映像はオリンピックフィギアスケート女子シングルで2位になった選手のインタビュー映像です。今回のテーマは序列付け・勝敗について考えるものです。平等という言葉の意味を取り違えると「すべて同じ」が正しいと勘違いします。生き物には個性があります。まったく同じ人間は地球上に存在しません。能力も違います。人間の技術や知識の優劣・序列を決めるケースは日常生活でも珍しい事ではありません。
例えば入学試験は合格者を決めるための序列付けです。もしも試験がなくなれば「くじ」か「じゃんけん」で合否を決めることになります。学校の求める学力や技術の「レベル」は無視されますね。
また勝敗を決める競技の場合には「引き分け」でない限りどちらかが勝者でもう一方は敗者になります。すべての「勝負」で同じことが言えます。一人だけで勝負することは物理的に不可能なことです。
入試であれ勝敗を決める競技であれ、参加する人は自分が不合格・敗者になる覚悟を持って参加します。最初から不合格になる・負けることを望んで参加するのは最近逮捕された変な男性のように「他人を当選させるために選挙に立候補する」ような変人だけです。そんな人に勝っても負けても「胸糞が悪い」と感じるのでは?
話を戻しますが「合格したい・勝ちたい」と思った時から努力が始まります。努力せずに期待する結果を求める人もいるかも知れません。努力の質や量についての基準はありません。人それぞれの価値観で「精一杯の努力」が変わります。他人から見れば「努力が足りない」と思われるケースもあれば「あんなに努力したのに」と思われるケースもありますが、最後に結果が出てから努力について評価しても結果は変わりません。次のチャンスがある人にとっては反省や改善のために「振り返り」は有意義ですが、最後の挑戦だった人にとって負けたこと・合格できなかったことはすべて受け入れなければならない現実でしかありません。「また挑戦すれば」と他人が言えることではありません。本人の決めることです。
さて今度は勝敗・序列のない世界について考えたいと思います。
何よりも「生きること」には勝ち組も序列もないことです。
「社旗の勝ち組・負け組」と言う表現を耳にしますが正直に意味がわかりません。生き方に他人が優劣を付けること自体が間違っています。ホームレスの生活を望む人がいて「負け組」と決めつけるのは自分が勝ち組だと思っている証拠です。国会議員になったら勝ち組?それも価値観の問題です。
そもそも自分が誰かと勝負して勝ちたいと思うのであれば、まず自分以外の人と同じ基準・同じルールで勝負することに同意してもらうことが先決です。勝負を望んでいない人と自分を勝手に比べて「勝った!」って喜びませんよね?独り相撲とはこのことです。
音楽で考えます。音楽高校・大学に入学するための試験を受ける人は不合格になる覚悟を持って挑戦します。不合格になったから音楽を捨ててしまう必要があるでしょうか?いくらでも音楽を学ぶ方法が他にもあります。コンクールに挑戦する人は一位=優勝することを目指しながら他方で予選落ちする覚悟も持っています。
入試では全員が不合格になることはほとんどありません。全員が合格することはあり得ます。受験する人の人数と合格できる人の人数さらに合格のボーダーライン=学校の求めるレベルによって結果は変わります。同じようにコンクールも参加する人のレベルと人数によって結果が変わります。時によって「1位・2位なしの3位」と言う結果も珍しくありません。参加者全員が1位には絶対になりませんが(笑)
「時の運」とも言える結果で受験した・参加した人の結果が変わります。その人の技術・能力の序列は「その時・その場だけ」の結果です。オリンピックでも同じですが優劣を付けるのは「1回だけ」のことかスケートのグランプリシリーズのように年間の順位で序列を決めるもの…つまり「限られた条件での序列」でしかありません。
条件が変われば結果が変わる「程度」の序列に一喜一憂するよりも自分にしかない個性を活かすことにこそ時間と労力をかけるべきだと思います。音楽の表現方法や演奏するプログラムには制約も年齢制限もありません。自分の好きな方法で好きな音楽を好きなように演奏することで誰かが喜んでくれることが演奏する意義だと確信しています。
演奏に序列を付けることは無意味です。主観に序列は付けられません。人間に価値の差を付けるのと同じ行為です。他人に迷惑をかけない演奏であれば、どんな演奏にも価値があります。自分の演奏に自信を持つことは最も難しいことです。誰かより下手だとか、自分の思い通りに演奏できないから「ダメ」と思うのが普通です。その一線を超えた時に新しい表現が出来るものだと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
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