動画はアイザック・スターンのヴァイオリンと、ヨーヨー・マのチェロによるドッペルコンチェルトです。今回のテーマとどんな関係が?
音楽を演奏する人にとって、知るべき「規則や定義」があります。
ひとつの例が「楽譜」です。楽譜を書き残した人の作品=曲を、音楽にするために共有するルールでもあります。「音楽を聴けばマネできる」のも事実ですが、録音する技術のなかった時代、演奏は「その場限り」で人の記憶にしか残りませんでした。かのモーツァルトが一度聞いた音楽を覚え、楽器で再現できた話。当然聞いたのは「生演奏」です。そして、そのモーツァルトが書いた楽譜のルールは今でも変わっていないことってすごいことです。楽譜という「規則」がなかったら、現在私たちが聴くことのできる音楽は誕生していなかった可能性があります。
子守歌や民謡のように、人から人へ伝えられた音楽もあります。その過程で、少しずつ変わっていくのもこれらの音楽の特徴です。楽譜と言う「記号」で残らなかった音楽です。
自由な音楽とは、どんな音楽でしょうか?自由な演奏とは、どんな演奏でしょう?とても大きな問題です。
ちなみにウィキペディアによると、自由の対義語は「専制」「統制」「束縛」という言葉が出てきます。日常生活の中の出来事で考えると、理解しやすいですね。おおざっぱに言うと「やりたいようにできない」のが自由でないことを指しているように感じます。自分の意志とは別に「抑制」される感覚を伴うことです。ただ、自分の意志のない人にとっては、自由も束縛も感じないことになります。やりたいことの多い人の方が、「束縛」や「不満」を感じるのではないでしょうか?
もし、自由な音楽という定義をするなら、音楽を作る人・演奏する人が、何も制約や束縛を考慮しないで、好きなように作る・演奏する音楽。でしょうか。
そう考えると、私たちが普段演奏している音楽は、自由な音楽に限りなく近い気もします。少なくとも、自分の演奏したい音楽を「自由」に選べる段階で、束縛を感じることはありません。
楽譜に書いてある「記号」「標語」「指示」に忠実に従うことが、自由でないと感じる場合もあります。出版社によって楽譜にかかれている記号や標語が違う場合があります。また、作曲家によって、楽譜に多くの指示を書いた人と、演奏者に任せた人がいます。楽譜と言う「規則」にどこまで従うのか?その規則に反したら、なにが起こるのか?どこまでが「自由」として許されるのか?
個人の価値観によって違うことです。ただ「統制」される音楽が美しくないとは言い切れません。なぜなら「オーケストラ」の演奏は、多くの意味で統制されているからです。練習時間の束縛、演奏するパートの指定、座る位置の指定、指揮者の要求に従うテンポや音量など、好き勝手には演奏できないのがオーケストラです。他人と協調すること、時には妥協することが「嫌」な人は、オーケストラに向いていない人だと私は思っています。いくら技術が高くても、結果的に人の「輪・和」を壊します。誰かを「手下・子分」にしたがる人もオーケストラ向きな人ではないと思うのですが(笑)もちろん、指揮者としても不適格な人だと思っています。誰とは申しません。
レッスンの場に話を移します。
師匠から弟子への「指示」に従うのは束縛と言えるのでしょうか?
師弟関係に「信頼」が必須であることは以前にも書きました。
演奏技術、音楽の解釈などへの「指定」はあって当たり前ですが、プライベートな部分にまで制約を課すことには異論もあります。それが、弟子の将来に関わる「だろう」という思いからの事であっても、行き過ぎた介入はするべきではないと思います。結果的にその弟子が大成したとしても、挫折したとしても、師匠に弟子の将来を決定するような権利はありません。
音楽に限らず自由の中にも「節度」が必要です。言い換えれば「最低限のルール」があるのが社会です。無人島でひとり、生きているのであればルールは自分で作ればいいのですが、家族であれ組織であれ、学校でも社会でも「ルール」の中で自由が認められています。
人として。大人として。
他人に不快感を与えたり、危害をあたえるような「自由」は認められません。
言論の自由、個人の自由。取り違えればただの「わがまま・身勝手」な言動や行為として扱われます。
音楽が人を不快な気持ちにさせるにすることもあります。
特に「押し付け」られる音楽、逃げられない音楽は人を不快にします。
「国民なら国歌を歌うのが当然だ」と言うのも私は疑問を感じます。
それをすべての国民や、子供たちに強制させる「法律」ってありません。
むしろ日本の最高法である憲法で保障されている「個人の思想の自由」を奪う行為です。音楽を押し付けるのも、押し付けられるのも「音楽家」として従うべきではないと信じています。
最後に「身体の自由」についても書いておきます。
健康な人にとって、身体のどこかに「不自由」な部位がある人を「可哀そう」と思うのは、少し間違っています。私自身、眼が不自由ですが、それを自分で「可哀そう」と思ったことがありません。眼が不自由であることが「普通」なのです。身体に不自由な部位があると、不便に感じることはありますが、それも受け入れています。自由に動かせる部位があります。それを使って楽器を演奏したり、音楽を作ったりする「自由」もあります。
何不自由なく生活している人に、不自由な生活をしている人の苦労を創造することは、とても難しいことです。完全に理解することは不可能でも、「思いやる」ことは思い上がりではありません。音楽を聴くことが出来ない障がいを持った人もたくさんいます。その人たちにとって「音楽」ってどんな意味をもつのでしょうか。振動や光で音楽を「伝える」努力をする演奏会もあります。
私たちが楽器を演奏できることに感謝する気持ちを忘れがちです。
自由な音楽は、自由な場所にしかありません。人間が自由であることを意識しなければ、私たちの音楽は消滅してしまうと思います。
戦争反対。平和万歳。音楽を自由に演奏できる世界でありますように。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介