レッスンに思う

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 今回のテーマは、「レッスン」について。
偶然、ある日本の音楽大学でヴァイオリンを指導するヴァイオリニストの「レッスン」の一部をYoutubeで見ました。その先生のお名前、学校名は伏せさせて頂きます。とても高名なヴァイオリニストで、習う側もコンクールで優秀な結果を出している若者でした。非常に具体的に、一音ごとの演奏方法について「指導」している場面が多く、見ていて違和感を感じたので自分の経験を踏まえて、書きたいと思います。

 ちなみに動画は、マキシム・ヴェンゲーロフのマスタークラス(公開レッスン)の映像です。私はこのレッスンに共感します。
 私の恩師、久保田良作先生は優秀なヴァイオリニストを、本当にたくさん排出された桐朋学園大学「主任教授」でもいらっしゃいました。小学生から音大生、その卒業生までをご自宅と学校でレッスンされ、多忙な先生でした。
 私はその門下生の中で「一番へた」な生徒だったと自覚しています。
自分のレッスン以外にも、前の時間の同門生徒のレッスンを見ることができました。
私が不出来だったこともあるのですが、先生は決して「こう弾きなさい」と言う内容の事はおっしゃらないレッスンでした。生徒が自分で考えて演奏することを、何よりも大切になさっていたように感じていました。
 他方、学内で他の先生の中には、具体的に「この音はこう」「この音のビブラートはこう」と言う「指導」をされていた先生もおられたようです。実際、その先生の門下生の演奏は、「先生の演奏のような演奏」だったことをを記憶しています。私はその当時、そのことに何も感じていませんでした。

 今回、Youtubeでレッスンを見ながら、指導者が「自分の演奏をそのまま教える」ことが、果たしてレッスンと言えるのだろうか?と素朴に感じました。
生徒が師匠の「真似」をしようと研究するのとは、まったく問題が違います。
指導者が自分で考えたであろう、一音ごとの「演奏方法」をそのまま弟子に事細かに教えるのは、弟子にしてみれば「ありがたい」事かも知れません。考えたり研究したり、試したりしなくても「先生の演奏方法」を先生が直接教えてくれるのですから。
 先生と弟子が一緒に演奏している演奏動画もアップされていました。
見ていて正直「不気味」でした。ビブラートの速さ、深さ、固さまでが「そっくり」で、ボーイングの荒々しさ(良く言えば強さ)まで同じでした。「クローン」を見ているようでした。弟子にしてみれば「光栄なこと」だと感じるでしょうが、本当にそれで良いのでしょうか?

 何よりも、演奏方法や音楽の解釈に「正しい」と言うものはあり得ません。人それぞれに、求めるものが違うのが当たり前です。生徒が自分の好きな演奏を考え、その実現方法を模索し、試行錯誤を繰り返すことが「無駄」だとは思わないのです。さらに厳しいことを言えば、指導者が自分の演奏を弟子に「これが正しい」と教えるのが最も大きな間違いだと思います。私はその指導者の演奏を聴いていて「押しつけがましい」印象を受けます。違う言い方をすれば「冷たく、怖い演奏」に感じます。どんな優れたソリストであっても、聴いてくれる人、一緒に演奏する人への優しさがなければ、独りよがりの演奏になります。むしろ「技術だけ」のお披露目であり、演奏者の人間性や暖かさは、どこにも感じないのです。「うまけりゃ良いんだ」という考え方もあります。人間性より演奏技術だと言われれば、そうなのかも知れません。
 ただ、自分の弟子を大切に思うのであれば、目先の「コンクール」よりもその生徒の「考える力」を大切にし、自分よりも多様性のある演奏をしてほしいと、願うのが指導者ではないでしょうか?
 生徒がうまく弾けずに、悩んでいる時に、一緒に悩んであげるのが指導者だと思います。「自分の答え」を教えてあげるのが指導者ではないと確信しています。それは生徒にとっての答えにはなりません。
 私自身が不器用で、不真面目な生徒だったから、私の生徒には私より、もっと上手になって欲しいと常々思っています。私は久保田先生の指導に、心から感謝しています。自分に足りない技術を、自分で考えることを教えて頂きました。
安直な解決方法より、自分で解決することを学べた結果、自分で考えた音楽を、自分で考えて演奏する楽しさを知りました。
 音楽に正解はありません。だからこそ、自分で考える力が必要だと思います。
生徒に教えるべきことは「自分で考えること」以外にないと思っています。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

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