音楽は技術だけで評価する芸術じゃないよ!

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今回のテーマは音楽を演奏する・音楽を聴いて楽しむすべての人たちが共通に感じる「音楽の喜び」を言語化するものです。

 演奏の「うまい・へた」を点数化したり序列化したがる人がいます。私は「人の好み」こそが重要だと考えるので、機械的に技術=テクニックを競い合ったり、序列化することに疑問を持っています。むしろ、この序列化が音楽を純粋に・率直に「好き」と感ずる気持ちを阻害している気がしなりません。少なくとも先入観をあたえる「コンクールの順位」や「他人の評価」が音楽ファンを減らしていることは間違いないと思います。
 例えて言うなら、テレビが視聴率を優先して番組を組み立てることに似ています。人によって「見たい」と思う番組は違います。当然です。すべての人が満足する番組構成は不可能です。スポンサーがあっての放送です。一人でも多くの人が「見てくれる番組」を並べたいと思うのは仕方のないことです。それが「視聴率至上主義」を生みました。ある番組…例えば「旅もの」の視聴率が高ければ真似をする。「食レポもの」の人気があれば真似をする。「芸能人コメンテーター」が当たり前になったのもその一つです。どの放送局も「似たり寄ったり」個性のない番組ばかり。若者のテレビ離れの原因は?これではないでしょうか?

 他人の評価や流行を気にする民族性や文化は、国や時代によって大きく変わります。日本で考えれば「国民的ヒット曲」が消えてからすでに何十年経ったでしょう?
「流行」は他人の評価に影響される「集団心理」と、毎日いつもどこかで耳にする「刷り込み現象」によって、流行の度合いが決まります。ファッションも音楽も「個性を大切にする」より「誰かの真似」が圧倒的に簡単です。
 現代の日本では「誰かの真似」をする人が激減しました。ただ内心では「右に倣(なら)え」というのも日本人の気質です。偉い人の言う事・この大きな人に「従っていれば無難」と言うのも日本字的な考え方です。

 演奏の技術は「自分らしい音楽を表現するため」に高めるものです。人の真似をする技術も「技術」です。清水ミチコさんや、コロッケさんのような「特殊技術」は一朝一夕に身につけられる技術ではありません。観察力が並外れていなければ「本物」と「自分」を比較できません。ただ「真似」であることは事実です。「本物」があるから「真似」ができるのであって、本物が個性的だから「真似」を見ていて面白いのです。個性のない「本物」は誰も真似しないのです。
 個性的な演奏をするための「技術」は、まさに「個性的な技術」であり誰かと比較するものではありません。自分流の演奏方法、自分にしか出来ない技術を身に着けることこそが「技術の習得・修得」だと思います。

 音楽を聴く人にとって「うまいかへたか」を判断する能力や技術・経験は必要でしょうか?コンクールの審査員なら演奏技術を「比較する能力」は不可欠です。先述の通り「好み」を点数化したり序列化することは「脱個性」極論すれば「クローン化」することに近いものです。
コンクールで「いくつの音を失敗したか?」は機械でも数値化できます。人間が審査する必要はありません。
一曲で演奏する「何千」「何万」と言う音を、一度も失敗しないで演奏すると「満点」です。何回演奏しても、満点を出す「ロボット」が世界最高の演奏者ですね(笑)

 間違えない技術より、音楽を知らない人の心をつかむ演奏の方が大切だと思います。音楽評論家の「よいしょ」がなくても「好き」「良い」と感じる演奏があります。聴く人によって違うのです。それが「音楽」です。誰かが良いと言った音楽が「良い音楽」ではないのです。
 幼い子供が「間違えない演奏」をすると「神童」「天才」と呼ばれます。確かに指導者=大人の言った通りに、すべての音を演奏する「記憶力」と「労力」には脱帽します。それが「最高の演奏家」だとは思いません。指導者の考えた「表現と技術」を「真似」している子供を「天才演奏家」と言うのはどこか間違っている気がします。
 子供の純粋な「感覚」を引き出し、素材の美しさ=子供にしか出来ない演奏に「大人の穢れ(けがれ)」を加えないことが「大人の仕事」だと信じています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

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