映像は韓国の作曲家チョン・ファンホ作曲「開花日~花の咲く府」
今回のテーマは以前にも触れたことのある「歌う」ことの意味を考えるものです。
歌を歌うことが好きな人と苦手な人がいます。子供の場合は小学校や中学校の音楽授業や行事の「合唱」が苦手と言う子供を多く見受けます。大人の場合はカラオケで歌うことが苦手と言う人(実は私もその一人)も多い一方で、カラオケ教室に通う人も粗糖数いるのが不思議です。声を出すこと=しゃべることと「歌」を歌う事の違いは?音楽を自分の身体で表現する最も手軽な方法が歌ですが誰かに聴かれることに抵抗があったり自分の声をスピーカーから聴くことが嫌いな人も(これも私です)います。
私自身は合唱で歌う事は好きでした。中学時代の音楽授業を担当されていた恩師が発声法にとらわれない自由に歌う事い方で指導して頂いたおかげかも知れません。不自然は大人の真似をしたような発声法で歌いいていたら合唱が嫌いになっていたと思います。
自分の声を聴くのが嫌いな理由は自分でも良くわかりませんが、未だにビデオで自分の声を聴くのも耐え難い苦痛です。本番では恥ずかしさを隠すために必要以上にベラベラしゃべりますが(汗)演奏会のビデオ編集で自分の声を「カット」するのが当然だと思っています。
自分が歌うことが苦手な人の中にも「歌を聴くのは好き!」という方もいます。
ジャンルに関わらず「歌詞」と「歌声」が魅力だと思っています。
同じ歌詞の歌でも歌手が違うと違う音楽に感じます。また一人の歌手の場合でも歌う曲によってまた聴きたいと思う曲がある場合もあります。歌詞の意味が分からない言語の歌の場合、歌声に惹かれているのだと思います。
楽器を演奏する時に歌詞はありません。楽器のよって音域が決まっています。歌は歌う人の「声域」がそれぞれにあります。同じテノール歌手でも微妙に声域は異なります。
楽器演奏を指導する際に指導者が言う「歌う」のは実際に声を出して歌ってと言う意味ではありません。では何を?求める言い方なのでしょうか?
歌声はすべての歌手で違う魅力があります。
弦楽器や打楽器、ピアノなどの鍵盤楽器の場合に呼吸は直接、音との関りがありません。
息を止めていても音は出ます。一方で声楽や管楽器の演奏でも音楽的な抑揚がなかったり音量と音色の変化が乏しい場合に歌っているように聴こえないケースもあります。
つまり「歌って・歌うように演奏して」と言う指示は単に声を出して歌うことを指していないという事です。言い換えればここで言う「歌う」とは人間が言葉で意志を伝えたり感情を表現するような「演奏者の意図・感情を音量と音色の変化で表す」ことを意味するものだと考えられます。音楽によっては極力「平坦に・起伏や変化をさせない」表現補法を用いる場合もあります。これは他の部分で抑揚があって初めて効果のある方法です。
歌い方に規則や基準はありません。人と会話する時に大げさに抑揚を付ける場合や意図的に一定の大きさ・話し方で話す場合があるように相手に対して「何を感じてもらいたいか?」を考えれば良いのだと思います。例えば「今日は寒いですね」と相手に話す時「今日は」をゆっくり大げさに強調すると「昨日まで暖かったけれど…」など「今日」が相手に強く伝わります。一方「寒いでね」を協調すると「寒い」と言う感覚を強調することになり「今日は」がなくても同じ意味にンります。
音楽は言葉のように具体的な状態=形容詞・動詞や物の名前=名刺は表現できません。
「悲しい」「楽しい」「不安」「安堵感」「驚き」などの心理状態を直接表す規則もありません。ただピアニッシモで演奏し続けていて突然フォルティッシモで演奏すれば聴いている人がびっくり!するのは自然な事で音量の変化、音域の変化は多くの作曲家が作品の中で使用しています。しかしこれは「歌う」事とは別物でただ「驚かす」「緊張感を高める」などの効果があるだけです。
音楽を歌うことは演奏する人の「優しさ」の表れだと考えています。意志を伝える人=相手・聴衆に丁寧に・穏やかに・ある時は大胆に自分の意思・感情を伝えるのが「歌う」ことだと思います。怒鳴りつけたり決めつけたり、言い捨てる話し方は「乱暴な人間」の話し方です。これが「歌っていない」音楽だと思います。
優しさ=Tenderbessこそが音楽を歌う心のキーワードだと考えています。
最後までお読みいただきありがとうございました。
ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
コメントを残す