコンピュータの進化と普及で演奏家の仕事は激減しました。結婚式やパーティーでの演奏の仕事も激減しました。教室で教えようにもレッスン代に使う余裕がなくなった家庭が増え習い事は真っ先に切られました。プロのオーケストラで欠員が出る可能性は年々減っています。定年年齢は変わらなくても定年ギリギリまで演奏する人が増えたことと、高い人件費=社会保障費を含むを払わなくても済む「エキストラ」でコンサートを開くオーケストラが昔よりさらに増えたこと

「多くの人に認めてもらう人気より本当に自分の演奏を喜んでくれる人を一人でも増やすこと」
「自分の演奏にこだわりを持ち続け他の演奏家との差別化を考える」
時代は変わりました。音楽が爆発的に流行することはありません。
特定の演奏家が話題になってもすぐにブームが終わります。
世界は狭くなり情報はスマホで24時間得られます。
クラシック音楽の演奏会が今後、増える可能性は極めて低い中で
自分の出来る範囲で出来る広報を行い、人との絆を大切にすることしか演奏家が絶滅せずに生きる方法はない気がします。
がんばりましょう!
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介。。

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「好みの違い」はどこから生まれる?

今回のテーマは「好み」が人によって違うことを掘り下げるものです。
音楽でも食事でも人それぞれに好き嫌いがあるのは当たり前のことであり、それは自分以外の人に対しても言えることです。
「私は嫌いな人は一人もいない」って人を見たら正直「ホント?」って思ってしまいます。
理想的には嫌いなものがひとつもない人間…かも知れませんが不自然な気がします。嫌いではなくても好きではないとか、こちらの方が好きと言う感覚はあって当然だと思います。
同じような環境で育った兄弟でも好き嫌いは違うもので、双子の姉妹でもそうだと聞きます。

何から何まで好みが同じ人は恐らく存在しないと思います。
では何故?いつの間に?人の好みは決まるのでしょうか?
離乳食を食べ始めた頃の乳幼児でも味の好き嫌いがあり、人の好き嫌いがあります。本能的に母親の声や匂いが一番安心できる事は誰でも想像できます。ただ今まで味わったことのなかったはずの離乳食の中で好きな味・舌触り・匂いはどうしてあるのでしょうか?

以前「臭いと感じる匂いはその人にとって有害な匂い」と言う話を聞いたことがあります。
ただ必ずしも害があるとは思えない気もします。例えば納豆の匂いが嫌いな人にとって発酵食品や大豆が有害だとは思えません。納豆が好きでもブルーチーズの匂いは我慢できないと言う人も珍しくありません。
生理的に嫌い!と言う言葉も耳にしますが根拠となる事実はなさそうな気がします。ただなんとなく嫌い…言葉に出来ないけれど嫌いという事はいくらでもあります。逆に何故か大好きと言うものもたくさんあります。
好きだった物が嫌いになったり、逆のケースも良くあります。好みが変わるのも生きていれば経験することです。この「変化」がどうして起きるのかを考えると何故好きになったのか?嫌いなのか?の謎を紐とける気がします。

好みが変わるきっかけがある場合もあります。
「食わず嫌い」もその一つです。先入観があって嫌いと思い込んでいた食べ物や音楽は子供の頃にはたくさんありました。初めて食べた時に「まずい」「嫌い」と感じた食べ物や音楽は次に同じものを食べたい・聴きたいとは思いません。二度目に我慢して食べたり聴いたりして判断が変わる場合もあれば「やっぱり嫌い・無理」と思うケースもあります。嫌いだった食べ物や音楽を好きになる共通項は「経験」することです。何回も嫌な経験をすることもありますが、「嫌いな食べ物や音楽」が「実は美味しい!好き!」と変わる経験ですね。
人間の五感「視覚・嗅覚・味覚・聴覚・触覚」は成長と共に変化します。多くの場合は徐々に鈍くなると言われています。ただ人間の視覚は乳幼児の頃には非常に鈍い=視力が悪いのが普通だと言われています。加齢と共に聴覚、視覚が衰えるのは一般的に知られています。
嗅覚を使って香水の調合をしたりワインの香りを嗅ぎ分ける職業の人もいます。もちろん犬や猫の嗅覚には及びませんが。視覚も空を飛ぶ「鷹」などは数キロ先の小動物を見分ける視力があると言われています。聴覚も人間が感じられる範囲より遥かに高い音を聴くことが出来る生物はたくさんいます。

そんな人間の五感と脳の記憶が繋がって「好み」が生まれます。

察するところ人間の好き嫌いに明確な違いは見つけられないと思います。記憶した物の名前と経験が「これは好き」「これは嫌い」と分類している事の方が多いと思います。
先入観を持たずに名前さえ知らない料理を初めて味わった時「何かに似ている」物を探そうとします。味覚の種類=塩味・甘味・苦味・うま味(これも入るようです)の組み合わせと匂い、食感=舌触り・噛み応えなどを感じて「好きな食べ物」かどうかを無理やり決めようとします。分析しているわけではないのでその料理の名前と「好き・嫌い」を記憶しています。
音楽もよく似ています。「これはクラシック音楽です」と先に伝えられて聴いた音楽がつまらない・面白くない・楽しくないと感じれば記憶として「クラシックは嫌い」と残ります。

クラシックって何?(笑)
戻ってしまいますが中華料理が苦手と言う人に中華料理ってどの食べ物の事?と尋ねて答えが正しく言える人はいません。そもそも分類自体が曖昧であり中華料理の定義さえ人によって違うのですから。
クラシック音楽にも厳密な定義はありません。さらに言えばベートーヴェンが作曲していた当時のベートーヴェンの作品は「クラシック」ではなく「現代曲」だったはずです。バッハでもストラビンスキーでも同じです。多くの人は演奏のスタイルでクラシック音楽が決まっていると勘違いしています。オーケストラでゲーム音楽を演奏した場合、クラシック音楽ではありません!が子供がその音楽を聴いていると親は「我が子もやっとクラシック音楽に目覚めたか!」とぬか喜びしていた話は有名です。

最後に今現在嫌いな音楽や食べ物がある人の場合を考えます。
もちろん何歳になっても好き嫌いがあって当然です。
死ぬまで一度も口にしないと決めた料理があっても誰も咎められませんし不幸だとは思いません。音楽も同じです。一生演歌は聴かない!ヴァイオリンでポピュラーは弾かない!と決めて誰かが困る?(笑)
一方で演歌が大好きな人からすれば「なんで?演歌の何が嫌いなの?」と考えるものです。

先ほどの中華料理の話ですね。
好きな食べ物・音楽に巡り合えた人は楽しみ・幸せを一つ多く見つけたことになります。好きな食べ物だけを食べ続けても絶対に!飽きない人は恐らくいません。音楽は食べ物と違って聴かなくても死にません(笑)から、一生1曲の演奏だけを聴き続けても健康には問題ありません。他の人から見れば「可哀そうな人」と思われるだけです。
どんな音楽、どんな演奏も嫌いになる客観的な理由はない事。自分が嫌いな音楽と好きな音楽に共通点が必ずあること。
演奏する楽器に不向きな音楽もあると思います。。それさえ人によって判断が異なることです。
他人の価値観を否定せず、自分の好きなものを増やすこと。
そんな生き方をしたいと願っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者との距離と楽しみ方

映像はかなり前の演奏動画ですが普段レッスンで使っていた教室のスペースで開いたミニライブ(コンサート)での演奏動画です。
映っているように私と最前列で聴いてくだっさているお客様との距離は1メートルあるか?ないか?の至近距離です。
今回のテーマは演奏を聴く時の「距離」で何が違うのかを考えるものです。

演奏する会場が「〇△ホール」と書かれている場合、一般的には客席数が100から数百席の「小ホール」と1,000席以上の客席を持つ「大ホール」に分かれます。
名称だけでは判断できませんが設計段階での「目的」があります。多目的に使うためのホールは残響時間を短くし講演や演劇の声を聞き取りやすくした音響を考えています。客席から舞台上が見えることも大切な要素になります。
音楽の演奏を主眼とする音楽ホールでも大音量のコンサートを開催するためのホールと室内楽やソロ、アコースティック楽器によるジャズライブなどに適したホールに分かれます。前者の場合にはステージの広さも求められます。残響と反射音は設計で変わります。金管楽器や打楽器の演奏では残響や遅延=ディレイは嫌われる傾向があります。一方で弦楽器のアンサンブルや独奏の場合には音域のバランスが取れた残響があった方が心地よく演奏を楽しめる上に演奏者も自分の演奏した音が返ってくるので安心して演奏できます。

ホールではない場所での演奏も立派な演奏会場になり得ます。
数千から数万人が一度に音楽を楽しめるような野外でのフェス、巨大なドームでのライブなどでの演奏もあります。音は電気的に増幅し巨大なスピーカーから聴こえてきます。演奏者を見るのもスクリーンに投影された映像になります。
ストリートライブや商業施設や駅構内で演奏するケースもあります。
演奏の環境は決して良いとは言えなくても演奏者を間近に感じられるのが最大の楽しみです。
それ以外にもサロンホールでの演奏や会議室、一般家庭のリビングでも演奏できます。広さも音響も様々です。
一度に多くのお客様を迎えられる会場での演奏と数名~数10名程の方に聴いて頂く演奏の違いとは?
一言で言えば「お金」の問題です。
大きな会場は使用するための費用が莫大になります。利益を出すためには来場者からの入場料(チケット代金)×来場者数で決まります。
小さな会場や会議室、リビングのような場所であれば会場費はほとんどかかりませんから入場料や人数を気にする必要はありません。
もちろん大きな利益を望むなら「大きな会場で高い入場料をたくさんの人に払ってもらう」事が条件になります。現在の不景気は日本で高い会場費に見合う集客をすることは極めて困難です。高い入場料を払えない人にとって演奏会が縁遠いものになっています。

そんな現代演奏家が生活する収入を得ることは本当に大変なことです。
「自然淘汰」と言ってしまえば簡単ですが若い演奏家や大手の音楽事務所のプロモートを受けていない演奏家にとって演奏する機会が失われています。
小さな会場でも少ないお客様でも演奏を聴いて頂ける場を提供してくださる方たちが増えることを願っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏者のメンタルとバイタル

映像は2012年12月に開催した妻、浩子さんとの4回目のデュオリサイタルの本番(演奏会)直前のステージリハーサル風景です。会場は私の地元相模原市橋本駅前の「杜のホール はしもと」です。
客席数525名で残響時間の長い弦楽器の演奏に適した音楽専用ホールです。
今回のテーマはメンタル=精神や心とバイタル=身体の状態(心拍や血圧など)が演奏者に与える影響について考察するものです。私は心理学や脳科学、医学の専門知識はありませんが演奏者として指導者としてどちらにも深い関心があります。読んで頂く方にも共感して頂ける内容だと良いのですが。

演奏する人の健康状態は演奏に大きな影響を与えます。
精神的な健康は身体的な健康と比例して変化することがほとんどです。
何故か?心=精神の健康について多くの人がネガティブな印象を持っています。

精神を病む…と聞くとまるで不治の病にかかり「ダメ人間になった」と考える人もいます。実際には脳の働きに問題が起こった時の「思考」と「身体」が普段と違う状態になることを指しているので「盲腸になった」「中耳炎になった」のと基本的には同じ「病気の一種」なのです。
また人によって自分や家族のバイタルに神経質になり過ぎている気がすることがあります。

例えば血圧が高い…医師や論文によって危険とされる「高血圧」の数値が全く違います。どれが正しい?という判断は自分自身で行うしかありません。セカンドオピニオン=複数の医師の診断を受けることの重要性はここにもあります。
バイタルに神経質な人はメンタルに関して関心が低い人が多い気がします。むしろメンタルは「どうにもならない性格・気のせい」だと思っている人も見受けられます。ちょっとした身体の変化に気が付く観察力は大切ですが、気になって日常生活や演奏に影響が出てしまうとしたら?もったいない気がします。

人間の体調はどんなに気を付けていても崩れることがあります。ケガも含めて色々は症状で時には医師の診断や治療が必要になったり、処方される薬の効果が出ない場合も良くあります。そんな時にメンタルまで崩してしまうと過剰なストレスが原因になって違うバイタルの悪化が出ることもあり、悪循環に陥ることもあります。演奏会やレッスンに向けて準備したのに思ったように練習出来なくなったり、本番で痛みや違和感を持ったままで演奏することも経験します。そんな時に精神的な強さ・柔軟性が救いになります。
人間は脳の働きでストレスを感じると交感神経が過剰に反応し免疫力も低下します。興奮状態になるとドーパミンが分泌され痛みや疲労に鈍くなります。穏やかな精神状態の時には副交感神経が強く反応し眠気を感じます。
そうした「脳の働き」と共に人間には一定の周期で体内の細胞が代謝=入れ替わりしていますから同じメンタルとバイタルをいつも維持できるとは限りません。いわゆる「波」が誰にもあるものです。経験を重ねる間に自分の波をある程度予測して、意図的に休んで身体を休めながらピークを演奏会に持っていけるような事も可能になります。もちろん予期しないアクシデントはあるものです。弦が切れたり、楽器の剥がれが見つかったり弓に不具合が見つかったりハード面の問題でもメンタルが弱いと対応出来ません。
アスリートの中でも平常から「明るい性格」「人にやさしい人柄」「おおらかな気持ち」の人は順位や結果よりも大切な「目的」と「目標」を持っている気がします。勝つことが目的ではなく、あくまでも「一つの目標」だったり、演技や演奏を自分自身が楽しむことを何よりも大切にしている人のメンタルの強さを見習ってポジティブな考え方で暮らす習慣を持ちたいと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト野村謙介

一瞬先を予測しながら演奏する

映像は私が一番!暗譜=楽譜を見ないで演奏する…に苦労した曲です。
ヴィオラとピアノによる演奏です。
アルヴォ・ペルト作曲の「シュピーゲル イン シュピーゲル=鏡の中の鏡」は、お聴きの通り非常にゆったりした曲です。「こんな簡単そうな曲が覚えられないの?」と思われがちですが実際に試して見てくださいね(笑)
リズムの変化は1曲の中でほとんどありません。旋律は「順次進行=隣の音に上がる又は下がる」が段々に長くなり最後に「A=ラ」の音に落ち着きます。自分が今、どこにいるのか?わからなくなる!結局私の記憶力が足りないのかも(笑)

今回のテーマは少しSFっぽいイメージがあるかも知れませんが「未来を予測する」ことが演奏に不可欠だと言う内容です。遠い未来…1分とか1日、将来と言う意味ではなく自分がこれから演奏しようとする音=次の音を演奏するための時間です。
当然、いま弾いている音が短い音なら次の音はすぐに演奏する必要がありますから、予測する時間も極めて短い時間にイメージしなければ間に合いませんね。間に合わないからと言って適当に=いい加減に演奏すれば無責任な音を演奏することになります。処理の速度を速くするトレーニングも大切です。

演奏に限らず私たちは日常生活でも無意識に次の行動を準備し、その結果を予測しています。極端な例えかも知れませんが「歩く」時もその一つです。
「足を交互に前に出す」足元に穴があいていたら?大きな段差があったら?
恐らく足元を見ることが出来れば足を下ろす場所の「安全」を確認しているはずです。これも予測です。歩く速度なら足元=次の一歩だけを予測すれば歩けますが自動車で高速道路を時速100㎞で運転している時には、はるか前方を見て危険がないか?予測しているはずです。
演奏で失敗しても怪我はしませんし交通事故にもなりませんが(笑)どんなに長い音を弾いていても常に次の瞬間を予測し続けることです。
音が伸びている状態でも常に身体の筋肉・関節のどこかを動かしているはずですし、呼吸もしています。または息を止めて演奏する瞬間もありますが、長い時間息を止めれば苦しくなるのは当たり前です。
ヴァイオリンやヴィオラの弓で考えれば長い音を伸ばす時、弓を遅く動かし圧力をコントロールしても、いずれ弓の終端に到着して音が切れます。つまり弓の終わる時間を予測して弓の速度を調整しているはずなのです。これも予測です。

次の瞬間を予測するトレーニングの一つに「視唱=ソルフェージュ」があります。初めて見る楽譜を練習せずに音(声)にする技術を身に付ける練習です。楽譜には音の高さ(音名や臨時記号を含む)とリズム(休符を含めた音の長さの組み合わせ)が書かれています。強弱や音色は視唱では必要とされません。いわゆる「譜読み」はこの段階を言います。
文字を読むことに置き換えるとよく分かります。初見で原稿を声に出す職業がアナウンサーです。臨時のニュースや放送中に地震があった場合などに、ディレクターから差し出される原稿を間違えずに読み上げる技術はアナウンサーに必須な技術です。
初見で文字を声にして読む=音読する場合、目で次の文字だけではなく次の文や次の行に書かれている文字を頭の中で考えています。つまり声に出している文字と目で見ている文字は異なっている事になります。声に出す速度=話す速さをゆっくりすれば目で追う文字も多くなります。逆に声にする速度を速くすれば目で追う文字を速く読まないと「読みながら話す」状態になってしまいます。

生徒さんの多くが先を読む技術が未熟であると感じます。
楽譜を読む速度をあげるトレーニングは集中して行えば数カ月から数年で相当なレベルアップが可能です。視唱と聴音=書き取りの組み合わせでさらに効率的に読譜技術が高くなります。
楽譜を読むことが苦手な人や大人の生徒さん、視力が極端に低い(今の私のような)人には楽譜を覚える努力が必要です。覚えるから予測は不要か?答えは「いいえ」演奏する以上は常に先を予測します。楽譜を読む技術が身についている人…例えば音大生の場合でも暗譜は「楽譜を覚える」事と勘違いしていたり、意味もなく楽譜を置いて漫然と楽譜を見ながら演奏している人を見かけます。もちろん初見や初見に近い状態で演奏する時に楽譜がなければ演奏は出来ませんが、楽譜がないと演奏できない「理由」を言葉に出来ない人は演奏中に予測する意識・身体の動きを覚えようとする意識がかけている場合がほとんどです。
どんな楽器の演奏も「運動」を伴っています。無意識に出来る運動もあります。呼吸や健康な時の歩行が該当します。一方で意識を運動に集中しないと出来ない運動もあります。例えば「初めて鉄棒で逆上がり」をする時や「初めて補助輪を外して自転車に乗る時」、「初めて自動車を運転する時」など、身体のどこを?との位の力で?どう使って…と意識しないとうまくだきない段階があります。
ヴァイオリンを演奏する人が無意識に音を出した場合、出てくる音は「偶然に出た音」です。つまり結果だけなのです。経験を積むと意識しなくてもピッチ=音の高さを「ある程度」正確に演奏できるようになります。音色や音量も「なんとなく」なレベルの音は無意識に出せます。自分の演奏した音が「自分の意識していた=予測していた音」だったのか?と言う観察は前提として「出したい音があった」と言う意味です。無意識に出した音の反省を繰り返しても、予測して出した音とは別次元のものです。
繰り返し予測=意識することで、身体が運動を記憶します。ただ運動の記憶は一時的なものなので、繰り返すこと、時間を開けて練習することで脳に記憶されます。同じパッセージを続けて10回練習するより、1回ごとに予測と結果を記憶して数回練習して、違う練習をしてから復習を繰り返す練習が「記憶を長続きさせる」練習になります。ぜひ、お試しください。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト野村謙介

指使い(フィンガリング)と弓付け(ボウイング)を考える

映像は14年前のデュオリサイタル4(代々木上原ムジカーザ)での演奏。ラフマニノフ作曲「ヴォカリーズ」を陳昌鉉さんの作られたヴィオラとベーゼンドルファーのピアノで演奏しています。陳昌鉉さんが客席で聴いてくださった最後のリサイタルとなってしまいました。
 今回のテーマはヴァイオリン・ヴィオラの演奏で左手の指使いと右手の弓使いについて私見をまとめたものです。

教本の多くは印刷された=指定された指使い・弦・弓使いを厳守して練習=演奏することが求められます。一方で多くの「演奏会用曲=一般の曲」では楽譜に書かれた指示(指・弦・ダウンアップ)が少なくなり出版社や編集者によっては全く違う指示が書かれている事がほとんどです。教本の指定を守って練習することで「セオリー」を覚えます。レッスンで指使いや弓使いが教本と違うと先生に注意される事も当たり前の事のようです。一つは楽譜の指示通りに演奏する技術の修得です。アンサンブルやオーケストラで演奏する場合、特に弓付けの指定は指揮者の要求やトップの指示で変更されることが多く、一人だけ弓が逆になれば見た目でもアウト!です。演奏する弦の指定がある場合も同様です。
もう一つの目的は自分で指使い・弦・弓使いを考えられるようになるためのセオリー=原則を覚える目的です。実際には曲=音楽によってセオリーが変わります。テンポ、音域、音量、リズム、作曲された時代によっても原則は違います。練習する過程で様々な指使いを練習することで「技術のボキャブラリー=引き出し」を増やす事が大切です。単に演奏しやすいだけの指使い・弓使いではなく、意図を持って決めることが出来なければ演奏できる音楽の幅も極端に狭くなります。音階教本のバイブルでもある「カールフレッシュ」の教本を練習し、分厚い教本のすべてをスラスラ演奏できる技術があれば恐らくどんな曲でも演奏可能になると言っても過言ではないと思います。昔イツァーク・パールマンが「どんな練習をすれば?」と言う質問に「私はカールフレッシュの音階だけで十分!」と答えていたのを思い出します。

少しだけ自分で考える指使いと弦、弓使いについて私のこだわりを書いておきます。
前提として演奏者の解釈=好みによって異なる事で正解はないという事を述べておきます。その上で自分の好きな指・弦・弓使いを考えて決めます。当然ですが演奏するすべての音は「1種類」の組み合わせでしか演奏できません。
左手の指=指使いで言えば
1.開放弦
2.1~4のいずれかの指で押さえる
3.自然ハーモニクスか技巧フラジオレット
の中で一つしか使えません。
弦で言えば4本の弦のどれか1本です
重音=和音の場合には上記の1から3の指使いと隣り合った2本の弦を同時に演奏しますが使用する2本弦は
1.EとA
2.AとD
3.DとG
のどれかを選びます。低い音域の場合には限定される場合もあります。
理想的には人差し指=1から小指=4までの4本の指を同じように使えることが理想ですが、人によって掌の大きさ、指の長さ、指の太さが違います。パッセージによってはポジションを移動しないと届かないケースも人によっては考えられます。トレーニングによって改善される指の動きの速さと強さ、開く距離、関節の柔らかさがあります。
演奏する弦の選択は多くの場合に自分の好みの音色と前後の音との関係で決まります。弦を変えても音色を変えない技術も練習で身に着ける必要があります。1本の弦で音域の広いパッセージを演奏する場合にはポジションのスムーズな移動と指の選択が必要になります。
グリッサンドやポルタメントを入れたいのか?入れたくないのか?も選択肢の一つで指使いも変わってきます。

次に弓使いについて。

一般にダウン(下げ弓)アップ(上げ弓)ばかりが注目されがちですが、むしろ一音ごとの発音=立ち上がり→弓の動き→音の終わりの処理が重要です。連続して音を演奏する場合「レガート=滑らかに」演奏したい場合の発音と最後の処理が重要になります。スラー記号があっても音符の上下にテヌートやスタッカート、アクセントの記号が書かれていればレガートではなく「弓の動く方向」を指定=同じ方向に動かすことを指示しています。
スラーがついていなくてもレガートで演奏する技術も必要です。一音ごとのアタックを付けずに弓を「返す」技術とアタックの強さをコントロールして演奏する技術を身に着けることが重要です。

さらにすべての音は弾き始める弓の場所と弾き終わる場所があることを常に考えることです。ダウンを弓のどこから?どこまで使って演奏するのか?が重要だという事です。ピチカート以外のすべての音は、弓の運動で音が出ます。短い音の連続=速いパッセージでも長い音の連続=ゆっくりしたパッセージでも弓の場所と速度が最も大切です。

映像にあるヴォカリーズのように原曲が歌曲の場合には、特に音の強弱と弓の物理的な長さを考えた「弓の速度と場所」が重要になります。長い音の連続する曲やレガートで演奏したい時に「音の長さ」と「弓の長さ」を考えた弓付けが必須になります。弓の運動は通常「往復運動」ですから「つじつま合わせ」が必要になります。楽譜にスラーやダウン・アップの指示がある場合、指示通りに演奏すれば「つじつまが合う」はずですが楽譜によっては頭をひねる事も多々あります。弓付けは音量と音色を決定づけるものですから、指使いと同じ重要性があることを忘れないことが重要です。

指使いや弓付けを考えるために技術の修得と共に経験を積むことが何よりも大切になります。演奏する会場の広さと残響・響きによって変更するケースもあります。大きな音量を必要とする会場の場合と、サロンのように演奏者と客席が近い場合のボウイングや共演するピアニストとのバランスでも弓付けを変えられる柔軟性と適応力は一朝一夕に体得できるものではありません。練習と違う環境で演奏することを前提に色々な組み合わせの指使い・弓使いを考える事も必要になっていきます。
冒頭に述べた通り正解のない自分だけの音楽を創ることに楽しさを感じられるように常に多様性を持った演奏を心掛けたいと思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

敗者のいない勝者はない

映像はオリンピックフィギュアスケート女子シングルで2位になった選手のインタビュー映像です。今回のテーマは序列付け・勝敗について考えるものです。平等という言葉の意味を取り違えると「すべて同じ」が正しいと勘違いします。生き物には個性があります。まったく同じ人間は地球上に存在しません。能力も違います。人間の技術や知識の優劣・序列を決めるケースは日常生活でも珍しい事ではありません。
例えば入学試験は合格者を決めるための序列付けです。もしも試験がなくなれば「くじ」か「じゃんけん」で合否を決めることになります。学校の求める学力や技術の「レベル」は無視されますね。
また勝敗を決める競技の場合には「引き分け」でない限りどちらかが勝者でもう一方は敗者になります。すべての「勝負」で同じことが言えます。一人だけで勝負することは物理的に不可能なことです。
入試であれ勝敗を決める競技であれ、参加する人は自分が不合格・敗者になる覚悟を持って参加します。最初から不合格になる・負けることを望んで参加するのは最近逮捕された変な男性のように「他人を当選させるために選挙に立候補する」ような変人だけです。そんな人に勝っても負けても「胸糞が悪い」と感じるのでは?

話を戻しますが「合格したい・勝ちたい」と思った時から努力が始まります。努力せずに期待する結果を求める人もいるかも知れません。努力の質や量についての基準はありません。人それぞれの価値観で「精一杯の努力」が変わります。他人から見れば「努力が足りない」と思われるケースもあれば「あんなに努力したのに」と思われるケースもありますが、最後に結果が出てから努力について評価しても結果は変わりません。次のチャンスがある人にとっては反省や改善のために「振り返り」は有意義ですが、最後の挑戦だった人にとって負けたこと・合格できなかったことはすべて受け入れなければならない現実でしかありません。「また挑戦すれば」と他人が言えることではありません。本人の決めることです。

さて今度は勝敗・序列のない世界について考えたいと思います。
何よりも「生きること」には勝ち組も序列もないことです。
「社会の勝ち組・負け組」と言う表現を耳にしますが正直に意味がわかりません。生き方に他人が優劣を付けること自体が間違っています。ホームレスの生活を望む人がいて「負け組」と決めつけるのは自分が勝ち組だと思っている証拠です。国会議員になったら勝ち組?それも価値観の問題です。
そもそも自分が誰かと勝負して勝ちたいと思うのであれば、まず自分以外の人と同じ基準・同じルールで勝負することに同意してもらうことが先決です。勝負を望んでいない人と自分を勝手に比べて「勝った!」って喜びませんよね?独り相撲とはこのことです。
音楽で考えます。音楽高校・大学に入学するための試験を受ける人は不合格になる覚悟を持って挑戦します。不合格になったから音楽を捨ててしまう必要があるでしょうか?いくらでも音楽を学ぶ方法が他にもあります。コンクールに挑戦する人は一位=優勝することを目指しながら他方で予選落ちする覚悟も持っています。
入試では全員が不合格になることはほとんどありません。全員が合格することはあり得ます。受験する人の人数と合格できる人の人数さらに合格のボーダーライン(=学校の求めるレベル)によって結果は変わります。同じようにコンクールも参加する人のレベルと人数によって結果が変わります。時によって「1位・2位なしの3位」と言う結果も珍しくありません。参加者全員が1位には絶対になりませんが(笑)
「時の運」とも言える結果で受験した・参加した人の結果が変わります。その人の技術・能力の序列は「その時・その場だけ」の結果です。オリンピックでも同じですが優劣を付けるのは「1回だけ」のことかスケートのグランプリシリーズのように年間の順位で序列を決めるもの…つまり「限られた条件での序列」でしかありません。
条件が変われば結果が変わる「程度」の序列に一喜一憂するよりも自分にしかない個性を活かすことにこそ時間と労力をかけるべきだと思います。音楽の表現方法や演奏するプログラムには制約も年齢制限もありません。自分の好きな方法で好きな音楽を好きなように演奏することで誰かが喜んでくれることが演奏する意義だと確信しています。
演奏に序列を付けることは無意味です。主観に序列は付けられません。人間に価値の差を付けるのと同じ行為です。他人に迷惑をかけない演奏であれば、どんな演奏にも価値があります。自分の演奏に自信を持つことは最も難しいことです。誰かより下手だとか、自分の思い通りに演奏できないから「ダメ」と思うのが普通です。その一線を超えた時に新しい表現が出来るものだと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介