映像は2026年6月6日(土)に八王子の「ロゴス教会」で開催したコンサートの一幕です。「SAKURA」というヴァイオリンとピアノで演奏する作品を作曲された久木山直(Kukiyama Naoshi)氏をお招きし、SAKURAを演奏する前にお話を伺った場面です。
久木山氏と私たち夫婦は同じ大学(桐朋学園大学)の卒業生です。
久木山氏は「作曲専攻」浩子さんは「ピアノ専攻」私は「ヴァイオリン専攻」なので細かい履修内容は違いますが、小さな校舎でしたので学内で顔を合わせることもしょっちゅう。授業でも一部(体育)で一緒に学んでいた「学友」です。
久木山氏のプロフィールを私が偉そうに書くことは余りに失礼だと思うのでこちらでは割愛します。関心のある方はネットで検索してみてください。
今回演奏させてもらった「SAKURA」はFacebookのメッセンジャーに「こういうの書きました。よかったら弾いてみて」と言う言葉とPDFの楽譜データ、さらに久木山氏がDTM(コンピュータで演奏した音楽)も一緒に送られてきました。
私の反応「え?ホントに弾いていいの?」
音源を聴いた第一印象「桜…」の風景でした。音楽的な事より先に「イメージ」で頭が埋まりました。
自分が演奏すると言った手前(笑)次に「どうやって弾こう」と考えます。楽譜を2小節ほど大きなモニター画面に映して覚える作業と並行して「音源」を聴いて覚えます。
動画の中で久木山氏が話している通り「技巧的には」恐らくアマチュアの方でも演奏できる?「譜面=ふづら」です。四分音符と二分音符」だけのヴァイオリンパート。テンポの指示は「モデラート 四分音符=116 4分の6拍子」…ふと疑問。なんで?二分の3拍子にしなかったんだろう?いつか本人に聞いてみようと思いつつ、コンサート当日も聴き忘れました(笑)
さて久木山氏のお話しの中で「気恥ずかしい・シャイ…まぁ多少嘘なんだけど…」と言う部分がありました。演奏する側も作品=楽譜を解釈する時、さらに人前で演奏する時に「照れる」気持ちがどこかにあります。私の場合は自分の解釈や表現、演奏技術に自信が持てないことが一番の原因です。それでも聴いてくださる方の前に出れば「堂々と」「自信たっぷりに」演奏している「ように見える」ように(笑)自分を鼓舞します。鼓舞と言うより暗示をかけます。
演奏は本来「その場で消滅する芸術」です。演奏を聴いた人の「記憶」だけに残るものですが、作曲家の「楽譜」は違います。時代を超えて延々と演奏され続ける「後に残る芸術」です。絵画や陶芸の作品に似ています。ただ大きく違うのは楽譜の場合には演奏者が介在して「音」になって人に聴かれる=音楽になるという点です。絵画は描いた人と見る人の「間」には空間だけがあります。
作曲という特殊な音楽活動がなければ「クラシック音楽」は存在しなかったことになります。「楽譜」があったから300年も昔の作曲家の作品を今、演奏できる。これ、すごいことです。
その楽譜を書く=作曲をする人が「何を思って作曲したのか」と言う想像は演奏者にとってはある意味で「空想の世界」です。作曲者本人が、ある作品についての「思い」や「背景」を文字として残している場合も稀にあります。作曲者自身が演奏したり指揮をした「録音」が残っている近現代の作品もあります。
SAKURAが久木山氏の頭の中でどうやって?誕生して楽譜になったのか。その一端を動画の中で聞くことが出来ます。
この動画の前に私のMCで「作文」を例えに出して話をしています。子供に「自由に作文してごらん」と言うと子供が困る。「遠足の事を書いてみよう」と言えば子供は書きやすい。そんな話をしました。
久木山氏が「遠足」と言っているのはその事です。
さらに興味を持ったのが「ホットではなく秩序のある中で美しい音楽」と言うお話しでした。言われてみれば「感情を表に出した音楽」は演奏しやすく感じます。悲しみ、喜びを感じる曲の多い中でSAKURAは聴く人の想像力をより一層強く刺激する気がします。
もちろん私は「桜」そのものをタイトルからイメージしましたが、タイトルがなかったとしても「静」な中に感じる「動」「規則性」「微妙な変化」から連想されるイメージがあったと感じます。
こちらの動画は「アルヴォ・ペルト」作曲の「鏡の中の鏡」をヴィオラで演奏した時のMCと演奏映像です。もちろん久木山氏もペルトの事はご存知でした。「規則性」と言う点でこの曲は「対照図形」を連想させる曲です。旋律は全音符だけ。ピアノは常に同じリズム。楽譜を見ると一見「なに?これ」と思うほどシンプルですが聴いていると不思議な空想の世界を感じます。
音楽の「種類」を無理にカテゴライズすることに違和感を感じる私ですが、どんな音楽であっても「作曲者」が実在するのが当然でした。過去形にしたのは今後、近い将来にAIが作曲する事が当たり前になれば「作曲者」が実在しないことも当たり前になるかも知れないと考えるからです。「バッハの平均律第1番《風》で短調でメロディーはCからCのオクターブ内。重音はなし。臨時記号は1か所」などの条件を言うだけでAIが作曲する…それを「AIが演奏」する。
確かに人間の学習能力の限界を超えて「記憶」「分析・解析」「処理」を行える人工知能が現実のものになっています。さらに深化・進化すれば人間の感情を分析した結果をもとに「感情の揺れ」も作曲と演奏に取り入れたコンピューター音楽が誰でも使えるようになるでしょう。
作曲「者」演奏「者」が居なくなる時に「聴く人」だけが人間になるのかもしれません。それは止められない事であり時代の文化として当然のことかも知れません。
「曲を作る」「音楽を奏でる」行為は人間の欲求として消えることはない…とも考えます。
聴く人にとって、機械が作曲した音楽を機械が演奏していても、全く気付かない日が必ずやってきます。人間が人間のために考えて作った音楽を、想像力を働かせ時間と労力をかけて演奏する人間。その一人として今現在も音楽に関われている事に感謝しています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ヴヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
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