メリーミュージックブログ

演奏家夫婦が優しく丁寧に指導

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2026年

生演奏は消えるのか?

 今回は演奏を聴いて楽しむ立場で「生演奏」と「録音の演奏」それぞれの楽しみ方を考えるものです。
 演奏する立場での違いも含めて考えていきます。
まず「生演奏」つまり演奏者が実際に演奏する音を聴く場合について考えてみます。
 元より演奏は「人間の前で人間が行う」芸術として誕生しました。
演奏する場所に聴く人が居て、演奏する人が、曲を演奏します。
教会での演奏もあれば、コンサートホールや宮殿での演奏もありました。演奏する人が一人の場合も二人の場合もあれば、オーケストラのように大人数での演奏も昔からありました。演奏される音楽は「その場限り」で消滅するのが当然でした。同じ音楽を同じ人の演奏で「もう一度聴きたい」と思っても実際にはとても困難だったはずです。すべての演奏が「一期一会」で始まったのが音楽の演奏でした。
「電波で音を離れた場所で聴く技術」が発明されて「音を録音する技術」が誕生してから、音楽の聴き方も変わりました。「ラジオ放送」で音楽を聴くことが出来るようになり「レコード」を自宅で再生して音楽を好きな時に聴くことが出来る時代になりました。
 それでも「生演奏」は残りました。ある意味で「どうして?」と言う疑問が生まれます。放送やレコードで音楽を聴くことが出来るのに、わざわざ会場に出向いて音楽を聴く‥なぜ?生演奏が残ったのでしょうか?

音楽を聴く事、演奏することが楽しいと感じる人にとって「便利」「簡単」が優先するとは限りいません。人間の「欲求」として、快楽を求める欲求はどこまでも続きます。一方で「便利」になる発明には「ゴール」があります。「身体を動かさなくても生活できる」ことです。音楽を聴きたいと思えば「音楽を聴きたい」と声に出せばAiが応え好きな音楽を選んで自分の好きな音量、音色で再生してくれる生活は目の前にあります。それ以上に便利にしようとすると?考えただけで「思ったこと」をコンピューターとロボットが叶えてくれる「ドラえもん」の世界観です。
 以前のブログでもこの話題は取り上げましたが、どんなに文明が進化しても人間が自分の身体を使って「楽しむ」事は残すのではないかと想像しています。自分の代わりにロボットが演奏してくれても「演奏を楽しんだ」とは感じません。VRで視覚・聴覚・嗅覚・触覚を疑似体験出来て「旅行してグルメを楽しんだ気分」を自宅に座ったままで体感できる日が間もなく現実になります。自分の足で歩いて旅行するより安く・安全に・簡単に体感できる「VR旅行」
 好奇心が勝る「プロセス」があります。VRコンサートが当たり前になる日、次に求めるのは「実際の生演奏を聴きたい」という欲求だと思います。
 CDの売上より30センチLPレコードの売り上げが多くなってきました。「作れるもの」であれば一度消えてしまった文化=アナログレコードを蘇らせることは可能です。「設計図」と「材料」があればできる事ですが「人間の技」はそうはいきません。
 演奏できる人間の「必要性」が下がれば、あっという間に演奏家と言う職業は消滅します。アイドル歌手のように「容姿」「イメージ」だけで人気が出る職業とは違います。「職人芸」を絶やすことは人類の大きな損失です。すでに世界中で多くの貴重な「技」が絶滅しています。需要がないから・売れないから・もっと便利なものがあるから・もっと安価に作れるから…様々な理由で伝統の技が消えていきます。
 演奏を「人間の技」と考えること。演奏する人間を残せるのは聴く人がいて初めて出来ることです。ぜひ、人間が演奏する「コンサート」に足を運んでください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽を「創る人」「演奏する人」

 映像は2026年6月6日(土)に八王子の「ロゴス教会」で開催したコンサートの一幕です。「SAKURA」というヴァイオリンとピアノで演奏する作品を作曲された久木山直(Kukiyama Naoshi)氏をお招きし、SAKURAを演奏する前にお話を伺った場面です。

 久木山氏と私たち夫婦は同じ大学(桐朋学園大学)の卒業生です。
久木山氏は「作曲専攻」浩子さんは「ピアノ専攻」私は「ヴァイオリン専攻」なので細かい履修内容は違いますが、小さな校舎でしたので学内で顔を合わせることもしょっちゅう。授業でも一部(体育)で一緒に学んでいた「学友」です。
 久木山氏のプロフィールを私が偉そうに書くことは余りに失礼だと思うのでこちらでは割愛します。関心のある方はネットで検索してみてください。

 今回演奏させてもらった「SAKURA」はFacebookのメッセンジャーに「こういうの書きました。よかったら弾いてみて」と言う言葉とPDFの楽譜データ、さらに久木山氏がDTM(コンピュータで演奏した音楽)も一緒に送られてきました。
私の反応「え?ホントに弾いていいの?」
音源を聴いた第一印象「桜…」の風景でした。音楽的な事より先に「イメージ」で頭が埋まりました。
自分が演奏すると言った手前(笑)次に「どうやって弾こう」と考えます。楽譜を2小節ほど大きなモニター画面に映して覚える作業と並行して「音源」を聴いて覚えます。
動画の中で久木山氏が話している通り「技巧的には」恐らくアマチュアの方でも演奏できる?「譜面=ふづら」です。四分音符と二分音符」だけのヴァイオリンパート。テンポの指示は「モデラート 四分音符=116 4分の6拍子」…ふと疑問。なんで?二分の3拍子にしなかったんだろう?いつか本人に聞いてみようと思いつつ、コンサート当日も聴き忘れました(笑)

さて久木山氏のお話しの中で「気恥ずかしい・シャイ…まぁ多少嘘なんだけど…」と言う部分がありました。演奏する側も作品=楽譜を解釈する時、さらに人前で演奏する時に「照れる」気持ちがどこかにあります。私の場合は自分の解釈や表現、演奏技術に自信が持てないことが一番の原因です。それでも聴いてくださる方の前に出れば「堂々と」「自信たっぷりに」演奏している「ように見える」ように(笑)自分を鼓舞します。鼓舞と言うより暗示をかけます。
 演奏は本来「その場で消滅する芸術」です。演奏を聴いた人の「記憶」だけに残るものですが、作曲家の「楽譜」は違います。時代を超えて延々と演奏され続ける「後に残る芸術」です。絵画や陶芸の作品に似ています。ただ大きく違うのは楽譜の場合には演奏者が介在して「音」になって人に聴かれる=音楽になるという点です。絵画は描いた人と見る人の「間」には空間だけがあります。
 作曲という特殊な音楽活動がなければ「クラシック音楽」は存在しなかったことになります。「楽譜」があったから300年も昔の作曲家の作品を今、演奏できる。これ、すごいことです。
 その楽譜を書く=作曲をする人が「何を思って作曲したのか」と言う想像は演奏者にとってはある意味で「空想の世界」です。作曲者本人が、ある作品についての「思い」や「背景」を文字として残している場合も稀にあります。作曲者自身が演奏したり指揮をした「録音」が残っている近現代の作品もあります。
 SAKURAが久木山氏の頭の中でどうやって?誕生して楽譜になったのか。その一端を動画の中で聞くことが出来ます。
この動画の前に私のMCで「作文」を例えに出して話をしています。子供に「自由に作文してごらん」と言うと子供が困る。「遠足の事を書いてみよう」と言えば子供は書きやすい。そんな話をしました。
久木山氏が「遠足」と言っているのはその事です。
さらに興味を持ったのが「ホットではなく秩序のある中で美しい音楽」と言うお話しでした。言われてみれば「感情を表に出した音楽」は演奏しやすく感じます。悲しみ、喜びを感じる曲の多い中でSAKURAは聴く人の想像力をより一層強く刺激する気がします。
もちろん私は「桜」そのものをタイトルからイメージしましたが、タイトルがなかったとしても「静」な中に感じる「動」「規則性」「微妙な変化」から連想されるイメージがあったと感じます。

こちらの動画は「アルヴォ・ペルト」作曲の「鏡の中の鏡」をヴィオラで演奏した時のMCと演奏映像です。もちろん久木山氏もペルトの事はご存知でした。「規則性」と言う点でこの曲は「対照図形」を連想させる曲です。旋律は全音符だけ。ピアノは常に同じリズム。楽譜を見ると一見「なに?これ」と思うほどシンプルですが聴いていると不思議な空想の世界を感じます。

 音楽の「種類」を無理にカテゴライズすることに違和感を感じる私ですが、どんな音楽であっても「作曲者」が実在するのが当然でした。過去形にしたのは今後、近い将来にAIが作曲する事が当たり前になれば「作曲者」が実在しないことも当たり前になるかも知れないと考えるからです。「バッハの平均律第1番《風》で短調でメロディーはCからCのオクターブ内。重音はなし。臨時記号は1か所」などの条件を言うだけでAIが作曲する…それを「AIが演奏」する。
 確かに人間の学習能力の限界を超えて「記憶」「分析・解析」「処理」を行える人工知能が現実のものになっています。さらに深化・進化すれば人間の感情を分析した結果をもとに「感情の揺れ」も作曲と演奏に取り入れたコンピューター音楽が誰でも使えるようになるでしょう。
 作曲「者」演奏「者」が居なくなる時に「聴く人」だけが人間になるのかもしれません。それは止められない事であり時代の文化として当然のことかも知れません。
「曲を作る」「音楽を奏でる」行為は人間の欲求として消えることはない…とも考えます。

聴く人にとって、機械が作曲した音楽を機械が演奏していても、全く気付かない日が必ずやってきます。人間が人間のために考えて作った音楽を、想像力を働かせ時間と労力をかけて演奏する人間。その一人として今現在も音楽に関われている事に感謝しています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

信じること・疑うこと

映像は2026年6月6日(土)に日本基督教団ロゴス教会で開催したコンサートから「追憶~愛しい人へ」と題した曲の演奏動画です。
キリスト教の教会。私も浩子さんも信徒ではないのですが、教会での開催を快く許可して頂くことが出来ました。
東京都八王子市にあるロゴス教会は傾斜地に建てられた立地を生かし、恐らく4階分ほどの高さのある吹き抜けと、一面全体がガラスの開口部で窓の外には牧草地帯と青空が広がる素晴らしい教会です。
来場されたお客様の中には、この教会で結婚式を挙げられた方、お父様のご葬儀を行われた方などもおられました。
「信仰心」はまさに「信じること」が基本です。
対象が神であれ仏様であれ、人間や「物」であっても「信じる」ことは「疑うこと」の裏側にある言葉だと思います。
今回は音楽を演奏する時に、何を信じ何を疑うべきなのか?について考えるものです。

言葉で「自分を信じる」と言うのは簡単です。実際には自分ほど信じられない存在はないように感じるのは私だけでしょうか?(笑)
「他人の言葉は疑ってかかれ」と言われた経験があります。本来なら人を信じる事は「良い事」ですが、中には悪意を持って他人を騙す=嘘をつく人もいます。「振り込め詐欺」がまさに高齢者の「信じる純粋な気持ち」を逆手に取った卑劣な犯罪行為です。
飛行機や船に乗って旅行する時に落ちないかな?沈まないかな?と不安に感じる人←私もその一人…は安全性に疑いを持っている人ですね。実際には飛行機事故は雷に打たれる確率よりも遥かに低いことは知っていても「絶対」ではないことを考えれば、疑う気持ちもご理解いただけるかと(汗)
 演奏中に一緒に演奏する人を信じることが出来なければ音楽にはなりません。偶然「タイミングがあっただけ」の演奏と演奏者同士がお互いを疑わずに、ある時は助け合い、またある時は感動を共にする演奏が音楽だと考えています。
 自分の楽器を信じることも演奏には不可欠です。演奏中、演奏直前に弦が切れないかな?と不安になるのは自分がメンテナンスを怠った結果「楽器を信頼できない」状態に陥っている状態です。
 ホールのスタッフを信じることも大切です。調律師を信じることも。言い換えれば「疑い」を持った心理状態で音楽に集中することは出来ないという事になります。
 逆に「疑うべき」なのは日頃の練習時、自分の演奏に対する疑いです。常に自分の演奏を第三者の耳と目で観察することは自分を信じないことでもあります。「出来ている」「問題ない」と無意識に感じている時には自分の音を聴いていません。他人の演奏を聴く時には些細なミスや微妙なズレに反応する耳がありながら自分の演奏には反応しない。これが「過信」です。
 演奏会の直前に自分に対して疑心暗鬼になるのはマイナスです。
「自己暗示」で自分を信じるトレーニングをすることも演奏者には必要な訓練だと思います。舞台で演奏する自分は「世界で唯一の演奏者」だと考えることも良いイメージにつながります。

「信じるものは救われる」これは間違っていないと思います。
「ただより高いものはない」これもまた間違っていません。
自分が何を信じるか?何に対して疑いを持つか?その判断が正しかったか?間違っていたか?という結果は判断する時には誰にも分からないことです。
疑う事を前提にすれば「騙される」リスクは減りますが、得られるチャンスや巡り合いを逃すリスクが増えます。
逆に信じることをベースにすれば、良い結果に出会う可能性・確率が高くなる半面、騙されたり失敗の原因になった時の後悔が大きくなります。
 その人の性格によって決まることです。日常生活で選択することは常にあります。その都度、自分の価値観で判断しています。
 楽器を選ぶ、弓を選ぶ際に「何を信じるか?」もちろん、自分の目と耳と情報・知識があれば何も迷う事はありません。しかし実際は自分より専門知識を持つ人や信頼できる人の「言葉」を信じて選ぶことになります。「信じられる人」か?否か?の判断も自分の価値観です。楽器店の店員さんを信じるか?疑うか?
「私を信じてください」と言葉にする人ほど疑ってかかるのは私だけ?(笑)過去の経験からなのか「信じて」と言われると「胡散臭い」と感じます。もちろん「嘘だから信じないでね」と言われて信じる人もいませんが。
 演奏する人を信じたくても信じられない…これは悲惨です。
盲目的に良く知らない人を信頼するのは良い事だとは思いません。
音楽を一緒に演奏する「相手」を一人の人として会話したり一緒に行動した時間の中で感じる「信頼感」があります。感じられない人と一緒に演奏するのは…正直「二度と一緒に演奏しない」と心に誓いたくなります(笑)
 コンサート会場に来場されるお客様は「演奏者に期待する」からお金を払い労力と時間をかけて会場に来られた方です。知らない演奏者なら「期待と不安」が半々?ですね。その期待に応えられれば「信頼」が生まれます。期待を裏切る演奏会なら後はありません。
 教会と言う神聖な場所で演奏させて頂いた経験を、これからの演奏に活かしていきたい…

神に誓えませんが本当にそう思っています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

演奏の環境を考える

映像は五嶋みどりさんのドキュメンタリー番組です。
現在54歳?かな?「天才少女ヴァイオリニスト」と評価を受け世界各地で演奏活動、教育活動に取り組んでいる彼女の生き方に憧れを感じ、心から尊敬するヴァイオリニストの一人です。
 この番組の中で弓の毛を2~3週間に一度張り替えてもらっている事を話しているシーンがありました。いつもそうなのか、現在は?など詳しいことは分かりません。
お寺や学校の音楽室でも「真剣に」演奏する彼女はクラシックヴァイオリニストとして、ましてや世界中から演奏のオファーが来るソリストとして「信じられない悪条件」でも演奏しています。
 今回のテーマは楽器を演奏する際に、どこまで整った=理想的な環境で演奏できるか?を理想と現実の両面から考えるものです。

「演奏する場所」「楽器・弓のメンテナンスと準備」「共演する人との練習時間」など色々な「環境」があります。演奏者が決められない環境もあれば「お金に糸目を付けなければ」叶えられる環境もあります。どの環境も演奏する人の価値観=考え方で本人の満足度も変わります。五嶋みどりさんのように窓もなく雨の吹込みそうな「お寺」で無伴奏の曲を演奏することを「考えられない!絶対に嫌!」と言う人の方が多いはずです。まさに「湿度100%」の環境でも五嶋みどりさんはいつも通りに演奏しています。聴く人に「音」より「五嶋みどりという人間」が感じられるのは彼女の「人間性」だと思います。
 楽器や弓、弦などを「理想の状態」で常に維持し演奏するためには莫大な費用が必要になります。ただ「演奏者の価値観」によってこれも大きな違いがあります。「ストラディバリウス以外は弾かない」と言うソリストもいるでしょう。「弓は〇〇△以外は使い物にならない」と言う価値観の人もいます。弦を演奏会の度にすべて張り替えないと気が済まない人もいます。弓の毛の張替えもその一つです。
 すべてが「演奏者の価値観」で自分にとって納得のできる環境とそうでない=我慢して演奏する・演奏しないことを選ぶ場合があります。
小さなことですがコンサート会場で演奏中に聴衆の「咳」で演奏を中断したソリストもいました。これも「価値観」と言えます。
「妥協」「我慢」と言うネガティブな思考は避けたいものです。
同じ環境でも「これで十分」「これ以上は望まない」と本心から思える思考でありたいと思っています。
 日常生活を送るのにも同じことが言えます。今の環境を「不幸」「不運」「最悪」と考えるか?「生きていてラッキー」「こんな時もある」と受け入れて生きられるか?同じ環境でも「思考」によって幸福にも不幸にもなるのが環境です。「犠牲」とか「我慢」と言う言葉は実はとても贅沢な環境だけを望んでいる時の発想です。
演奏する機会があることは演奏家にとって最大の幸せです。演奏する機会がなければ「頭の中で演奏会」を開くしかありません。
「恵まれた環境」に長く接していると少しでも環境が悪化しただけでも「最悪だ!」と思いがちです。演奏家にとって一番恐れるべき「落とし穴」だと思っています。自分にとって理想の環境で演奏できるとしたら、それは間違いなく最高の幸せかも知れません。しかし「結果」つまり演奏が自分の理想=思っていた演奏が出来るか?出来ないか?は環境とは別の問題です。どんなに理想の環境で演奏しても自分が納得できる演奏が出来るとは限りません。むしろ「環境が悪かったから」と現実から逃避する事になります。もっと良い楽器を!もっと良いホールで!もっと!もっと…まさに「麻薬」のようなものだと思います。
理想の環境には遠く及ばない環境でも「演奏できる」だけでも幸福感を感じられる演奏者は、演奏だけに集中できます。楽器のせい、弓のせい、弦の…弓の毛の…ホールが…など自分の演奏とは無関係な「理想の環境」より現状での精一杯の演奏が出来れば納得できます。

 演奏者にとって理想の環境を常に維持できる生活は「夢」とも言えます。それは音楽を聴く人にも言えることです。毎日のように好きなコンサートに行って最高の席で聴き「タクシー」で会場と自宅を往復し帰りには好きなレストランで食事…それが夢の環境かも知れません。この不景気で「S席」を諦めたり我慢してYouTubeを見て「行ったつもり」を味わう人も多いはずです。
 昔ある生徒さんに「演奏家って夢を見させてくれる職業ですね」と言われたことがあります。なるほど…と思いました。演奏家自身は現実の世界で日々の生活に苦しんでいたとしても、舞台に立って音楽を演奏する時、客席にいる聴衆にとって「夢の時間」であることは事実です。その意味で演奏家の「生活、くるしー!」なんて聞きたくない気持ちもわかります(笑)私から見て「夢のような環境」で演奏をしている知人や友人もいますが、本人たちが幸せなのか?までは知りません。「隣の芝生は…」なのかも知れません。
 自分が今与えられた環境の中で「あるがまま」を受け入れて演奏し、いつか!もう少し!と言う夢を持って生きていたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

梅雨を乗り切るヴァイオリン管理方法

 2026年5月29日。じめじめした季節が始まりました。
「梅雨」綺麗な文字とは裏腹に、人間も木製の楽器も「不快」なシーズンの到来です。

もちろん農作物にとってこの季節が大切なことは間違いありませんが、日本が「亜熱帯気候」の地域なんだと思い知らされます。
 ヴァイオリンなどの弦楽器にとって「湿度」の変化は温度の変化以上にダメージを受ける「大敵」です。
 以前紹介した「ストラディバリウスの謎を解明」などのブログで書いた通り「本来」ヴァイオリン制作に用いられる木材は伐採され、板状に切られた後で自然乾燥させてから加工が始まります。
 元々水の分子=水分を含んでいた木材を数カ月から数年かけて自然の状態で水分量を減らすることで「締まった音」「乾いた音」が出せるようになります。水分の多い木材は「余韻のない音」で余韻も少なくなります。
 正しい工程で作られたヴァイオリン程、空気中の水分を「吸い込みやすい」性質になります。例えて言うなら「タオル」2枚のうち、1枚を水に浸し軽く絞った状態にして、もう1枚のタオルはアイロンなどで水分を蒸発させて、湿度の高い浴室などに放置したら?
濡れたタオルは乾くこともなく、それ以上水分を含むこともなく同じ状態。一方で最初はカラカラに乾いていたタオルは、みるみるうちに水分を吸い取って「湿気た状態」になるはずです。
 今回は梅雨時のヴァイオリンの管理方法について私の経験ももとに考えてみます。

 ヴァイオリンは「演奏するための楽器」です。飾って鑑賞するための美術品ではありません。
1.ヴァイオリンを演奏する時間の対策
自宅で練習する場合やホールなどで演奏する場合にヴァイオリンに「一番近い場所」に演奏者がいます。梅雨時、蒸し暑い場所で演奏すれば「汗」をかきます。手だけではなく首にも顔にも胸部にも汗と言う水分が楽器に吸い込まれます。部屋が蒸し暑いという事はヴァイオリンの周囲の空気にも多くの水分がありますから、演奏しなくても楽器は湿気を吸い込もうとします。楽器を「守ってあげる」気持ちがあるなら扇風機でも冷房でも良いので演奏者が汗をかかずに演奏できる環境を整えることです。楽器も喜んでいます。小まめに汗をふき取ってあげることも大切なことです。ヴァイオリンの表板よりも裏板=背板の方が身体の汗を吸い取りやすい場所にあることを忘れずに。
2.ヴァイオリンをケースに入れて持ち歩く時の管理
まず「ケースは密閉容器ではない」ことを考えてください。
密閉容器なら中に入れたものは外気の湿度に影響されにくくなります。容器によっては蓋を閉めたあとで容器の中の空気をポンプで抜き取るものもあります。ヴァイオリンのケースは?空気どころか「雨水」までケース内部に入ります。「高級なケースだから」と思われますが実際にカーボン製、樹脂製の多くのヴァイオリンケースに水をかけて「水漏れ」をテストした結果を見ています。メーカーは控えますが「最も高額」なケースは蓋の合わせ目から大量に水が入りました。
密閉されていないケースの中で「除湿剤」は効果があると思いますか?除湿剤が吸っている水分は「ケースの外の湿度」です。外出中なら屋外の私たちが吸っているのと同じ空気です。
 少しでもケース内に雨水を侵入させたくなければ「蓋の継ぎ目・合わせ目」に雨がかからないように「レインカバー」をかけてあげることです。カーボンや樹脂製だから大丈夫!ではありません。
3.家の中での管理
ヴァイオリンをケースに入れて「保護する」必要がある場合もあります。室内でペットを飼っていたり、小さな子供がいる場合に楽器をスタンドに立てて置いておけない場合もあります。楽器にケースの内張りに使われているビロードなどの布が密着することは湿度の逃げ場がなく、楽器の周りに空気が流れないこともあり、出来れば楽器の表面を空気が動く=流れる環境が理想です。
部屋全体の湿度が高い場合にケースに入れたからと言って湿度が下がるわけではないことは私たちが蒸し暑い夜に「掛け布団」をかけずに寝ることを思い出せば理解できると思います。

 最後にケースにヴァイオリンを入れて移動や保管する場合の「除湿」について考えます。先述の通りケース内部は外部の湿度と同程度の湿度があり、空気が動きにくい環境で楽器には辛い環境です。私が過去の経験からお薦めするのは以下の方法です。
1.梅雨時、特に外出したり雨の降った日にケース内部のすべての物を取り出し、ケース内部の布部分に低い温度のアイロンを当てるかドライヤーの温風を丹念に当てて布の湿気を乾かし蓋を開けた状態で熱を完全に冷ましてから楽器や弓、小物を収納する方法
2.楽器(ヴァイオリン)を収納した状態に、アイロンがけをして熱を完全に冷ましたスポーツタオル(楽器の全体を覆える大きさ)を楽器の上=楽器と弓の間の空間に乗せる
特に「2」の方法は手軽で簡単ながら楽器全体の「周辺の湿気」をタオルが吸い込むので楽器にとって快適な状態を保てます。当然ケース外部の湿度も吸ってしまうために、カラカラだったタオルが一日二日で「ふにゃふにゃ」な状態=湿度を吸った状態に変わりますので小まめにタオルを取り換えることが大切です。
 木材で作られた楽器、家具など多くの製品すべてに共通することですが湿度の高い季節には膨張し乾燥すれば収縮します。鉄の場合には「熱」で伸縮するので大きく違います。

特に新しい木材は水分を吸収する力が強いのが特徴です。しかし古い楽器でも長期間、乾燥した国や地域で使用され、乾燥した状態で演奏されていた場合には、急激な湿度と温度の変化によって、楽器の接合部の「ニカワ」の接着力が下がることに加えて木材の膨張もあり接合部に空間が出来る状態=「剥がれ」が起こります。剥がれの場所と面積によって「びびり音」(剥がれた板同士が楽器の振動でぶつかり合う雑音)が出る場合もあります。雑音が出ない場合でも板同士が振動を伝えなくなるために健康な時と比べて音色が変わります。表板、裏板を軽く手の指の関節の骨で叩いて剥がれを確認できる場合があります。剥がれた箇所のニカワをへらで取り除き、新しいニカワを塗って両側から圧力をかけ続けることで復活しますが素人が行う作業ではありません。
 新しい楽器の多くはニカワの接着力が強いため簡単に剥がれることは珍しいことですが「剥がれない」とは言えません。
 演奏する時に場所を選べないことも実際にあります。湿度の高い場所で汗をかきながら演奏すれば楽器は多くの湿度を吸い込み膨張し、熱によってニカワの接着力も下がります。だからと言って演奏しないわけにもいきません。演奏後の「管理」こそ大切になります。
「完全密閉型ヴァイオリンケース」は今現在まだ販売されていません。重さと価格の問題です。私自身15年ほど前に楽器ケースの開発に携わりましたが「完全防水」には至りませんでした。アイデアは頭の中にあるのですが開発から製造販売にこぎつけるまでに「千万」を超える資金が必要になることが分かっています。木製のケースも樹脂製、カーボン製のケースも「開口部」が最大のネックです。この問題さえクリアすれば水も空気も侵入しないヴァイオリンケースを作ることが出来ます。「コロンブスの卵」は頭の中の絵に描いた餅で終わるのかな?
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

とうきょうとっきょきょかきょくに憧れる?

映像はサン・サーンス作曲の「序奏とロンド・カプリチオーソ」
今回のテーマは?そうです「速い曲はかっこいい」と言う憧れについて考える内容です。
「速い」と言う基準はないので「速く感じる」と言うのが正しいですね。人によって感じ方は様々ですが「ゆったり」「ゆっくり「のんびり」の対義語とも言えます。音楽に限らず人間が「身体を速く動かす」事への欲求は本能的なことかも知れません。例えば「狩猟」をするとしたら人間より速く走る「獲物」を追う時に速く走れた方が有利です。敵から逃げる場合にも速く走れることは必要な能力になります。「技術」として少しでも速く身体全体、身体の一部を動かすことはそんな「憧れ」の一端かも知れません。
例えば拳銃の早撃ちは映画などでもよく見かけます。早口言葉は子供の頃に競い合った気もします。職業として「釘打ち」の速度や「キャベツ切りの速さ」も見ていて「すごい!」と感じます。

音楽を聴いて「すごい」と感じるのはどんな時でしょう?
歌であれば「声の高さ」「声の大きさ」にも感じます。楽器を使った演奏の場合にはどうでしょう?「音の高さ」に関してピアノの高い音を聴いて「難しそう」と感じる人はいないのに対してトランペットで高い音を演奏すると「すごい」と感じる人もいます。低い音を出すと思い込んでいるチェロやコントラバス、チューバが高い音で演奏するとやはり「おぉ!」と思う人もたくさんいます。
「速い曲」を聴いた時には声楽であれピアノやヴァイオリンの演奏であれ多くの人がすごい!と感じるようです。「どうすれば?あんなに速く指が動くんだろう?」と思うのは自然な事だと思います。先述のキャベツの速切りやパソコンキーボードの早打ちと違い、演奏は速い動きがそのまま聴衆に届くものです。
演奏家を目指す人が通るプロセスの一つに「速く正確に演奏する」技術を修得することも重要な要素です。音階、練習曲を通して速く正確に演奏する技術を修得するために長い時間をかけて練習します。ただ人によってこの「時間」には差があります。同じ人間なので恐らく「構造的な違い」つまり身体能力的な違いはさほど大きくないはずです。それなのに人によって短期間で速く正確に演奏できる人と「そうではない人=私もその一人」に大別されます。
一番の違いは「練習量」だと思っています。もちろん考えながらの練習で単純な「練習時間」ではありません。指導者からのアドヴァイスや「知識=情報」の多さも関係しますが練習と「意欲」が問題だと思います。
速く正確に演奏することへの「憧れ」の強さが人によって違います。
ある程度=レベルの技術は演奏する人にとって必要になりますが「それ以上」を求めるか?は個人の意識の差です。極論すれば「誰よりも早く正確に演奏したい!」と思う気持ちの有無です。

意欲の違いはあってもアマチュア演奏家にとって「どうすれば?」と言う情報は欲しいものです。私の経験で考えると最も大きな「壁」は「音に対する反応の速さと精度」です。
以前にもブログで書いたかもしれませんが「チューナー」を例に考えると理解できます。

音の高さを視覚的に表す便利な道具が「チューナー」です。その反応速度と精度の問題です。反応速度が遅ければ音が聞こえて「正しい・低い・高い」と言う判断までに時間がかかってしまい短い音には反応しません。精度の低い機会だと「大体あっている」程度で表示されることになります。基本的に12種類の音の高さで表示するため「どれかに近い」だけを表示するチューナーもあります。
 運動として指や腕を「速く動かす」と言うトレーニングは比較的短期間で習得できます。

必要な筋力と瞬間的な運動・筋肉の弛緩=脱力なので無駄な力を抜く「技術」を身に付けることになります。
 一方で音に対する反応の速さ精度を高めるために必要な「トレーニング」と必要な時間は日常生活や楽器の演奏だけで身に付けることは困難です。音の高さに対する感覚=音感のトレーニングは、聴音やソルフェージュによって効率的に高めることが期待できます。聴こえた音の「音名」を短時間で判断する技術と、楽譜上の音を楽器を使わずに「声」で音にする技術を修得することで音感を高めることが可能です。
「速く演奏する」とは「短い音を連続して演奏する」と言い換えることが出来ます。ヴァイオリンの場合には「音を出す右手」と「音の高さを変える左手の指」の運動を「独立」させる場合と「分離」する場合があります。ピアノの場合には音の高さは鍵盤によって決まっており、特定の鍵盤を押し下げれば「決まった音が出る」ことがヴァイオリンと大きく違う点です。
 右手と左手の「独立」と「同期」が短い音を連続するためには避けて通れない「壁」になります。多くのアマチュアヴァイオリニストがこの問題で苦労します。原因は様々ですが最も顕著な例は「どちらかの腕・指の運動にもう一方を合わせようとする」ために同期しないケース。逆に分離が出来ない場合には無意識に両腕・両手が同時に動いてしまうために分離が出来ないケースです。
ピアノで両手の指を使って演奏する場合、左右の手の指を「一つのブロック=運動」として独立・分離していると考えられます。10本の指で違う音を出しながら「ひとつの和声」として脳が意識しているのだと思われます。
ヴァイオリンの場合には、左手指だけを動かしても大きな音は出せません。特殊な奏法を除き=左手指のピチカートなど、開放弦も含めた左手指4本を押さえる・離す事で音の高さを変えながら、右手で押さえた弦・押さえていない弦を「擦って」音を出すので、脳からの指令は「2種類」必要になります。つまり4本の弦の「どれを」「どの指で押さえる・離す」と言う右脳からの信号と、右手=弓がどの弦を弾くと言う左脳からの信号を出している事になります。スラーで1本の弦を全弓を使って音を出しながら、左手の指をその弦で押さえたり離したりすれば音の高さが変わります。同じ左手の動きを「弓を返して」演奏する場合は指の動く速度=タイミングと弓を返すタイミングを「一致させる」場合と「意図的にずらす」場合があります。
多くの「速い曲」の場合は指の動きと弓の動きを同時に行えば演奏できますが、左手で2本の弦を違う指で押さえておいて、右手で2本の弦を交互に演奏するパッセージは多くの曲で用いられる技術です。「左手の指は動かさずに音の高さが変わる」ことになります。

 最後に速い曲とゆっくりした曲で「共通」している技術を考えます。それは「音を出す前にすべての運動をイメージする」ことです。
 イメージせずに音を出して「偶然」思った通りの音が出せる事もあります。例えば左手の指を押さえる位置・タイミングと右手で弓を動かす弦と発音のタイミングがすべて合う場合と左手の指の位置=ピッチや発音のタイミング・弦の種類が合わない場合です。私はこれを「サイコロ」や「じゃんけん」に例えます。偶然に当たることを願っても思った数字が出たりじゃんけんに勝つ「確率」でしかありません。確率を挙げるためにと、何十回繰り返しても変化はありません。
演奏の場合にも似たことをしているケースがあります。失敗しないために無意識に音を小さくして逃げる場合、さらに左手の速さに無理やり右手を合わそうとする場合が該当します。
サイコロと違い自分の身体を思ったように動かすことはトレーニングで成功率を高めることが可能です。
 速い曲もゆっくりした曲も「音の連続」であることに変わりありません。今の音から次の音に「移動する」準備が必要です。両手の動きも常に「次の音」への準備が必要です。
要するに「音と音の連結」が肝だという事です。
どんなに速い運動でも次の運動への「準備」をすることです。
 音を出す前の運動を考えることで自分の思った音が出せるようになる事を意識して練習してみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンの「子音」と「母音」

 映像はシェリングのロンド。私の世代だと「バッハ無伴奏と言えばシェリング」だったので(私だけ?)試験でバッハの無伴奏ソナタかパルティータを弾く前にシェリングのバッハ全曲集のレコードをカセットに録音してテープが伸びまで(笑)聴いていました。
 今回のテーマはヴァイオリンを演奏する際の一音ごとの「発音」を考えるものです。
日本語は会話の殆どが「母音」か「子音&母音」で出来ています。小さい「っ」や小さい「や行」さらに「長音」の組み合わせで成り立っています。アクセントよりも「音」で意味が伝わる言葉が多いのも特徴です。例外として「あめ」などの場合「雨」と「飴」はアクセントの位置が違います。文字の場合はひらがなで「あめ」と書いてあった場合には、前後の文字から意味を探ります。

 さてヴァイオリンで演奏する場合「スラーの二つ目以降の発音」と「スラーの最初の音や弓を返した時の発音」で子音の作り方が違います。
スラー=レガートで二つの音を演奏する場合、2音目は前の音の「続き」として切れ目なく音の高さを変えることになります。通常であればレガートは「弓を止めないで演奏する」ことを指します。2音目で「移弦」した場合でも2音目の「発音=子音」は弓を返したときの発音と違い「アタックを付けない」事が一般的なレガートになります。
 分かりにくいので「スラーではない場合」つまり一音ずつのアタック=子音を付ける倍を考えてみます。言葉で言うと「ぱぴぷぺぽ」と言う言葉を発音する時に「P」の部分、声を出す前に唇を閉じた状態から開く瞬間の音と母音を使って「ぱ」と発音します。「P」を「B」や「V」にすると「ば」「ヴァ」に変わります。
子音として「K」「G」「S」「Z」「T」「D」「N」「H」「P」「V」「M」「Y」「R」[W」が日本語の発音に使われます。
それぞれに発音の仕方があることを私たちは余り意識せずに会話しています。例ええば「はは」「ぱぱ」「ばば」と言う時に、唇をどうすると…なんて考えずに発音していますよね。
 ヴァイオリンでは?「ドレミ」と言う音名で歌う時には、それぞれの子音と母音を使って歌えます。歌詞が「ア」だけの歌「ヴォカリーズ」を演奏する時に音の変わり目にアタックが付けば「ア」ではなく「タ」とか「パ」になり、強いアタックが付けば「ダ」や「バ」、もっと深く重たいアタックなら「ガ」になります。意図的にアタックを消し「無声音」を含めた発音を意識すれば「ハ」に聞こえる…
 もちろん実際に「ハ」と聞こえるわけはありません。自分の言いたい「子音」の出し方を弓と左手の指を使ってコントロールします。
 話が前後しますがスラーの2音目以降の場合には弓のアタックを付けられません。しかし左手の指の上げ下げ=離す・押さえる時の変化でクリアに音の変わり目を表すことも、わざと曖昧にすることもできます。

 動画のシェリングの音をよく聞いてみると細かい音も少し長い音もフォルテ、ピアノに関わらず全体が「引っ掻けない=アタックの弱い」発音で演奏している事に気が付きます。
 弓への圧力をかけたままで発音すれば「タタタタ」と言う音に聴こえますがシェリングの音は差し詰め「ララララ」か「ヤヤヤヤ」と言った音が多く聴こえます。
 この曲のように短い音が連続する曲をヴァイオリンで演奏する時、一つ一つの音を明瞭に発音させて「角を付けた音」にする場合、弓の毛を弦に乗せた状態で圧力を加え動かす➡圧力を緩めずに次の音も同様に圧力をかけたままで発音することの繰り返しで「タタタタ」と言う言葉に聴こえる演奏することが一般的です。
分かりやすい例の動画です。

バッハ無伴奏ヴァイオリンパルティータ第3番プレリュード パールマンの演奏

同じ曲をもう一つ

バッハ プレリュード グリュミオーの演奏

 二つ目の動画、アルトゥール・グリュミオーはピアノの部分になると圧力を弱めてアタックを付けない発音に変えています。
 言うまでもないことですが二人とも「こだわり」があってこうしている事は間違いありません。偶然…とか、なんとなく…と言う発音が一つも見つかりません。物凄い集中力です。感服します。

 人間の言葉で音楽を表現できるのは「歌」だけです。ピアノもヴァイオリンも管楽器も打楽器も「言葉」を発することはできません。
 私たちが日常生活で耳にする音=聴こえる音は様々ですが、人との会話だけは「意味」を聞き取ろうとしています。それほど「言葉」と言う音は特別なのです。楽器の音が聴こえた時に楽器の種類を考えるのは演奏家なら「当たり前」かも知れませんが、普通の人は「音楽」で終わるのだと思います。
 聴く前から「ヴァイオリンとピアノ」と分かっている場合、例えばコンサート会場で聴く場合であれば、聴こえてくる音の中でピアノとヴァイオリンの「聴き分け」は恐らく多くの人が出来ると思います。しかし弦楽四重奏の場合なら、二人のヴァイオリン奏者の「聴き分け」をすることは非常に困難…むしろ不可能かもしれません。見ていれば分かりますし明らかに二人の音色や音量が違えば聴き分けられますがそれは特殊な場合です。
 ヴァイオリンで発音を変えることで「意味」が生まれるわけではありません。どんな発音が正しいと言う正解もありません。
 演奏する人の「個性」が一音ずつのアタックやアタックの後の「母音」に当たる音の音色を変えることで生まれます。
 アタックのない「はひふへほ」も柔らかい発音の「まみむめも」、少し固いアタックの「た」「か」、破裂音に近い鋭い発音の「ば」「ぱ」など、ヴァイオリンの発音をコントロールすることで音楽に「色付け」をする楽しさがあります。ぜひ、自分のヴァイオリンの音を聴いて「子音」を考えてみてください。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音から指使いを探る

 映像はイツァーク・パールマンが演奏するパラディスのシシリエンヌ。
初めてこの演奏を聴いてどうしても演奏したくなり楽譜を入手。楽譜に記されていた指使いやボウイングもありましたが、どうしてもパールマンの演奏を「真似」したかったので、ヘッドホンで演奏を何十回も聴きながら楽譜に指使いやスラーを書き込みました。
 今回のテーマ「音から探る」と言う内容はただ単に指使いを「真似する」目的ではなく自分の演奏の「土台」になる演奏を作るために他人の演奏を聴くことの重要性を考えるものです。

レッスンで「他の演奏を真似しない」事を先生から言われた経験のある人は多いのではないでしょうか?私自身は師匠から言われていませんが、学生時代に先輩たちから言われた記憶があります。自分より上手だと思う人の演奏を真似できるなら苦労しないわけですが(笑)
「芸は盗め」という言葉があります。伝統芸能で「習う」「教わる」と言う概念は通用しない。先人の芸を限界まで観察して自分で試すことの繰り返しで身に付けるのが本質だと言う考え方だと思います。
演奏の世界でも同じことは言えないでしょうか?師匠からの言葉や文字から得た知識は確かに重要です。自分が気付いていない課題を指摘してくれるのも師匠があってのことです。しかし言葉で習ったことは「言葉」として記憶される情報です。自分の耳と目で得た感覚は言葉とは違う記憶になります。そして何よりも自分の力で「技を盗む」努力が自分の演奏に生きてきます。音を聴いて「どうやって?この音を出しているんだろう?」と何度も聴いて観察・想像することは自分でしか出来ません。誰かに教えてもらうより遥かに時間も労力も必要です。以前のブログで登場したジャズヴァイオリニスト「ステファン・グラッペリ」は独学でヴァイオリンの演奏をスタートしプロになったヴァイオリニストです。もしかすると誰かにアドヴァイスを受けた事もあるかも知れませんが、もしそれが重要な事だったとしたら自身が経歴として書くはずですね。独学ではうまくならないと言うのが間違った定説だと証明しています。

 インターネットの普及で演奏技術に関する情報や演奏している動画を気軽にみられる時代です。「チュートリアル動画」があふれています。素晴らしいヴァイオリニストの演奏動画も無料で視聴できる上に再生速度をゆっくりにしてもピッチは維持されています。さらに画面の一部を拡大することも簡単に出来ます。本当に便利な時代です。
 一方で安直に情報を得られるために忘れられていることも多いのが現実です。「演奏を聴いて学ぶ努力」はその一つです。違う言い方をすれば考える時間が減っていると言えます。マジックの「タネ」をすぐに知ることができるとしたら?きっと楽しみが減りますよね?
自分で考えて自分の演奏を作る時間が「もったいない」でしょうか?
誰かに技術を教えてもらってその人の真似をする人と、自分で考えて迷いながら自分独自の演奏をする人がいます。効率を考えれば「教えてもらう」方が圧倒的に短期間で仕上がります。しかし迷いながら手探りで音楽を作る作業や、誰かの演奏を何度も聴いて観察する時間は決して無駄だとは思いません。
 私の持論ですが演奏家の評価はその演奏家の「最後の演奏」に集約されていると考えています。世界的に高い評価を受けた「今は亡き」演奏者たちすべてに若い頃の演奏があります。公開されていない演奏が殆どですが絶対にあります。当たり前ですが(笑)年齢と共に演奏が成熟し高齢になると「味わい」が感じられます。「枯れた演奏」と評されることもあります。人によっては最晩年は身体の自由が利かなくなる、聴覚も反応が下がった結果として若い時より演奏技術が下がることもあります。それも「歴史」の一つです。その演奏者だけが出来る演奏は「技術だけ」で語るべきものではありません。
 若い人の演奏は「成長の過程」での演奏です。どんなに演奏技術が高くても、10年20年30年と言う年月を経て「人として」経験を重ねる中で変化していく演奏が残せるか?独自の演奏が出来るようになったか?こそが演奏家の評価だと思います。

 レトルト食品のように手軽に短時間で仕上がる演奏が必要な場合もあるかも知れません。自分で味を確かめながら納得のいく味の料理を仕上げるように「音楽」を仕上げる技術は習えるものではありません。まさに自分だけの感覚で1回の演奏に到達するまでのプロセスを大切にしたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

いくらのヴァイオリンを購入する?

 今回のテーマは特にこれからヴァイオリンを購入する予定の方や、買い替えを検討している方の参考になればと思う内容です。あくまでも私個人の考えであって「これが正しい」と言うものではないことをご理解の上でお読みください。
 ヴァイオリンは当たり前ですが「楽器」です。楽器は演奏する人にとって「音を出すための道具」です。美術品や骨董品ではありません。演奏する人が自分で選び、自分の好きな音を出せるように練習することで楽器の価値が生まれます。
 まず楽器には「妥当な取引価格」があることを考えてみます。
同じ種類の楽器でも大量生産できる楽器は安く作れます。作られた楽器はいくつもの中間取引を経て最終的に販売されます。それぞれの段階で「卸値」があることも理解できると思います。
 さらに通常の楽器であれば「新品未使用」のものが一番高額で「中古品」は新品よりも安価で取引されます。通常購入できる殆どの楽器はこの原理で取引されます。ヴァイオリンも例外ではありません。
「ヴァイオリンは古い方が高くて良い」と言うのは間違いです。いや『嘘」と言っても過言ではありません。これは一部のヴァイオリン…例えばストラディバリやグヮルネリ、ヴィヨームなどの製作者が製作した「鑑定書」が付いている楽器だけが「例外」だという事です。しかも困ったことにストラディバリウスの「原価」は今や無意味なものになってしまったことです。長年の取引を重ねる間に価格が爆発的に高くなっているのですが、実際には購入した人・団体が「転売」して利益をあげているのは事実です。投資目的で楽器をオークションで落札し、さらに高額で売却する事は「当たり前」になっています。
 こうした特殊な取引に関わらないなら「新品未使用」が最も安心して購入できることになります。
何故なら製作者・工房が今現在も製作を続けているなら「妥当な取引価格」をすぐに調べられるからです。ネット全盛の現代、製作者本人に直接メールなどで連絡することも可能です。また世界中の取引価格もすぐに調べられます。一部の「有名な」製作者のヴァイオリンは異常に高い金額で取引される場合がありますが、この話は後ほど。

 さてヴァイオリンを購入するとしたら「どこで」「どうやって」楽器を選びますか?
前提条件として「自分で弦を張り替えられる=調弦が出来るか?」ことが分岐点になります。
何故ならこの段階を超えないと自分で楽器を演奏して「音色」を確認できないからです。
いわゆる「初めてのヴァイオリン」レベルです。このレベルなら最初だけでもレッスンに通う事をお勧めします。それが難しいのであれば弦を張替えられるレベルの人を探して楽器を選ぶことです。
いずれの場合にでも正しい扱い方は最低限知識として持っていないと、せっかく購入したヴァイオリンを二度と使えないゴミにしてしまうリスクがあります。持ってはいけない場所や絶対に守らなければいけないことだけは覚えましょう。
 ネットで購入できる「激安ヴァイオリンセット」の中には駒も弦も張られていない状態で販売されているものがあります。本来は「あり得ない」ことです。何故なら「魂柱」がヴァイオリン本体の中で自立していられないはずだからです。輸送中に魂柱が倒れないために弦を張り駒を立てた状態にすることを知らない販売者は「ヴァイオリンを知らない」人です。明らかに危険です。
 既にすぐに演奏できる状態のヴァイオリンセットを探すにもネットは不安です。「ヴァイオリン専門店」やヴァイオリン工房がネットで販売する場合にはある程度の状態にして販売しているようですが、使う側=購入者の知識によっては「相場以上に高い楽器」や「店頭では売れない楽器」にあたる場合もあります。
 少なくともヴァイオリンを演奏できる人=調弦の出来る人と一緒に楽器店で選ぶことを強くお勧めします。もちろんレッスンで習う先生の斡旋も「信頼関係」があれば問題ありません。指導者がコロコロ変わる教室の場合には要注意です。
 前段で書きましたが通常の楽器は「使えば価値が下がる」ものです。仮に未使用の状態であっても購入した金額で楽器を買い取ってくれる楽器店はまず「ない」のが現実です。「そんなバカな!」と思うかもしれませんが社会人なら理解できるはずです。売価には販売店の利益が含まれていますから、その金額で楽器店がヴァイオリンを買い取れるはずがありません。当然です。
 楽器を購入したお店での「販売時と同じ金額で下取りします」という言葉には裏があります。
「当店でもっと高い楽器に買い替える場合に限って」と言う条件がついています。つまり新しい楽器の販売価格に下取り楽器の「損益分」を加算して売るのです。例えば新品で15万円のセットを購入。未使用か未使用に近い状態で購入した楽器店で30万円の楽器に買い替えるとします。
それぞれの販売価格には楽器店の利益が乗っています。15万円で販売した楽器の「粗利」が仮に5万円だとすれば同じ金額で買い取った場合、楽器店は5万円分の損が発生します。「また売ればいいじゃないか」と思われるかも知れませんが、「新品未使用」でない楽器を「新品」ととして売れば「詐欺行為」になります。さらに厳密に言えば「古物商」の免許も必要で当然ですが新品の価格で買い取ることはできません。
 30万円の楽器に10万円の粗利が含まれいるなら、先ほどの損「5万円」を差し引いた5万円だけが利益になります。と簡単そうですがヴァイオリンを1セット販売するための「コスト」を考えると楽器店は極力下取りをしたくないのです。
 結論。購入したヴァイオリンを買い取ってもらうことは計算に入れないことです。
個人的に知り合いや友人にいくらかで譲渡した場合、無料であればまず問題はないと思いますがいくらかでも「お金」を貰うのは絶対に避けるべきです。トラブルの原因になるリスクが高く人間関係を壊すことにもなりかねません。購入した楽器は自分の手元に最後まで残る・残すものだと言う覚悟で楽器を購入すべきです。

 最後に「妥当な価格」について書きます。ヴァイオリンの価格には実は2種類あります。
1.製作したメーカーが定価か希望販売価格を示している場合。
2.上記1以外の「自由設定価格」
ちなみにストラディバリウスが「2」の代表です。ヴァイオリン製造メーカーは世界中に数多くあります。日本にも「SUZUKI」と言う老舗のヴァイオリンメーカーがありますが、昔のような勢いは感じられません。ブルガリアやルーマニア、ドイツ、フランスにもメーカーがが存在しますが残念なことに実際には最後の組み立て・仕上げ過程だけをその国で行っているケースも多いのが現実です。どの国に「下請け作業」を依頼しているか?多くはベトナムや中国です。ちなみに中国にも高い技術を持ったメーカーがいくつもあります。偏見さえ持たなければ楽器のクォリティーはイタリアの新作と比べても劣らないものも安く手に入ります。ただ昨今の円安で中国制のヴァイオリンも日本に入って来なくなりました。
 20年ほど前までは「ヴァイオリン本体・弓・ケース・肩当て・松脂」セットで30万円と言う価格が最も多く売れる価格でした。さらに遡って私が中学・高校部活オーケストラの指導をしていた30~40年前までは同じようなセットで15万円の物を生徒の家庭にお勧めしていました。私が選定したヴァイオリンだけで恐らく200丁以上のヴァイオリンセットが生徒たちの手元に行きました。
今でもその楽器を愛用して演奏している「元生徒=現在は…(笑)」も珍しくありません。

 長いブログを最後までお読みいただきありがとうございます。
楽器を選ぶための「動画」がYouTube上に溢れています。
気を付けるのは「音」に注目しないことです。実際に本人が演奏して聞こえる音とは無関係だと考えて間違いありません。プロが「素晴らしい」と言ってもそれは「個人の感想」です。

実際に自分の耳で確かめることが何よりも大切です。動画の「弾き比べ」も正直に言って何がしたいのか?理解できません。本人には感じられてもマイク・スピーカーを通して伝わる音は「別物」なのです。
 ヴァイオリン、楽しみましょう!

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

同じヴァイオリンでも

 映像はフランスのヴァイオリニスト「ステファン・グラッペリ」の演奏。
1997年に89歳で他界。数多くのレコードを残しています。メニューインやヨーヨー・マとの共演は「クラシックとのフュージョン」として話題になりました。
 あえて「ジャズヴァイオリニスト」としませんでした。演奏する曲、ジャンルで肩書きを付けることに抵抗を感じます。ピアニストのばあい「ジャズピアノにスト」と「ピアニスト」とあった場合に後者は「クラシック音楽のピアニスト」を指す事が一般的かも知れません。
 ヴァイオリンの「技法=テクニック」で見たグラッペリの特徴を考えるより「演奏の自由度」がクラシック音楽の楽譜を演奏するヴァイオリニストと明らかに…完全に違います。
 グラッペリが楽譜に従ってクラシック音楽を演奏していたか?出来たか?好きだったのか?それは本人にしか分からないことかも知れません。

上の動画はメニューインとグラッペリの演奏。右のスピーカー(ヘッドホン)から聞こえるのがグラッペリ、中央に定位=両方のスピーカーから聞こえるのがメニューインの音だと思われます。
 グラッペリはメニューインに気を使いながら「ある程度」旋律を崩さないことに主眼を置きながら、それでも自由に即興(と思われる)的な音を加えながら演奏しています。一方メニューインは「予め決めた通りに」きちんと(笑)演奏している気がします。当たり前ですが「どちらが良い」と言うものでもなく、私は二人の音=どちらも大好きです。違いはあります。楽器の個性などよりも「根本の違い」だと思います。

 とても乱暴な表現ですが「なんちゃってジャスヴァイオリン」言い方を変えれば「ジャズ風に演奏するクラシックヴァイオリン奏者」がいます。私自身、過去に「枯れ葉」や日本のPOPSをヴァイオリンやヴィオラでピアノと演奏した際に「なんちゃって」に挑戦して自爆しました。黒歴史の一つです。
 私自身、ジャズの勉強をしていないし経験もほぼ「ゼロ」なので間違っているかもしれませんが、ジャズの演奏に際して独特の「約束」と「セオリー」「理論」があると感じています。もっと言えば演奏者自身が作曲家の知識・技術を併せ持ち、演奏しながら即興で音楽を作る能力を持っている「と思います」(笑)本当に自信がないので保険をかけました。すみません。
 ジャズを専門的に演奏している方の「クラシック音楽演奏」の中に、どこか違和感を感じる事があります。先入観もあるのは否めませんが楽譜の通り「ではある」のですが正直に言って不自然でクラシックの「負のイメージ=楽譜通りに弾かないといけない」事に縛られて窮屈そうに演奏している印象を受けました。何よりも「慣れていない」ことが原因なのか音も美しくなく感じました。

 グラッペリの演奏を「自己流」と言う人がいますがクラシックのヴァイオリニストも最終的には自己流の演奏方法になるので同じことです。ピッチの正確さはメニューインと何ら変わりません。クラシックでヴァイオリンコンチェルトの独奏をする「演奏技法」と違うのは、無理に大きな音量を出そうとしないことです。音色の変化と「より弱い音」への変化量と変化速度の速さでオーケストラに「負けない音量」を無理に出そうとするヴァイオリンより遥かに自然な弾き方に感じます。
 グリッサンド、ポルタメント、ハーモニクス=フラジオレット、それらの演奏技術はクラシックと変わりませんが、ごく自然に混在させるため、特別な事をしているように感じません。実はとんでもなく難しかったりしますが(涙)

 ヴァイオリンに求める音の違いがあります。それはジャズだから・クラシックだからと言う違いではなく「演奏者が求める音」の違いです。「派手な音」「目立つ音」「大きく感じる音」を出したい人がいれば、「音量よりも音色の多彩さ」「柔らかさ」「太さ」を求めるヴァイオリン奏者もいます。
 以前にも書きましたが「生演奏」であっても会場によっては電気的に音を大きくして会場に音を届ける場合もあります。「それはクラシックではない!」とは言えません。事実レコードもCDも「電気的な処理」をしないと録音さえ出来ないのですから。「ソリストは派手な音」が正しいと思っている人が多いように思いますが、私には理解が出来ません。そもそも「ヴァイオリンコンチェルト」で作曲家が独奏ヴァイオリンとトロンボーンや打楽器を「同時に」演奏するように楽譜を書けば独奏者の音が会場で聞き取れるはずがありません。物理的に音圧が違いすぎます。「音が派手なら」それも程度問題です。むしろオーケストラの中で演奏しているヴァイオリン奏者より「派手」な音をだす必然性がありません。
 ヴァイオリンと言う楽器の「特性」があります。演奏者の「こだわり」があります。結果として演奏する会場の大きさ、一緒に演奏する楽器の編成、必要な処理が生まれるのが「ライブ」です。録音は別物です。音色も自由に後から変更できます。もちろん音量も。
 自然に楽器を奏でられたら…そう願っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介