音楽を奏でて生きること

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 映像は、ドビュッシー作曲「亜麻色の髪の乙女」
今回のテーマは、趣味であっても職業としてであっても「演奏」することを続けていく人の「幸福感」について。もちろん、好きな音楽を聴くことも人によってかけがえのない楽しみです。音楽を奏でるために…自分が楽しめる演奏をするために、練習することも音楽を奏でている事に変わりありません。人の前で演奏するのも、一人で練習するのも「音楽を奏でる」ことなのです。

 奏でる音楽がロックでもクラシックでも、人間が演奏するなら同じ「音楽」です。とは言っても現代の私たちが「聴く」音楽は生演奏よりも、はるかに「機械からでる作られた音楽」が圧倒的な数です。それでも、人間が作った音楽を、人間が演奏しているという前提で言えばかろうじて「人間の音楽」と言えるのかもしれません。要するに、聴く側の立場で言えば「生演奏」でない限り、人間が演奏していても機械の音でも「音楽」であることに変わりないことになります。

 一方で「演奏する」立場になると、楽器の種類にもよりますが自分の演奏技術=演奏技術・音楽のクオリティーになります。私の知る「電子オルガン」ヤ〇ハ製なら「エレ〇トーン」は、内蔵されたコンピューターにデータを入力し、再生時にそのデータと「一緒に」演奏するイメージがあります。極論すれば、演奏者がいなくても音楽は再生されるはずです。否定しているのではなく「楽器の種類が違う」のです。
 エレキギターであっても、クラシックギターであっても演奏する喜びは変わりません。ロックバンドでもクラシックのアンサンブルでも、お互いを思いや気持ちが第一であある事は変わらないことです。
 音楽を演奏することは、ある意味で「生きるために必須」なことではありません。なくても人は生きられます。光や空気、水がなければ生命は途絶えますが音楽がなくても生活できます。その「なくても死なない」演奏に楽しみを感じるのは、「知性があるから」です。言ってみれば「遊び心」です。演奏は遊び心が必要だと思います。「命がけの演奏」なんて聞きたくないと思いませんか?悲壮感の漂うコンクールの演奏風景を見ていると、音楽を楽しむ気持ちにはなれません。

 練習を楽しめるのか?と言う素朴な質問を良く耳にします。
私は「楽しくない」と正直に答えます。ならば「人前で演奏するのが楽しいのか?」と聴かれて率直に「はい」と答えるほどの自信もありません(笑)「ならば!なぜ?人前で演奏するのか?」きっと、練習も演奏会も含めて音楽を演奏するのが好きだからなのだとしか答えられません。
 音楽の学校に入学するために練習した時期もありました。音楽の高校・大学で試験のために練習した頃に「練習が楽しい」と感じたことはありませんでした。「合格するため」「良い成績を残すため」に練習していた…のだと思います。
 今、演奏が好きだから練習し人前で演奏する自分は、そんな「若い頃」があったからこそ存在しています。コンプレックスに苛まれ、挫折感を日々感じ、練習しても成績の上がらない年月を過ごしました。
多くの学友がいます。今も第一線で演奏活動を続けている仲間もいます。音楽大学で教鞭をとっている人もいます。クラシックではないジャンルの音楽演奏を続けている仲間もいます。それぞれに「音楽」と未だに関わって生きている人たちです。家庭で家事・子育てや、音楽以外の仕事をしながら「時々」音楽を演奏する人もいます。みんな「音楽仲間」です。
 若いときに味わった「苦さ」こそが年齢を重ねて「味わい」になる気がします。若い頃の「甘さ」は逆にほろ苦くさえ感じます。還暦を過ぎ、後半の人災を「音楽と共に遊ぶ」ことができれば、悔いのない人生のように思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

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