ヴィブラートの種類

 映像はミルシュテインの演奏動画です。数多くの偉大なヴァイオリニストの中で、ヴィブラートが同じ…と言う人たちはいません。当たり前ですが(笑)それぞれに「こだわり」を感じます。YOUTUBEでヴィブラートと検索すると大変な数の「アドヴァイス動画」がヒットします。自分の思ったようにヴィブラートが出来ない人にとって「藁をもつかむ」で動画を参考にするのは賢明なことかもしれません。
ただ残念なことに、どんなに李其ヴィブラートに出会っても、それを他人に伝えることは最終的には不可能なことだと言えます。「音の変化」として真似をすることはある程度可能です。
 身体=筋肉や関節の動かし方を、理論的に解説することは出来ますが、実際に自分の身体の「どの部分に」「どんな力を」「どのくらい」使ってヴィブラートをしているのかを言語化することには限界があります。さらに、それを読み・聴いた人が自分の身体に置き換えて実行することは、さらに無理があります。
 例えるならば、バスケットボールのフリースローを成功させるための「技術」を誰かに完全に伝えることに似ています。もし、完全に言語化でき、誰でも真似を出来るなら、失敗する人はいなくなることになります。

 今回のリサイタルでも、左手の使い方をゼロから作り直しています。現に触れる「指の皮膚」と皮膚の下の柔らかい「肉球(笑)」さらにその中にある「骨」にかかる力を感じることから始めます。
「動き」で考えれば、指先の関節それぞれの動く方向と量を考えます。当然、指に力を入れれば関節の動きは制約されます。抜きすぎれば弦を押さえることができません。親指も同じです。
 手首の動き・手首から肘までの前腕の動き・肘から肩までの上腕の動きにも「筋肉の弛緩と緊張」「動きの方向」ででヴィブラートが大きく変化します。それらがすべて「連動」と「独立」を繰り返すので、言語化さるのは不可能に近いことです。
 自分の耳で「波=ヴィブラートの深さと速さと滑らかさ」を確認し、楽器が揺れる大きさと方向を目と身体で確認します。

 ヴィブラートは1素類ではありません。どの音に、どんなヴィブラートを、いつからいつまでかけるのか?それは演奏者の「こだわり」以外の何物でもありません。
 そこに右手の運動のコントロールが加わることで、さらに大きな変化が生まれます。
 自分の好きな音を出せるまでの、永い道のりを楽しみたいと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

右腕と左手の「分離」

 映像は、ユーディ・メニューインの演奏動画。
私が学生時代にメニューインの書いた演奏技法に関する本を何度も読み返していました。当時は、カール・フレッシュの分厚い演奏技法に関する本もありましたが、両者ともに「理論的」に演奏を解析しているものでした。
当時は「意味わからん」と(笑)内容を把握していなかった気がします。
 現代の若手ヴァイオリニストたちの技法とは完全に一線を画す演奏方法です。大きく違うのは「右腕の使い方」です。もちろん、左手のテクニカルな面でも当時と今では明らかに違います。
 演奏の自由度=音色の多彩さが今とは比べ物にならないほど大きかった気がします。言い換えれば、現代のソリストたちに共通して感じられるのは
「音量」と「正確さ」を競うための技術が優先しているように感じます。
ハイフェッツやオイストラフ、シェリングやメニューインが「技術が低い」のではなく、演奏技術のベースに「音色のバリエーション」が必ずありました。ヴィブラート一つ取り上げても、パッセージや一つ一つの音単位で、速さと深さを変えていました。また、右腕に至っては、まさに「ヴァイオリンの基本はボウイング」だと思わせるものがありました。
 以前にも書いたように、ヴァイオリンは音量の「差=幅」の少ない楽器です。クラシックギターやハープ、チェンバロに比べれば、多少なりとも大きな音量差は付けられますが、ピアノなどと比較しても「音量の変化」は微細なものになります。だからこそ、音色の変化量で補う一面があります。

 今回のリサイタルに向けて、左手の「力」を必要最小限に抑えることを心掛けています。特に親指をネックに充てる力を意識しています。
右手の親指も、無意識に必要以上の力を入れていることがあります。
左手の場合、必要最小限の「運動量」で演奏することで、自由度が増し移動も速く正確になることが感じられました。一方で、左腕の運動が左手につられて小さくなってしまうことに気づきました。
 意識の中で「力を抜く」「無駄に動かない」と考えているうちに、右腕も引っ張られて(笑)運動が手先に偏ってしまう傾向があります。
 演奏し長ら「エネルギー」が欲しい時に、つい両腕に力が入ってしまう。本来は右腕おt左腕は「まったく違う役割」を持っています。当然、力の量も違います。なんとなく、両方の腕に同じ力がかかったり、力が抜けたりするのは「独立=分離」が出来ていないためです。これはピアノでも他の楽器でも同じことが言えるのだと思います。わかりやすいたとえで、ドラムの演奏動画をご覧ください。

身体のすべてが「音楽」「楽器」になるドラマーと言う演奏者を見ると、私の悩みがちっぽけ(笑)に感じます。
 技術は音楽のためにあります。考えることと感じることは、お有る意味で「同じ」またある意味では「別桃の」です。感じたことを表現し、表現したことを感じる連鎖が演奏です。
運動と感性も同じ事です。右腕と左腕が別荷動きなら、ひとつの音を出す。
考えなくても思ったように動かせるようになるまで、考え抜きたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

体力=気力

  映像は14年前、第2回のデュオリサイタルで演奏したエルガーのマズルカ。
今回のテーマは「体力」つまり肉体的な変化と「気力」精神のかかわりについて考えるものです。
 「老化」というとネガティブなイメージを受けますが、どんな生き物にも「寿命」があるのが自然の摂理です。永遠に生きられる生物は地球上に存在しません。生まれてすぐの人間は、呼吸する事・母乳を飲む事・手足を動かすこと・泣くことしかできません。そこから「体」が成長し体の一部である「脳」がより複雑なことをできるように発達します。肉体の成長は一般的に20歳ごろまで発達し、少しずつ低下していきます。その間に感じた「記憶」が脳に蓄積されて、知性・理性が創られていきます。肉体的な「老化」は、脳の老化より早く表れるのが一般的です。もちろん、病気によって脳の働きが低下することもあります。

 楽器の演奏をして消費するカロリーは、楽器によって・演奏する曲によって大きな違いがあります。「運動」であることは間違いないのですが、若い人が1時間、休まずに演奏した時の疲労と、年齢を重ねてからの疲労は明らかに違います。若い頃、練習して疲れたと感じることがあっても、回復も早かったことを懐かしく思い出します(笑)筋肉の疲労がなかなか回復しないのも老化の現れです。疲労が蓄積してしまう結果になります。
 筋力・体力の衰えを補うのが「技術」と「気力」です。力を使わずに演奏する技術と、筋肉に負荷をかけない演奏技術。気力は?脳の働きは衰えていなくても「体が付いてこない」ことで、気力も衰えるものです。
 気力がなくても筋力は下がりませんが「楽器を弾こう」という気持ちがなくなれば、体力があっても練習は出来ません。
 63才になった今、昔のような筋力・持久力はありません。見栄を張っても現実は変わりません(笑)衰えを受け入れたうえで「気力」を落とさないために目標を作ることも大切です。さらに、少しでも「楽に」演奏できる技術を模索することも必要になります。
 著名な演奏家たちが、60才を過ぎても若い頃より素敵な演奏をしていることを考えると、気力と技術が体力の衰えを上回っている象徴だと思います。
体に無理をかけずに演奏する技術を身に着けることは、気力を維持することにつながります。「体力=気力」だと思うのです。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

サーカスではないテクニック

 アイザック・スターン。2001年に亡くなってからすでに20年以上の時が過ぎました。
 2023年の今、世界で演奏しているヴァイオリニストがいる一方で、世を去ったヴァイオリニストたち、スターンやハイフェッツ、オイストラフ、シェリング、グリュミオー、などのように録音や動画が残っている「偉人」たちが数多く存在します。

 歴史に名を遺す演奏家の「演奏」は言うまでもなく、実際に聞いた人の感動が何よりも大切です。時代の変化と共に、録音された演奏での「比較」も大きなウエイトを占めるようになりました。
 演奏を「音楽」として感じるべきなのか「技術」を重視すべきなのか?スターンいわく「完璧な技術でその時の自分の演奏に自信をもって、考えずに音楽に向き合う」と、こんな演奏が出来るそうですが…。技術の高さは音楽に向き合うためにあるものだと、改めて感じる演奏です。

 現代の若手ヴァイオリニストが、昔より高い演奏技術を持っているのは事実です。
だからと言って、彼らが皆、スターンのような演奏をするか?と言えば答えは違います。
 音楽に向き合う姿勢は、その人の「人間性」でもあります。人が考えていることを、他人が完全に理解することは不可能です。その意味で「精神」はまさに固有の財産です。同じ楽譜、同じ楽器で演奏しても、まったく違う演奏になるのは、身体が違うからではなく「考え方」が違うからです。
 技術も人それぞれに固有のものです。スターンの技術は永遠に、彼にしか出来ない技術です。すべてのヴァイオリニストが違った技術を持っています。「速く正確に」演奏することが演奏の「優秀さ」だと勘違いする傾向が年々、強くなっている気がします。
 私が年寄りだから…でもあります。スターンの音楽に惹かれるのは、ただうまいから…ではない気がします。
 スターンがなくなる1年前の演奏動画を見ました。もう往年のテクニックはありませんが「音楽」は生きていました。
 見習いたいともいます。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

楽器を動かさずに演奏する技術

 映像はヤッシャ・ハイフェッツの演奏するウィニアウフスコーのポロネーズ。
 何から何まですごいのですが、どうして楽器が動かないんだろ?と以前から疑問に思っていましたが、今自分が練習していて、「どうして楽器が動くんだろう?」と言う逆の疑問にぶち当たりました。あれ、同じか(笑)
 特に速い運動=ポジションの移動があると、無意識に楽器が揺れ動いてしまう。肩当てをしているのに、楽器と身体を一緒に動かすことは出来ても、楽器の「不用意な動生き」を止めて静止できないのは致命的。
 原因を探りつつ、なんとか楽器の動きを最小限にしたのです。今のところ、左手の親指の問題と、左腕の動き=ぽぞしょん移動のための左右の動きが、左鎖骨周りの筋肉を大きく動かしていることが原因らしいこてゃ判明しました。左腕をネックを「中心」にして回転させる運動で、左肩の骨が動き、鎖骨の前の筋肉が収縮することで楽器の揺れに繋がっています。され…どうやって、この動きを小さくすればいいのでしょう?

肩当て、なしで演奏すれば鎖骨に楽器を「乗せる」だけなので、筋肉の動きに影響されないはず。ただ、今更50年間以上「肩当て」に頼って演奏してきた自分です。できるのか?
 うーん。謎は終わらないのでした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

速い指の動き「得手不得手」

 映像は若かりし日のアイザック・スターン様の演奏動画です。時代を超えて「すごすぎる」テクニックだと思います。
 趣味のヴァイオリニストから、世界一流のヴァイオリンソリストに至るまで、左手の指が6本ある人はいません。指の長さ、掌の大きさなどは人それぞれです。筋力の強さも、人によって違いますし、同じ人でも訓練によって強さと柔らかさを増やすことができます。
 今回のテーマは「左手の速い動き」について考えるものです。私の苦手分野代表選手です(笑)どうして?あんなに速く正確に左手の指が動くんだろう?と言う素朴な疑問を考えてみます。あれ?私が遅いだけ?

 ヴァイオリン・ヴィオラの左手は、他の楽器では考えられない「裏返し」になっていることは以前のブログでも書きました。左手の前腕(肘から手首)を「親指を前方に」回転させて演奏することになり、小指が手前に・人差し指が遠くになると言う「ねじれ減少」が起きています。このために、前腕の外側の筋肉=手の甲から肘までの筋肉が「引っ張られた状態」になり、指の自由度をさらに阻害しています。
 と…ヴァイオリン・ヴィオラを演奏する時の言い訳はここまで(笑)
 速いパッセージを演奏する時の左手の動きを整理します。
1.親指以外の指の独立した速い動き
2.弦を移動する時の指と手首・肘の動き
3.ポジションを移動する際の速い動き
4.上記の組み合わせ
次に「音型=楽譜」での指の動きを整理すると
1.1→2→3→4→3→2→1の順次進行
2..1→3・2→4・1→4のような上行の動き
3.3→1・4→2・4→1のような下行の動き
4.上記の組み合わせ
オープン=開放弦を含むものもありますが、省きました。これらの動きに「移弦」「ポジション移動」の動作が組み合わされる場合も多くありますが、「指の動き」で言えば上記の動きに整理できます。

 言うまでもないことですが、隣り合う指と指の「間隔」が半音・全音・半音+全音のいずれかであることは、ヴァイオリンを演奏した人ならだれでも知っていることです。
 これらの「並び方=隣同士がくっついたり離れたり」によっても、独立した動きのしやすさ・難しさに差があります。ただ、これはある程度慣れれば、速度の差はあまりありません。むしろ「音型の連続」が曲者です(笑)
 例えば「1→3→2→4」を一度引くだけなら早く動かせてもこれを繰り返して「1→3→2→4→1→3→2→4」となってくると、繰り返すうちに「頭がこんがらがる」状態になりませんか?え?私だけ?悔しいので(笑)これは?
「4→2→3→1→4→2→3→1」は?これも平気?がーん……私だって(笑)ゆっくりならできます。速く動かした時の問題です←負け惜しみ。

 人によって動かしやすい「指の順番」が違います。もちろん「速い動き」の場合です。
 ポジションの移動を伴いながら「音階」の上行・下行をする場合を考えます。
 1本の弦で「1→2→1→→2→3」が好きな人と「1→2→3→1→2」が好きな人がいます。前者の方が「ポジションの移動距離」は少なく=狭くなります。後者の場合ポジションを「三つ」上がることになります。問題は最後に到達🅂るう音が「2」なのか「3」なのかと言う問題があることです。。ここで曲が終わるのであれば、どちらの指で終わっても良いのですが、さらにその「続き」もあるのであれば、どちらの「指使い」が良いか?を考える必要があります。
 言い換えると「指使い」を考える時、自分の動かしやすい指の動きだけでは、連続して速く弾けないと言うことになります。

 楽譜で印刷されている指使いは「誰かが弾きやすい」と考えたものであって、すべての人にとって「ベスト」とは言えません。
 自分で考えることです。試すことです。
私自身、ツィゴイネルワイゼンの指使いを「今更」変えて練習しています。過去「偶然に弾けた」のかも知れないと思うと、自分の決めてきた指使いに疑問が生まれます。
 少しでも動きやすく、正確に速く演奏できる指使いを「探す」作業は時間がかかります。出来るようになるまで=考えなくても動くようになるまでには、さらに時間と経験が必要です。一生かかっても!弾けるようになりたいと思っています。「弾けるようになる気がしない」曲でも、もしかすると?いや、必ずいつか弾ける!
 ような気がします(笑)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

柔らかさと安定感と力のバランス

 映像はオイストラフの演奏するブラームス、ヴァイオリンコンチェルト。音色の柔らかさと力強さが大好きです。丸々とした体形はドラえもんチック(笑)ですが、時にシリアスに時にメランコリックに、ダイナミックにも演奏できる技術。憧れます。
 今回のテーマは「柔らかさと「安定感」と「力」について、。関連のなさそうなことですが、演奏する上で身体(筋肉と関節)を動かす時に常に考えなければならないバランスです。

 ます「柔らかい物」で連想するものは?
マシュマロ・プリン・つきたてのお餅←食べ物ばっかり(笑)
 手触りとして感じるものに、ふかふかのお布団やモフモフの猫や犬の毛、泡立てた石鹸などが連想できます。その「柔らかい物」を強い力で押せば?潰れてしまいます。また、柔らかいものを動かせば?ふわふわと不安定な動きをします。
 つまり「柔らかさ」と「力強さ」「安定感」は反比例することになります。
 固いものならば、強い力に耐えることができ、安定した動きを続けることが可能です。
ならば、演奏中の「筋肉・関節」は固い状態=力を入れた状態の方が、安定感と力強さを両立できることになる気がしますよね?実際にはどうでしょうか。

  映像は男子の「床」演技。どの技をひとつとっても見ても、素人の真似できそうな技はありませんが(笑)身体の柔軟性と、スピード(瞬発力)、力技、バランス感覚など人間の肉体が持っている「運動能力」がすべて疲れている気がします。ヴァイオリンの演奏と比較すること自体、間違っている部分もありますが、テーマを考えると?同じことが楽器の演奏にも求められていることがわかります。「固い=安定」ではなく、「柔らかい=與斉」でもないことが見てわかります。
 ヴァイオリニストの中には「見た目には柔らかそう」な動きをしているのに、音が硬く美しさに欠ける演奏になっている人の演奏も見受けられます。「見た目」と「筋肉・関節柔軟性」は別物です。力にしても「表情」や「雰囲気」と無関係にか細い演奏もあります。

 楽器を演奏するために必要な柔軟性と強さは、一般的な秋力や背筋力、体前屈などでは測れないものが多くあります。むしろ、計測できない柔らかさと筋力が必要になります。
 一つの例が、指を「開く筋肉」です。握力は「握る力」ですから真逆の力です。
 また、肘を「伸ばす力」も一般のトレーニング機器ではなかなか鍛えられません。「カール」の逆の力です。外側に開く力でもあります。
 手首を横に動かす可動範囲を広げることも柔軟性の一つです。掌を下に向けて、左右に動かせる角度の大きさです。

 柔らかい動きを作り出すのは「太く柔らかい筋肉」です。同じ筋肉を瞬間的に速く動かす時にも「瞬間的に力を抜かための筋力」が必要です。
 演奏しながら身体の「どこか」が筋肉痛になることがありますよね?間違った使い方でいたいのか?正しい使い方をし始めたから痛いのか?見極めることが大切です。
 筋肉は一朝一夕には太くなりません。柔らかくもなりません。演奏補法を変えれば、今までと違う場所が筋肉痛になるものです。
身体を労わりながら、必要な「ストレッチ」と「筋力の増強」を考えた練習をしましょう!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介
 

ヴァイオリンを「習い」「教える」

 今回のテーマは、自分を戒める気持ちを込めて書きたいと思います。
 ヴァイオリンに限ったことではありませんが、「楽器の演奏を習う」時、師匠(先生)と弟子(生徒・門下生)が存在します。誰にも習わずに、独学で演奏技術を身に着けられる人もいます。それらの人の事を「自己流」と呼びますが、実はどんな演奏かも最終的には「自己流」だと思います。師匠の弾き方を真似をしても、それは「真似」でしかありません。師匠が考えて到達した演奏方法や解釈を「真似」することを「習う」と言うのでしょうか?疑問を感じます。

 芸は盗むもの…古典芸能は「一子相伝」の部分もあります。習って身につくものではないという考え方は、ある意味で的を射ています。「教えてもらえば(習えば)師匠のように出来るようになる」と言う、弟子(生徒の)の安直な気持ちを戒める意味でも正しい事だと思います。

 ヴァイオリンを「習った」私が、今現在生徒さんに「教える」と言う事の意味を考える時に、本当に正しいことを教えているのだろうか?と言う疑問を常に考えてしまいます。
私の恩師は決して音楽を「押し売り」されませんでした。冒頭の長沼由里子さんは同門の尊敬する大先輩のおひとりです。長沼さんに限らず、私の恩師である久保田良作先生は素晴らしいヴァイオリニストでありながら、ご自身のヴァイオリン演奏を弟子に押し付けられたのを見たことがありません。レッスンでは素晴らしい声でフレーズを歌って教えて下さることが多かったのを記憶しています。もちろん、先生ご自身のヴァイオリンを手に取って「サラッと」弾いてくださることもありました。でも、決してその演奏方法を「こう弾きなさい」とは仰いませんでした。
 もっぱら指摘されるのは「形」「力」時に「姿勢」でした。発表会で演奏し終わった後の「天の声」先生からのメモにも「ひじ」「手首」「首」などの言葉が書かれていました。

 演奏の「テクニック」「解釈」も最終的には自己流になります。筋肉の付き方、骨格、柔軟性などが「全く同じ」人は一卵性双生児かクローンでなければあり得ません。
 自分が最も「演奏しやすい」方法で演奏することを「自己流」と考えるのは自然なことです。自分と違う筋力・骨格の生徒さんに、自分の演奏方法で演奏させることが「正しい」とは思いません。生徒さんができ鳴った時に「できなくて当たり前」つまり、自分とは身体の作りそのものが違う事を理解してから指導すべきです。
 習う側…生徒の立場で考えれば「出来ない」原因と「出来ているつもり」で実は出来ていないことを指摘してもらえるのが、レッスンの意味だと思います。
 出来ない原因の多くは、先述の通り「骨格・筋力」の違いと「動かし方の違い」です。以前のブログで書いた「脳からの指令」つまり考えて身体を動かす訓練は、どんな運動にも必要だと思いますが、肝心の「運動能力」はすべての人が違う身体で、違う能力を持っています。
 練習によって出来るようになることなら、教えても良いと思います。ただ、その練習で生徒さんが不必要に苦しんで、さらにストレスを感じ、最終的に楽器の演奏から離れてしまう悲しいことになるケースも見られます。
 「教えてはいけないこと」もあると思います。それは「考えることを省かせる」結果につながる内容です。例えば「音楽の解釈」もっと具体的に言えば「歌い方」「音符の長さ」「ルバート(自由に揺らす演奏)の仕方」などを安易に真似させれば、生徒は考えずにその通りに演奏するでしょう。そして「うん。これが良い」と思えば、教える側も嬉しくなってしまいます。「ネズミにチーズを一切れ与えれば?」当然、次のチーズをもらいたくなります。自分で考えることこそが「自己流」である演奏技術につながることです。
 生徒さんに教えて良い事とは?
哲学的になってしまいますが「真理」だと思っています。どんな人にも共通すること。それは科学的にも肯定されること。それが真理だと思います。人によって少しでも「意義」の違う事や、物理的に違う「筋力・骨格・柔軟性」は教える対象ではないと思います。「これがいいでしょ?」と先生に問われれば「いいえ」とは答えにくいのが生徒です。「よくなったよ」と先生に言われれば嬉しくなるのも生徒です。問題は「生徒自身で考え、行きついた演奏技術」なのかどうかです。成長の途中、上達の半ばにいる生徒にとって「藁(わら)にも縋(すが)る」気持ちになるのは自然なことです。だからこそ、教える側の責任は重たいのだと思います。
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

ヴァイオリンを持ち替えて起こる混乱

 上の写真、私が13歳から50年間愛用しているヴァイオリンと、陳昌鉉さんが晩年作成された(2010年頃)木曽号というヴァイオリンです。木曽号を使っての演奏を、長野県木曽町から依頼されて今回で3年目の演奏会ですが、今回「楽器の微妙な違い」が演奏する際にどんな影響を与えるのか?について「言い訳がましく」(笑)書いてみます。

 演奏技術の中で「楽器が変わっても慣れる技術」があるのかどうか?少なくとも、私のように1丁のヴァイオリンだけで演奏活動をする人間にとって「別のヴァイオリンになれる」必然性がないのは事実です。ただ、多くのヴァイオリニストの皆さんが「買い替える」場合やスポンサーから「貸与」される場合もあります。買い替えれば、それが「自分の楽器」になるのですから、慣れることは必須条件です。またストラディヴァリの楽器を貸与されるようなソリストの場合にも「楽器に順応する」技術が必要です。そのストラディヴァリの楽器を含め「楽器ごとの微妙な違い」があります。

 演奏する上で最も問題になる違いは「ネックの太さ」「正確なピッチを出す位置=駒と上駒(ナット)の距離」「弦高=指板と弦の隙間」です。この他の違い…例えば「重さ」や「ニスの色」などの違いは演奏に関わりません。
 ゆっくりしたテンポの曲であれば、上記の違いはそれほど問題になりません。「狙う」時間があるからです。修正する時間もあります。
 一方で「速い動き=短い音符が連続する」場合にはピッチの安定性が困難になります。
 すべての楽器で「ポジション=弦を押さえる位置」で半音の幅・全音の幅が「ごく僅か」に違います。それを瞬間的に完璧に把握し続けるのが最も難しいことです。

 一つの楽器に慣れるために「必要な時間=練習」は、普段使っている楽器との「差」にもよります。違いが大きいほど、慣れるための時間が多く必要です。
 今回、11月18日に木曽福島で演奏した後、12月17日には地元でのデュリサイタルで「自分のヴァイオリン」を演奏する日程で、あまり木曽号に「入れ込む」のも無理があります。同時期に複数のヴァイオリンで演奏することは避けるべきかもしれませんが、どちらも大切な演奏の機会です。挑戦します!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介

音楽と身体の「同期」と「独立・分離」

 映像は10年前のデュリサイタルで演奏した、サラサーテのツィゴイネルワイゼン。
代々木上原ムジカーザでの演奏です。
 今回のテーマは、多くの生徒さん…特に大人の生徒さんたちが頭を悩ませる内容です。

 まず音楽を演奏する時に使う身体との関係です。どんな楽器でも声楽でも「身体」のどこかを使って音楽を演奏します。コンピューターが自動的に音楽を演奏してくれる状態は「演奏」とは言いません。敢えて言うなら「機械の操作」です。
 音楽を演奏する人にとって、自分の「身体の「どこ」を「どう」動かすのか?そしてそれが「思ったように」動いているか?を常に考える必要があります。「無意識」に身体の一部を動かすこともできますが、まず!自分の意識で筋肉や関節を「思った通り」に動かせるようにする訓練が必要です。
 演奏を「運動」として捉える時に「音楽との同期」を考えることが先決です。わかりやすく言えば「音楽と身体の動きを紐づける」ことです。小さな子供が音楽に合わせて体を動かしたり、首を激しく振ったり、手を叩い理するのも「音楽に合わせて体が動く」ことの表れです。逆の例え話だと、音楽に合わせて手拍子をしている人の中で、少しずれている人が必ずいるものです。

 音楽を聴いて「感じる」もの。耳が聞こえる人なら「音=空気の振動」で、耳の聴こえない人なら「身体に感じる振動」です。
「音」と「音楽」の違いがあります。音は音楽とは限りません。車の走行音、鳥の鳴き声などを音楽とは感じません。音楽に感じるかどうか?は個人差もありますが、ほとんどの人…音楽を普段聞かない人も含めて「音楽」に感じるのは「メロディーに聴こえる音」「和音に感じる音」が聴こえた場合です。メロディーとは「音の高さとリズム」で創られます。
しかも「ランダム=不規則」に音の高さと長さ(リズム)を組み合わせた「音の連続」は音楽に感じる人はごくわずかです。
 また同じ高さの音を同じ長さで、延々と繰り返していると「何かの機会の音」に感じます。電話の「話し中」の音や、アラームの「ピピ・ピピ・ピピ・と言う音に感じます。
 和音は「異なる高さの二つ以上の音が同時になったときに響き」ですから、半音違う二つの音が同時になっていても「和音」です。

「聴きなれた和音」例えば「ドミソ」のような音の重なりを聴くと、音楽を知らない人でも、何の音か?わからなくても「安心感」「親しみ」を感じます。 

 音を音楽として感じられた後の「感覚」として、速さ・強さ・明るさを感じられます。
 速さは「音の長さ・短さ」でも感じますし「拍と拍の間隔」にも左右されます。さらに言えば「楽譜で見た目」の速さと実際の演奏で感じる「速さ」は別のものです。
 冒頭の動画「ツィゴイネルワイゼン」で後半に演奏するヴァイオリンは「速い」と関zる部分です。演奏する「テンポ」を変えれば、遅く感じます。当たり前です。

 音の大きさは「生」で聴く場合と「録音」を再生して聴く場合で全く違います。生で聴く場合も「大ホール」の後ろで聴く場合と「サロン」で目の前の演奏を聴く場合で違います、
 「明るさ」は音楽的に「長調・長音階・長三和音」として判断できる人は限られています。「なんとなく」感じるのが音楽の明るさです。本来「調性」とは無関係の「ゆったりした静かな音」は暗い…と思われがちで、「速く大きな音の音楽」は明るいと勘違いする人もいます。歌詞がある「歌」なら歌詞の内容や歌い方でも暗いと感じる人もいます。

 演奏する人が音楽に合わせて動けるか?感じた「明るさ」「強さ」を身体で表現できるか?を考えます。例えば「振付」や「ダンス」を真似事でも良いので考えることができるか?という事です。激しく速く明るい音楽を「身体全体」を使って表現するとしたら、どんな動きを想像しますか?逆に、緩やかで穏やかな暗い音楽を表現するとしたら?
 まずは「ここから」だと思います。

 自分が演奏するわけですから、自分の「頭の名K」で決めた「速さ・大きさ・明るさ」を自分の身体を動かして楽器を演奏することになります。頭の中にそれらがなければ?ただ、「音が出た」と言う結果だけが残ります。出してしまった音に「同期」することは不可能です。なぜなら「同期」するためには「予測」が不可欠だからです。次に演奏🅂る「音」の「時間」「大きさ」「明るさ=音色」を決めてから演奏することが「音楽との同期」だからです。誰かが演奏する生音楽に、完全に同期させることは物理T劇に不可能です。当たり前ですよね?予測できないからです。「聴こえた音に反応する」のでタイムラグが起きます。つまり「遅れる」か「飛び出す」ことになるのが当たり前なのです。偶然にタイミングが合うこてゃあり得ても、それは「まぐれ」です。同期とは言いません。

 最後に「独立・分離」の話を書きます。
一般に体は「同時に同じ動きをする」ものです。例えば、右手と左手で同じ「グー」「チョキ」「パー」を続けて出すことは誰でもできます。でも右手と左手で、いつも違うグー・チョキ・パーを続けることはものすごく難しいことです。
 ヴァイオリンの生徒さんの多くは「右手と左手」が一緒に動いてしまいます。例えば、弦を押さえるのと同時に「弓を返す」こてゃ出来ても、「先に弦を押さえたり離したりする」つまり、右手が止まった状態で左手の指だけを動かすことが出Kないのが普通です。
 スラーの場合は、右手を動かした状態で左手を動かすので「何とか」出来ても、移弦を交えると右手の移弦の運動とスラーが「分離」出Kません。さらに左手の動きとスラーが無意識に同期=一緒に動いてしまいます。
 私たちが日常生活の中で、左右の手足・指・声・注視するものなどを「バラバラ」に動かしている場面があります。車の運転、自転車の運転、原稿を読みながらのスピーチなどが思い浮かびます。

 運動神経と呼ばれるものにも「瞬発力」「持続力」「反応速度」などがあります。
音楽家に「運動音痴」が多いのも事実です。幼いころ個から楽器だけを演奏し、球技は「柚木を痛めるから御法度」(笑)で育った人も多いので仕方ありません。
 キャッチボール、サッカーをして遊び、縄跳びや跳び箱は小学校の体育の時間に習います。球技の場合は「予測」と「反応」が重要です。ボールが飛んでくる場所を予測し、そこにグローブやバットを出すと言う一連の運動です。
 他人の動きを「予測する」「反応する」ことが求められるスポーツの代表が、ボクシングだと思います。いくら腕力が強くても相手の動きが「読めない」ボクサーは勝てません。
 他人とシンクロするスポーツの一つが「シンクロナイズドスイミング」と「新体操」です。音楽に合わせて全員が「それぞれに」動く。音楽の「拍」を予測する能力と、身体を同期させる技術が不可欠でです。
 スポーツではありませんが「マーチングバンド」の場合にも楽器の演奏をしながら、歩幅を完全に一致させながら「歩く」「曲がる」「止まる」ことが求められます。

 楽器を演奏する時、音楽を聴いて楽しむ場合とは異なる「運動の制御」が求められます。
1.自分が作りだす「体内時計=インターナルクロック」は演奏する前から始動させます。
2.自分が作った「速さ=流れ」が決まったら、音を出す」前」から運動を開始させます。実際に指や弓を動かす運動ではなく「音を出すための予備運動」です。「力を貯める」「動きながら音を出す」「ヴィブラートをかけは踏める」なども予備運動です。
3.音を出しながら次の「運動」を感が増す。当然「今現在、出ている音を聴きながら」の運動です。
4.運動を意識して音を出す練習を繰り返すことで、意識しなくても運動を同期・分離できるようになります。習得に係る時間は様々ですが「必ず」出来るようになります。
5.演奏しようとする音楽・音と、そのために必要な予備運動と実際に音を出す運動、さらに次の音への「リレーション」を、「音色」「音量」「ピッチ」それぞれに考える習慣をつけましょう。
 大切なことは「音を出してから考え・動く」のではなく「考え・運動を開始してから音を出す」ことです。聴いている人には「突然始まる」音楽であっても、演奏者には「その前」が必ずあるのです。

 違う言い殻を擦れば「音を出す目の運動があって音を出す運動につながる」のです。
 手漕ぎボートを想像してください。ボートが進む=動くためには、オールを自分の身体より「後ろ」の水面に沈めなければ、水を「掻く」ことは出来ません。
 演奏中、常に「音」の前に予備運動があり、音を出す運動も様々な筋肉や関節を「バラバラ」あるいは「同時」に動かす技術が必要になります。常に自分が「音の前に居る」意識を持つことが大切だと思っています。

 下の演奏は、作曲者サラサーテ自身が演奏しているツィゴイネルワイゼンの雑音を消去したものです。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

ヴァイオリニスト・ヴィオリスト 野村謙介